《子爵の恋人》  番外編 6


後  編



 息子が回復すると聞くなり、一気に噴き出した心労と疲れから、ローズはその後丸一日臥せってしまった。
 枕元で「やれやれ」とため息をつく夫に、自分は大丈夫だからと微笑み返す。ダニエルさえ無事なら、後のことなど何でもない。

 こうして、ついに『女王陛下のお茶会』の当日を迎えた……。

 顔色が冴えないのは緊張のせいか、まだ疲れが残っているからだろうか。それでもローズは果敢にベッドから起き上がった。
 遅い朝食を取ると、支度にかかるべく自室に入る。メイドに手伝わせて長い金髪を流行のスタイルに結い上げ、届いていたドレスに初めて袖を通してみる。
 今の季節に相応しいパールホワイトの紗のドレスは、彼女にとてもよく似合った。夜会用ではないので肌を隠すスタンドカラーに、ふっくらとひだの入った丸い長袖、すそと襟ぐりにはフリルをふんだんにあしらった上品で優美なデザインだ。美しいコサージュで飾られた帽子を頭に留めると、礼装として完璧になった。

 誉めそやすメイドの言葉を聞きながら鏡に映った貴婦人の姿を確認し、内心ほっとする。
 これなら正装の夫と並んでロイヤルパレス入りしても、さほど見劣りせずに済むかもしれない。

 出かける間際、そろって長男の部屋に顔を出すと、付き添いの看護婦に絵本を読んでもらっていたダニエルが喜びの声をあげた。
 まだ衰弱してはいるが、顔色も随分良くなっている。

「わぁ、お母様、しゅごくきれい」
 その混じりけのない憧れと尊敬のこもった瞳に、二人が優しく微笑み返す。
 息子の様子を確認すると、夫妻は安心して屋敷の前に待っていた二頭立ての馬車に乗り込んでいった。


◇◆◇  ◇◆◇


 そして、ロイヤルパレスでの華やかな午後が無事に過ぎ去ったその夜……。

 女主人の沐浴を済ませナイトガウンに着せ替え終わるや、メイド達も速やかに引き上げていった。

 ようやく一切から解放された気分だった。久し振りに心からくつろいで、ローズは寝室の化粧鏡に向かい、まだ濡れた髪をすいていた。
 宮殿への招待からダニエルの重態……。事件の連続でどうやら緊張し続けだったようだ。

 流れ落ちる豊かな金髪をくし削りながら、今日の午後垣間見た華やかな王宮と、そこでの出来事を思い返してみる。それはまさしく、華麗なるお茶会だった……。


 時間にルーズだとの噂通り、プリンス夫妻は予定よりかなり遅れてロイヤルパレスの準備されたサンルームに登場した。中庭に面した広い部屋に集ったきらびやかな人々の間をゆったりと歩いては、気さくに談笑していく姿は、やはり偉大な大英帝国の長としての威厳に満ちていた。プリンスは政治と経済の話などをサーフォーク子爵とかなり話していかれたし、緊張して傍らに控えていたローズにも賞賛を込めた笑顔で一言二言お声をくださった。自分など、それでもう十分だと思う。
 お披露目された新しい絵もまた、画家の評判にたがわぬ素晴しい芸術作品だった。
 茶会用に特別調合された《女王陛下のブレンド》と呼ばれるお茶をいただきながら、短い間に様々な見聞を広めた。あいにく特に親しい顔は見えなかった。海外からの大使や特使も交えたその日の招待客五十人あまりの貴族と共に、ローズは初めてのロイヤルパレスと香り高いお茶を味わい、取り巻く輝かしい人々を少し複雑な思いで眺めてきた。


 プリンセスのアイスブルーのドレスは申し分なく素晴らしかったし、結い上げず長く垂らした巻き毛と、その首を覆い隠すように巻かれたダイヤをちりばめたゴージャスなチョーカーも、素直に見事だと思った。
 だから、そのチョーカーにまつわる噂を初めて耳にし、内心強い驚きと共に帰ってきたのも事実だった……。

 もちろん、彼女自身悪意ある噂や陰口に少なからず耐えてきた身ではあったが、いつも夫の愛が傍で支えてくれていた。身近にことさらゴシップ好きの人間などいなかったし、夫も、そういう話を軽々しく口にするタイプではない。だからこれまで噂を聞く機会もなかったのだろう。

 プリンセスのダイヤの太いチョーカーの下に隠されているという醜い手術跡と、初夜にそれを見たプリンスの気持が一気に覚めたという話が表面上同情めいた言葉で囁かれているのを耳にし、胸が痛くなった。
 事実、プリンスとはあまり目線も合わさず、いつも少し距離をとっていたプリンセス。さらに対照的なほど華やいだ夫人達の嬌声が、目まぐるしくローズの横を通り過ぎ、それらがまるで宮殿を彩る光と影の織り込まれたモザイク壁画のように、奇妙に鮮やかに印象付いていた。


◇◆◇  ◇◆◇


 小さくため息をついたとき、夫がさっぱりした平服姿で寝室に入ってきた。鏡越しに目が合い、ローズはためらうように目をそらしてしまう。
 何か気付かれただろうか。だが彼はしばらく黙ってこちらを眺めるだけだった。やがてゆったりした動作で、いつものようにテーブルに用意された上質のワインを二つのグラスに注ぐと、ローズの傍らに歩み寄ってきた。

「疲れただろう? それに髪はもうそれくらいで十分だな」

 やんわりこう語りかけながら、彼女の手からブラシを取り上げグラスを手渡す。ローズがワインに口をつけるのを待って、彼はおもむろに切り出した。
「それで……、いったい何が君の心を占めているのか、そろそろ聞かせてもらえるのかい? 実を言えば馬車の中から待ちくたびれて、いい加減痺れを切らしているんだが」

 まぁ、相変わらずお見通しだわ……。
 ローズは思わず苦笑した。夫に隠し事など到底できないといつも思う。
 どれほど気をつけているつもりでも僅かなそぶり一つで、こちらの胸の内が手に取るように見透かされてしまうのだ。

「あなたには本当にかないませんわね。いえ、大したことではないのですけれど……」
 やがてあきらめたように、ローズは半ば真剣に茶色の目を向けた。
「今日の昼間の出来事を思い出していましたの……。その、パレスで皆様からお聞きしたお噂のこと、ですわ……。本当なのでしょうか? 妃殿下はあれほどお美しい方ですのに……。お首にひどい手術跡がおありだと伺いましたけれど、それは妃殿下にとって仕方のなかったことではありませんか? なのにそれをご覧になっただけで、どうして殿下は……」

 そこでためらい口を閉ざしてしまう。この夫に、プリンスが后に愛想をつかし愛人を取替え引き換えかこっているのは本当ですか、などと、聞けるはずもない。
 だが、どこかの年配の公爵夫人が悟りきったように口にした『殿方とは、本当に仕方がございませんわね』という嫌な言葉に、周りの貴婦人方も深々と頷いていたのを思い出すと、さらに少し憂鬱になってしまうのだ。

「どうかしたのかい?」
 さらに続きを促す夫からまた目をそらし、ローズは黙ってもう一口ワインに口をつけた。


◇◆◇  ◇◆◇


 言葉を濁した妻の考えは、今日同じ場所にいたジェイムズにもほとんど理解することができた。
 何年経っても変らない。その純真で生真面目な美しい顔をつくづくと眺めながら、ジェイムズの口元が思わずほころぶ。
 そんな君のすべてが、どれほどわたしを魅了してやまないか、きっと君は永遠に知らないんだろうな、と心の中で呟いてみる。だが口に出しては、からかうようにこう言っただけだった。
「君が王室のスキャンダルに、それほど興味を持つとは意外だね」
「い、いえ、興味があるわけではないんです。ただ妃殿下が少しおいたわしいような気がしましたの。それに……」

 慌てて打ち消しながらローズは口ごもった。そう、もしもわたしの身体にそういう醜い傷がつけば、やっぱり貴方もわたしから心が離れてしまうのかしら……?

「何だい?」
「何でもないわ」
 ごまかすように慌てて飲み干したグラスを化粧テーブルに置くなり、背後から身体に彼の腕が回された。
 あごを持ち上げられ、夫の眼が探るように自分の顔を見下ろしている。思わず目を伏せた途端、唇がうっとりするようなキスでふさがれた。そのまま欲望を掻き立てるように舌で口内をまさぐられているうちに、身体中から力が抜けてしまい、背後の夫にくったりともたれかかった。
 しばらくして彼はようやく顔を上げた。ワインと長い口付けでうっすら紅潮したローズの顔を、笑いを帯びたダークブルーの瞳が見つめている。
 その奥には、いつもの焼き尽くすような情熱がすでに火花を散らし始めていた。

「何を馬鹿げた気を回しているのか知らないがね。主も仰せになっておられるだろう? カエサルのものはカエサルに、ロイヤルファミリーの問題はロイヤルファミリーに任せておけばいいのさ」

 軽くいなした彼に、ローズは「まぁ……」と小さくつぶやいた。
 その咎めるような調子もまったく意に介さず、ジェイムズはローズの手に熱く唇を押し当てると、優雅に彼女を椅子から立ち上がらせた。
 目の前の化粧鏡の中に、寄り添う二人の姿が映っている。それを見つめながら、彼はローズのナイトガウンの小さな背ボタンを楽しむようにはずし始めた。

 はっとして夫に向き直ろうとするが、肩を押さえられてしまう。戸惑う彼女の視線を鏡越しに捉えたまま、彼ははらりとローズの薄いガウンを床に落としてしまった。
 ランプの淡い光の中、鏡に滑らかな白い肢体が挑発的に映し出される。
 息を呑んだローズの姿を彼の熱い視線がしっかりと捉えていた。
 裸身を覆おうと、とっさにあげた手も片手でやすやすと押さえられてしまう。彼がもう片方の手で豊かな胸元を覆う金髪を、ゆっくりとかき上げていくのを、ローズはただ目を見張って眺めていた。

 まるで魅入られたように身動きもできない。やがて夫の貴族的な手が、ほっそりした首筋から露にされた柔らかく豊かな丸みをゆっくりと辿り始めると、思わず目を閉じて、掻き立てられる甘い感覚の悦びに身をゆだねてしまう。
 耳元で低い囁きが聞こえた。

「目を開いて自分の目で確かめてご覧……、君はこんなに美しいのだから」

 促し誘う声と同時に、彼の指先と唇とがすでに知り尽くした彼女の敏感な箇所を、再び探し当てては味わい始める。
 たちまち小さく声をあげ、鏡の中で身をくねらせてとろけそうに熱い吐息を漏らす妻の反応を、しばらく存分に楽しんでいたジェイムズが、とうとう堪えきれないというように激しく身震いした。荒々しくその裸身を腕にすくい上げると、奥にある天蓋つきの大きなベッドに運んで行く。
 彼もまた、自らの衣服をむしりとるように脱ぎ捨て、すでに息を切らせていた彼女の上にのしかかった。
 情熱に燃える青藍の瞳がさらに濃さを増し、薄紅に染まった艶やかな裸身を捉えた。再び深い口付けで彼女を満たしながら、熱意を込めて密やかな探究を再開する。

 その夜更け、彼は彼女が夫の情熱を疑うことすらできない極みまで連れ上り、二人が共にそこから解き放たれる最後の瞬間まで、彼女に息もつかせなかった……。


◇◆◇  ◇◆◇


「……さっきは本当に死んでしまうかと思いましたわ。あなたったら、あんなに……」
「何だい? 最後まで言ってごらん」
「……もういいです」
 あきらめたように目を伏せて、けだるく吐息をついたローズを抱き寄せると、ジェイムズは少し意地悪く言った。
「君がまだわかっていないようだったからね。今のはちょっとした荒療治さ」
「わかっていない? ……何をですの?」
「何があってもわたしには君だけだという基本的な事実さ。5年も経つのにまだわたしが君の外見ばかり見ていると思うのかい? 自分の夫をずいぶん見くびっているものだな」
 まぁ、と言わんばかりに目を大きく見開いた彼女の顔を覗き込み、子爵は優しく微笑みかけた。
「わたしが欲しいのは君のすべてさ。君の聡明で純粋な精神、わたしの子供達や家族への深い愛情、その一切すべてだよ。どうしていつまでもわからないんだい?」

 ローズはただ甘い微笑を浮かべ、降参したというように夫の首に腕を絡ませただけだった……。


〜 fin 〜

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patipati

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12/05/28  更新
これにて【子爵の恋人】全編完了です…(笑)
お読みいただき本当にありがとうございました!
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