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「ほら、あの方」
「あら、意外におとなしそうな方なのね。でも、たしかに……」
「これはまったく美人だな。ロンドンでもなかなかお目にかかれないぞ」

 レノックス邸は、羽振りのよいブルジョアジーらしく最新流行の様式をふんだんに取り入れた瀟洒な屋敷だった。
 到着したサーフォーク夫妻が、ギャラリーから大広間に足を踏み入れたとたん、周囲から低いざわめきが起こる。
 ローズはその場の人々の視線が自分達に集中するのを感じ、思わず足を止めた。

 しっかりして。そう自分にささやく。その広間は、かつてのクリスマスパーティの時と同様、着飾った紳士淑女で溢れていた。彼女にはまだまだ馴染みの薄い輝きだ。
 そして、自分の傍らに悠然と立っている夫は、このような世界でずっと生きてきた人なのだ。こういう場に出るとその違いを身にしみて感じる。

 しかもどうやらジェイムズは、並み居る貴族達の中でも特別な存在のようだった。ローズがその事実を感じ取るまでに、さほど時間はかからなかった。
 もしかしたら、自分がこれまで知っていると思っていた彼は、まだほんの一面に過ぎないのかもしれない。それでも今は、逃げ出したいとは思わなかった。


 注目を浴びながらも、ジェイムズはくつろいでさえいるようで、品位と男らしさに溢れている。
 そんな彼を憧れの目で見つめる若いレディや、豊かな胸元をこれみよがしにのぞかせ艶っぽい微笑を浮かべた夫人達までが、彼に話しかけようと、いたる所で待ちかまえているような気がした。
 つまらない思い過ごし。そう振り払おうとして、我知らず夫の腕にかけた手に力がこもったらしい。ダークブルーの瞳が、物問いたげに彼女に向けられる。
 彼自身はそんな輩に少しも頓着していなかった。その動じない姿にも、ローズは密かに感嘆した。
 祝辞を述べに近付いてくる相手にはその都度立ち止まり、丁寧に受け答えしながら新しいレディ・サーフォークを紹介していく。
 やがて広間の奥にいた貴婦人達の一群の中に、パーティの主催者レノックス男爵夫人を見つけ出すと、足を速めてそちらに近付いていった。



 レノックス夫人は、数人の客達と話していたが、二人に気づくと、声をあげて歩み寄ってきた。
 すっかり銀色になった髪を結ってつばのない飾り帽でとめ、濃いグレイの糸で凝った刺繍を施したパールグレイのドレスを着た小柄で上品な貴婦人だった。

「ジェイムズ。よく来てくださったわね。無理を聞いてくれて本当に嬉しいわ。さあ、まずあなたの大切な方を、じっくりとわたくしに見せてちょうだい」
 そう言いながら、すでに夫人の視線はローズの頭の上からつま先まで熱心に眺め下ろしていた。その目の中に暖かな賞賛の色を読み取り、ローズはほっとしながらお辞儀した。
 夫人は無言でうなずくと、ジェイムズの顔をじっと見て表情をなごませた。
 それから周りを見回し、少し離れたところにいたレノックス男爵を呼び寄せる。こちらも歳相応のいかめしさと気さくな印象を併せ持った好人物だった。

「おお、ジェイムズ。それでは君もついに観念したと見えるな。君がなかなか結婚せんものだから、亡きレディ・エリザベスがあの世でもさぞ心配しとるに違いないと、家内とも話していたほどだよ。それにしても我々を結婚式に招待せんとは何たる薄情者だ。まったくけしからん」

 祖母の名が出た瞬間、彼の表情がわずかに曇ったような気がした。だがその答えから、彼の胸中は何も計れなかった。

「これは、大変ご無礼を。しかし何分にも急なことで、万事は荘園にて執り行いましたので、ごく内輪だけの式になりました。代わりに、我が屋敷でも近々披露パーティを予定していますので、その節はぜひご出席ください」
「まったくですよ。あなたの婚約話も聞かないうちに、結婚したと聞かされて、驚きのあまり引っ繰り返るかと思いました。そんなにお急ぎになるなんて、よほど待ちきれなかったのかしら? さあ、それでは早速あなたの大切な方を、わたくし達に紹介してちょうだい」

 男爵の横から夫人がこうせっついたので、ジェイムズは笑いながら妻の手を取りあげた。
「このたびレディ・サーフォークとなりました、ローズマリー・レイモンドです。何分まだ不慣れですので、いろいろとご指導頂きたいと思います」
 そしてローズの顔を見て、いたずらっぽくこう付け加えた。

「実は、この一年間ずっとプロポーズし続けだったんですが、なかなか色よい返事をくれなかったのです。先頃ようやく承諾してくれたので、またこの人の気が変わらないうちにと、大急ぎで式を挙げた、という訳です」
「ジェイムズ!」
 聞くなり、ローズはぎょっとして声をあげた。
「まあ、まあ、それはそれは……」
 夫人も一瞬驚いたように二人を見比べ、やがておかしそうに笑い出した。頬を赤らめたローズに親しみのこもった目を向ける。
「見上げたものだわ。そんなに長い間この人を振り回したのね。それで今までのことに、ようやく納得がいきましたよ」
「そういう話はあまりこの人には……」
 夫人が感慨深げにうなずいたので、子爵はしまった、というように急いで遮ろうとしたが、ますます楽しそうな笑いを誘うはめになった。

「ジェイムズがここのところ、社交界の見目麗しいお嬢さん方と浮いた噂の一つもなかった理由がこれで飲み込めました。そう、それでしばらくご機嫌がたいそう悪かったのね。まあ、今までたくさんのお嬢さんを泣かせてきたあなたには、いい薬になったことでしょう」
「いや、そんなことは……」
「わたくしの目は節穴ではないのですよ。生憎ですね」

 ローズがちらりと夫に目を向けると、彼も困惑したようにこちらを見返した。横から男爵が愉快そうな声をあげる。
「これは一本参ったな、ジェイムズ。だがね、男が年貢を納める前というのは往々にしてそんなものさ。わしだって、若い頃は派手に……。おおっと、これは失礼。さて、我々が花婿と花嫁を独占していては他のお客人方ににらまれてしまうよ。そろそろ解放してやらねば」
「その前に少しだけ、麗しい奥方をお借りしてもよろしいわね。わたくしのお友達が、ぜひお近づきになりたいと申していますのよ」
 渋る子爵を尻目に、男爵夫人はローズを引っ張って歩き出した。そこで彼女が周りに聞こえないように声を低めて言った。

「ジェイムズの顔が、今日、見違えるくらい明るくて幸福そうで、わたくし本当に安心しました。もうかれこれ一年以上、それまで見たこともないくらい内にこもってしまっていて、誰も手の施しようがなかったの。理由を聞いても何もないと言うばかりで、決して打ち明けようとしないし。どんなに気をもんだことか」

 はっとして、目に苦痛の色を浮かべたローズを見て、夫人はあわてて言い添えた。

「いいえ、あなたをとがめているわけではありませんよ。その、あなたのお立場では事情も色々あったことでしょうから……。実は話を窺ったときはどんな方かと不安もあったのです。でもあなたを見て納得したわ。どうぞジェイムズとお幸せにね」
「……はい。これまでの分も、わたくしにできる限り、精いっぱい勤めます」
 二人は顔を見合わせ、にっこりと微笑み合った。

 だがやはり、すでに自分のことはかなり噂になっているようだ。近付く好奇心に満ちた貴婦人達の顔を見ながら、ローズは心の中で覚悟をきめていた。


*** *** ***


 彼女達の前に立ったローズは、精いっぱいの落ち着きを見せて、優雅に腰をかがめた。
 無遠慮な眼差しにひるむ様子もなく顔を上げているレディ・サーフォークは、まるで遅咲きのみずみずしい薔薇を思わせた。その優美な姿は、着飾ったレディを飽きるほど見てきた名門の奥方達すら、舌を巻いた。
 だが余計に面白くない。場違いを物笑いにしてやろうと思っていたのに、これでは自分達のほうががかすんでしまう。

「皆様。こちらがかのサーフォーク子爵を見事に射止められた、レディ・サーフォーク、ローズマリーですわ。社交界入りなさって日も浅いことですし、どうぞよいお友達になってあげてくださいね」
 何も知らない男爵夫人の紹介に、子爵と同じくらいの年齢と見える貴婦人が、もったいぶった調子で応じた。

「本当になんて美しい方でしょう。さすがジェイムズがようやくお選びになった奥方ですこと。ようやくお目にかかれたのね。わたくし達が皆首を長くして待っていたというのに、さっぱりお帰りにならないから、もしかしたら、もうこちらにはお戻りになれないのかと心配になったほどですわ」
「そうですとも。それに奥方のお披露目もまだだなんて、今度のレディ・サーフォークは何と申しますか、やはりお手際がちょっと……」
 別の夫人がさらに輪をかけて気の毒そうに相槌を打つ。
 ローズが答えようと口を開きかけたとき、背後からそれをさえぎるように、子爵の声がした。

「ここのところ事業で忙しい日が続いていましたのでね。しばらく荘園でのんびりと夏の休暇を楽しんできたところです。ところで今夜はさっそくお目にかかれて、家内もわたしも大変嬉しく思っていますよ、レディ・カリーナ、そして、レディ・マーゴット」

 振り向くと、その場に牽制するような視線を投げている子爵と目が合った。

 ローズはそっと微笑んだ。あなた、来ていたのね。

 とたんに先の勢いもどこへやら、二人の貴婦人は表情をがらりと変え、しきりに睫毛をしばたたかせ始めた。
「何しろ急なお話でしたでしょ。わたくし達本当に驚きましたのよ」
「披露パーティについてはもちろん近々予定して準備中です。何しろ数日前にこちらに戻ってきたばかりで、わたしも子爵夫人もまだ疲れが残っていますのでね。その節はきっと招待状をお届けしますよ」
「そんな……わたくし達は別に」
 おろおろと言い返す二人にそれ以上構わず、子爵は周りがはっとするほど優しい眼差しをローズに向けると、その手を取りあげた。そのとき、向こうのグループから彼の名を呼ぶ声がした。
「では、これで失礼しますよ。友人達が彼女を待っていますので」
 微笑を浮かべて男爵夫人にそう言い残し、彼はローズを連れてさっさと歩き出していた。


*** *** ***


「わたしあれくらい平気です。どうかいちいちお気になさらないで」
 二人きりになると、ローズは小声でたしなめた。
「そうはいかない。君の夫として、ああいう場面を黙って見過ごすわけにはいかないよ」
「何ごとも経験ですわ。以前そうおっしゃっていたのは、あなたでしょう?」
「それはそうだがね……」
 それ以上言わず、妻の手に唇を押し当てる。
「本当に君はこの中の誰よりも魅力的なレディになった。改めて君を誇りに思うよ。ほら、踊りが始まる。行こう」

 そのときまた誰かが二人の方にやってきたので、子爵はしぶしぶ手を離した。
 こ惑的な青いドレスを着た黒髪の貴婦人が、嫣然とした笑みを浮かべて立っている。

「こちらのお嬢さんなのね。あらあら、失礼したかしら。随分お久しぶりですわね、ジェイムズ。わたくしをまさかお忘れではないでしょう?」

 彼女が、今ではフォートワース伯爵夫人になったホランド家のカミラだと思い出すまでに、多少時間がかかった。
 媚びるような顔をちらりと一瞥して、ジェイムズはローズを振り返った。

「ローズマリー、こちらはレディ・カミラだ。フォートワース伯爵夫人でいらっしゃる」
「覚えていただけて光栄ですわ。それにしても本当におきれいな方。あなたの奥様になられただけのことはありますわね」
「はじめまして、レディ・フォートワース」

 どこか気に障る感じだ。けれどそんなことはおくびにも出さず、礼儀正しく挨拶を返したローズに、ふいにカミラは顔を寄せ、ジェイムズに聞こえないようにささやいた。

「わたくしも以前、子爵様とはじっこんにさせていただいていましたのよ。ねぇ、女同士、ちょっと気楽なおしゃべりでもいたしませんこと? 昨今の旦那様についてなど」

 言うが早いかカミラはジェイムズに割り込む暇も与えず、ローズをもっと若い貴婦人達の方へと連れ出してしまった。

 婦人の中に男があまりしつこく立ち入るわけにもいかないが……。それにしてもカミラはいったいどういうつもりだ?
 こんなことばかり続いたら、今夜が終わる前に自分達の間に何か問題でも起こりかねないぞ。

 近付いてきた友人達に囲まれながら、子爵は二人の後姿を眺め、やれやれ、とため息をついた。


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12/05/04  更新
子爵様、ため息ぐらいで済みますかどうか…、次をお楽しみに〜(笑)