《子爵の恋人》 番外 2


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 ロンドンはその頃、まだ蒸し暑い夏の名残をとどめていた……。

 サーフォーク子爵夫妻は、結婚式の後,しばらくの間とどまっていたメイフィールドの荘園から、ロンドンの屋敷に戻ってきたばかりだった。
 その日の午後、書斎から出てきた子爵は、サロンで刺繍をしたり本を読みながらくつろいでいる女達の中に入ってくると、少し申し訳なさそうにローズを見た。

「実は今夜、急にパーティに招待されてしまってね。どうしても断れない相手だから、二人で出席しなければならないんだ。今から準備できるかい?」
 招待を断れないなら、準備するしか道はない。ローズはやや青ざめたが、けなげにうなずくと、自室に引き取った。
 そして、今やレディ・サーフォーク付きの小間使いとなったドロシーと二人、女の奮戦が始まった……。


「やっぱり……、これは、わたしには派手すぎるのではないかしら?」
 ローズが大きな姿見に映る自分を見ながら、もう何度も同じ言葉をつぶやいている。
「これでそのお言葉、もう十回目ですよ。とんでもございません! だいたい奥様は、元々がたいそう地味でいらっしゃったんです。これくらいお召しになって当然です!」
 強く言い切られて黙り込んだ彼女に、ドロシーの言葉の洪水が続いた。
「旦那様は奥様を本当によくご存知でいらっしゃいますわ。このドレスは、奥様のお肌とお目に、とても映える色ですよ。いよいよ社交界デビューなさるんですもの。この日のために旦那様がご準備なさったんですから、是非ともお召しになっていただかなくては! ああ、何だかわたしまでわくわくしてきますわ。パーティでは他のレディ方が、かすんでしまうこと請け合いですよ!」

 『奥様』という呼びかけが、まだしっくり来ない。ローズは、ため息を呑み込んだ。使用人達からそう呼ばれるたびに、とまどっている。
 もういい加減で、新しい立場に馴れなければ。ジェイムズからも、やんわりからかわれているのだ。

「まさか……。とんでもないわ」
 力説するドロシーを見ながら、ローズはため息をついて再び真顔で姿見に向かった。
「わたしはもともと、レディ・サーフォークにふさわしい立場ではないのですもの。目立とうなんて夢にも思わないけれど、子爵様に恥をかかせることだけは、避けたいと思うわ。本当に変ではない?」
「お召し物より、『子爵様』とお呼びになることのほうが、かなりおかしいですよ」
 大きなトパーズの付いたイヤリングを、小首をかしげて留め直す女主人を手伝いながら、ドロシーはそっとたしなめた。この方は本当にご自分のことがわかっておられないのだわ、と微笑ましくなる。あのサーフォーク子爵を射止めたガヴァネスの話は、すでにロンドン社交界でかなり有名になっているらしいのに。

 今ドロシーは、衣裳部屋で散々試着を手伝った末、結婚式の前に子爵から贈られた何枚ものドレスのうちから、これまでローズが絶対に避けていた、金茶色のシルクのドレスを着けさせるのに成功したところだった。丁寧な刺繍を施したスカートはひだとフリルをたっぷりとってあり、上身ごろはフレンチスリーブで、シャーリング入りの深くくれた胸元に、大きな薔薇のコサージュが挿してある。
 もちろんネックレス等の装身具にも、万全の注意を払った。つややかな金髪もかつてより幾分短かったが、流行の髪形がじゅうぶん結える程、伸びてきている。


 そのときノックの音がして、子爵が入ってきた。

「まだかかりそうかい? そろそろ時間だよ」
 黒の正装にオフホワイトのシルクスカーフタイを結んだ彼の印象は、出会った頃とあまり変わらない。
 ただ少し短く切った黒髪をあっさりと後ろに流し、前髪が少し乱れているのがかえってチャーミングに見えた。
 こんな彼をもう何回見たか思い出せないけれど、今でもやっぱりときめいてしまう。
 ドロシーは二人を見てにっこりした。本当にお似合いだわ。しかし何食わぬ顔で、着付けを済ませたレディ・サーフォークをそっと主人の前に押し出した。

「はい、たった今、万端整ったところでございます」
 主人のダークブルーの瞳がたちまち熱っぽく翳るのを見て、緩んでくる頬の筋肉にさっと力を入れると、「では、いってらっしゃいませ」と言うなり、そそくさと部屋から退散した。


*** *** ***


 ジェイムズはしばらく無言だった。熱く全身に注がれる夫の視線を感じ、ローズの身体がだんだんとほてってくる。
 だが、次の瞬間無性に心配になった。やっぱりこんなドレスは、似合わないのだ。ああ、どうしよう。もう一度ドロシーを呼んで、着替える時間があればいいけれど。

 その時、彼の低い声がした。
「素晴らしいよ。だがこの次からは、もう少し肌を隠すようなドレスにしてもらいたいな。ああいう場所では特にね」
 ローズが面食らっていると、彼は大股に歩み寄ってきた。気が付くと、彼女の身体は夫の腕にすっぽりと包み込まれていた。
「ジェイ……ムズ?」
「まったく目の毒だな。こんな君を見ていると、出かけるのをやめて、今すぐベッドへ運びたくなってしまう」
 たちまち赤くなった妻の顔を、二本の指で持ち上げる。からかうようにカーブを描いた唇が、白い首筋に落ちた。ローズはくらりとしたが、とっさに頭をそらせて彼の瞳を見つめ返す。
「たった今、出かける時間だとおっしゃいましたわ」
 子爵は彼女の腰にかけた手をわずかに緩めると、大きな茶色の瞳をのぞきこみ、微笑んだ。
「わかったよ、生まじめな奥さん。せっかく完璧に支度したのに、また、やり直しになるとまずいしね。あとは帰るまでお預けだ」
 その言葉にまたはにかむローズを、愛しくてたまらないとばかりに、もう一度力を込めて抱き寄せた。
「君はかけがえのない宝石さ。ようやく手に入れたんだ。もう絶対に放さないよ」


 繊細なレースのショールを取り上げ、ローズの肩をふわりと覆うと、そのままエスコートして部屋を出た。階下で待っていたマーガレットが目を見張って声をあげた。
「わあ、お義姉様、なんておきれいなのかしら! きっと今日のパーティで一番よ。わたしも一緒に行けたらいいのに、悔しいわ」
 それから得意げな兄をちらりと見やると、ぺろっと舌を出した。
「お義姉様をパーティで他の紳士方にかっさらわれたりしないよう、せいぜい、気をつけて見張らなくちゃね」

「……なんていう口をきくんだ。そんな言葉をどこで覚えてきた? まったく……」
 その場の一同がぎょっと凍りついた次の瞬間、子爵は深いため息をついて、マーガレットの耳を軽く引っ張った。
「いいかい、レディというのは……」
「やたらと、軽々しい口をきくべきではない、でしょ。わかってるわ。でも、ここだけですもの。構わないじゃない。それにお兄様にちょっとご忠告よ。何しろお義姉様しか見ていらっしゃらないことが多いんですもの」
「……子供は、もう休む時間だ」
 苦虫を噛み潰したような顔で、子爵はマーガレットの肩をぽんと叩いた。そして再びローズの腕を取ると、傍らで頬をひくつかせている執事をじろりと一瞥して玄関に向かった。

 マーガレットがさっきまで、ディケンズを読んでいたことを思い出し、ローズはこみ上げる笑いをどうにかかみ殺した。
 そして、少し離れたところでこの世の終りという顔で立っているマーガレットの家庭教師、ミス・ガードナーに、気の毒そうな目を向ける。
 彼女は頭はたいそうよいが、堅苦しく、やや気難しいタイプだ。
 誰にしても、この年頃の女の子を扱うのは、容易ではないだろう。


*** *** ***


 石畳を走る馬のひずめの規則正しい音を聞きながら、ローズは馬車の窓から久し振りのロンドンの街並を眺めていた。

 もちろん領主館でも、お披露目パーティは開いた。けれど、そこに招かれた客達は大抵近隣の名士夫妻で、先代から付き合いのある素朴で気のいい人達だったから、彼女が打ち解けるのも容易かった。
 今度はついに、サーフォーク子爵夫人として、本格的にロンドン社交界に足を踏み入れるのだ。かつてのサーフォーク邸でのパーティを思い返すと、やはり緊張してしまう。
 うまくいくかしら? あまり気負いすぎてもかえって失敗しそうだ。だから、とにかく自分らしくしていよう、そう何度も心に言い聞かせた。


 ローズをしばらく見ていた子爵が、思い出したように大きなため息をついた。
「マギーの奴……。まったく、だんだん突拍子がなくなってくるようだ。やはりわたし一人では女の子の世話は行き届かないものだな。だがこれからは君がいるし、もう少し、レディらしく変わってくるといいがね」
 大げさに顔をしかめるジェイムズに、ローズは微笑み返した。
「あのお年頃ですもの。色々なことに興味をお持ちなのは、当然です。それにわたし、マーガレットさんの率直におっしゃるところも大好きです。別に変わってほしいとは思いませんわ」
「やっと笑ったね」
「……え?」
「そんな深刻な顔を見ていると、こちらまで心配になってくるよ。さあ、君もそのかわいい胸のうちで何を考えているのか、『率直に』打ち明けてごらん」
「まあ、大丈夫ですわ。ただ、ちょっと……気がかりなだけ。あなたに恥をかかせてはいけないと」
「恥だって? おやおや、今夜君を連れて行くわたしが、どんなに誇らしい気持でいるか、まだわからないようだね」
「………」
「君はわたしが知っている中では、最高級のレディさ。もっと自分に自信を持ってほしいな」
「……それはどうも。あなたにはさぞかし、比較の対象がたくさんおありでしょうね」

 妻の声色が少し冷ややかになったことに気づき、ジェイムズは咳払いして話題を変えた。

「今から行くのはレノックス男爵邸だ。男爵は、ロンドンでも屈指の実業家でね。もう六十近い。わたしの父の代からの事業仲間であり、貴重な友人でもある。新しいレディ・サーフォークを早く紹介しろと、メイフィールドにいたときからうるさくせっつかれていたんだ。このパーティは、君の本格的な社交界デビューになるが、あまり周りを気にし過ぎてはいけないよ。いつも通りでいい。わたしにとってはそのままの君が一番なのだからね」

 懸命に落ち着いた素振りをしていても、彼にはお見通しだったようだ。やがて、その視線が結い上げた金髪の下で止まり、むき出しになった白い首筋を、指先で軽くたどり始める。
 ローズは一瞬目を閉じた。こんなに幸せでいいのかしら。
「あなたが一緒にいてくださるんですもの。何も怖くなんかありませんわ」
 夫を見つめ、あでやかに微笑んだ薔薇色の唇。彼は優しくその手を取ると、愛と敬意を込めて口づけた。


*** *** ***


「あら、カミラ。今日はいらしたのね。ご機嫌いかが?」
「先ほど着いたところよ。あなたも相変わらずお元気そうね」
「ねえ、ご存知? この夜会にサーフォーク子爵が奥方を連れてお出でになるそうよ。さっきレノックス夫人にお聞きしたところなの。それはもう嬉しそうに話してくださったわ。ロンドンに帰ってこられたところを、最初に引っ張り出せたって」

 レノックス邸のギャラリーで、そっけなく挨拶を返して行き過ぎようとしたフォートワース伯爵夫人レディ・カミラは、蒼い紗のドレスのすそを翻して立ち止まった。
 噂好きの友人の他愛もない言葉に、関心を引かれたように顔をふり向ける。表向きは何事もないように、にっこり笑ったはずだった。
「いいえ、知らなかったわ。そう……、例の奥方を連れて、ね」
 その令嬢は一瞬、無邪気に目を見張ると、けらけらと若い娘のように笑い出した。
「どうかなさって?」
 レディ・カミラがむっとしたように睨みつける。相手の顔にわかっているわよと言わんばかりの、薄笑いが浮かんだ。

「だってカミラ。あなたの今のお顔を鏡に映してご覧なさい。そういえばあなたも、サーフォーク子爵と昔、お付き合いがあったんでしたわね。あら、ご心配はいらなくてよ。他にもあの方に関心を持っていらした方は何人もいるし、皆様似たり寄ったりのお気持でしょうからね。わたくしも人にとやかく言うほど、野暮ではありませんわ」
「さっきから何をおっしゃってるのか、わたくしにはさっぱりわからないわ。そんな大昔の話、もうとっくに忘れました!」
 そう言い捨てると、カミラはさっさと大広間に向かった。

 広間の一角で、彼女の夫、フォートワース伯爵が、早々と数人の紳士に混じって賭けカードに興じている。その様子を無表情に眺めているうち、ふとその唇からため息がこぼれた。
 五十で先妻に先立たれたこの伯爵の求婚を受け、昨年フォートワース伯爵夫人になったカミラは、有り余る金と暇をもてあましながら、灰色の日々を過ごしていた。
 退屈極まりない夫、退屈極まりない日常。自分の若さと美貌がいたずらにしぼんでいくことに、焦りと苛立ちを覚える。
 つい、かつて恋人だったジェイムズを思い出し、夫と比べてしまうのだ。


 彼と付き合いがなくなった頃から、サーフォーク子爵の浮いた噂もぱたりと途絶えていた。
 その彼が、家名も持参金も持たない信じがたい娘と電撃的に結婚した、という噂が社交界に流れたのは、もうふた月も前のことだ。
 当の子爵本人はまだ領地にとどまっていて、ロンドンに姿を見せていなかったから、真偽はつかめていなかった。
 だが退屈していた社交界では、その噂は格好の興味の的になり、かの独身貴公子がついに陥落した、その相手がまた相手だったので、一層様々な憶測を呼んでいた。

 ジェイムズの奥方は、ガヴァネス出身だとか……。
 カミラの顔に、意地の悪い微笑が浮かんだ。
 ではその方に、彼のことをしっかり教えて差し上げなくてはね。


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12/05/03  更新