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 子爵から十分離れた人の輪にローズを連れてきたとたん、カミラの態度は一変した。

「あなたって……」
 彼女は薄笑いを浮かべて口を開いた。
「穢れのない天使のようなお顔で、抜け目なく殿方をものにする手管だけは心得ていらっしゃるのね。大したものだわ。きっとわたくし達とは違い、世知にも長けているのでしょう。ねえ皆様、その方法をここでぜひ、ご伝授いただきたくはありませんこと?」

 その変貌ぶりとあまりにも醜悪な言葉に、ローズは我が耳を疑った。ただ相手の顔をまじまじと見返す。返す言葉もないとは、このことだ。

「でも、それもそのはずかしら」
 カミラはさも驚いた、と言わんばかりに目を見開くと、周りでくすくす笑っている若い貴婦人や紳士達によく聞こえるよう、声のトーンをあげた。

「新しいレディ・サーフォークはつい先日まで、あるお屋敷で家庭教師をなさっていたと聞き及んでいますもの。実際、前代未聞ではありませんか。美貌のガヴァネスが、降って湧いた玉の輿に飛びついたというわけかしら。でも社交界を相手にするのは、殿方や子供を手玉にとるのとはまったく勝手が違うということを、覚えておかれた方が、あなたの身のためかもしれませんわね。それにジェイムズだって、今は物珍しさがまさっているでしょうけれど、この先いつまで、あなたに満足していられるかしら。あの方は今までもずっと、そうでしたもの」

「………」
「お気に触ったかしら? でもこれは事実でしてよ。わたくし、あの方のことは、それはよく存じておりますの」

 ひどい中傷だった。ローズは強い憤りが身内を駆け抜けるのを感じた。自分だけならまだ我慢もしよう。だが、ジェイムズに対するこの口ぶりは、いったい何だろう。何の権利があって、そんなことを言うのか。
 顔をこわばらせる彼女を見ながら、カミラはまた笑った。だが笑っているのは口元だけで、その目は冷たく、憎しみさえこもっているような気がした。

 これだけ言っても泣き出しもしないなんて。
 目の前の生意気な娘に腹が立ち、カミラは言葉がエスカレートするのを止められなくなってきた。
 ローズの全身を見下ろし、さらに蔑むように付け加える。

「その上なんでも、あなたは持参金さえお持ちにならなかったとか。本当にその身一つでお興し入れなさったそうですわね。さぞや、夜の床では、何万ポンドものお値打ちのあるお身体なんでしょうねぇ」

 自分を娼婦扱いするような言葉。さすがに衝撃を隠せなかった。
 見ず知らずの相手からこれほど侮辱される覚えはない。まして、最愛の夫の名誉にかかわる問題にまで及んでいるのだ。最初は笑っていた人々さえ、今は眉をひそめて成り行きを見守っている。
 いつの間にか周りには、さらに多くの人だかりができていたが、当の二人は周囲に意識を払うだけのゆとりもなくなっていた。

 どうかジェイムズが、この話を伝え聞くことがありませんように……。
 そう祈りつつ、ローズは毅然とカミラの顔を見返した。

「レディ・フォートワース。お話というのはそれだけでしょうか」
 普段は穏やかに澄んだ茶色の瞳が、波立つ感情を反映し色濃くきらめく。

「どんな理由があって、それほどおっしゃるのかは存じませんが……、ご冗談にしても、少々お言葉が過ぎるようですわ。もちろん、わたくしが、ガヴァネスをしておりましたことも、そして持参金を持たなかったことも、こういう場に経験がないということも……」
 ローズはその場の一同にも聞こえるように、一言一言はっきりと口にした。

「先ほど伯爵夫人が、ご丁寧におっしゃってくださった通りです。ですがわたくしはそれを決して恥じてはおりませんし、むしろ誇りに感じているくらいです。おかげで、主人が本当にわたくし自身を必要として、望んでくれたのだということが、よくわかったからです。わたくしは主人を 心から敬愛しております。残念ですが、レディ・フォートワース、あなたとはこれ以上お話することは何もないようですわ。もちろん、本当にまだまだ不慣れですので、不作法がございましたら、どんなことでもお教えいただきたいと思います。それでは夫が待っておりますので……」

「まあ、お上手だこと! さすがガヴァネスだけあって頭はよろしいようね。でも見目形だけで、レディ・サーフォークなんか絶対に務まりゃしないわ。ジェイムズもあなたになどすぐ飽きてしまって、こんな気まぐれな結婚にうんざりするに決まっているわよ」

 それ以上取り合わず、その場を立ち去りかけたローズに、怒ったカミラの声が追いかけてきた。ますます感情的に高ぶってしまったようだ。
 周りのざわめきが大きくなる。


 そのときだった。

 周囲の輪の中にいつからいたのか、それまで黙って見ていた一人の貴婦人が進み出て、待ちなさい、というように、ローズに向かってつと手を上げた。
 新参者の口が過ぎただろうか。また何か言われるに違いない。彼女が再び緊張した瞬間、よく通る思いがけない声がした。

「先ほどから新しい子爵夫人に向かって、無礼千万な口を利いている恥知らずは、いったいどこの大馬鹿者かと思っていたら、カミラ、あなたでしたの。まったく振られ た女のヒステリーほど見苦しいものはありませんわね。そんなものは、ご自分の館だけになさるべきですわ。そちらこそお里が知れましてよ」

 辛らつな口調にもかかわらず、その貴婦人にはまるで王女のような威厳があった。優雅な足取りで近付くと、カミラを見据えながらローズをかばうように間に立つ。
 強い怒りがその全身から、冷たい炎のように立ち上っているのが感じられた。
「本当に気の毒な方ね。ご自分の失敗は、ご自分の胸のうちにとどめておかれたらよろしかったのに」
 あからさまな軽蔑のこもった口調にも、なぜかカミラが黙ったままだ。
 ローズははっとして、貴婦人の滑らかな美しい横顔を見やった。この方は……。

 そう、エルマー邸で出会ったゲイリック伯爵夫人、レディ・アンナだった。


*** *** ***


 アンナはあっけにとられているカミラの顔を、冷たい視線で見据えながら、なおも続けた。
「もう、そのくらいでおよしになったほうがあなたご自身のためよ。あなたはたった今、ご自分で、ご自分の結婚生活の中身をこの場の皆様に暴露したのだと お気付きにならないの? 誰もがそうだと思い込むなんて、本当におつむの程度が窺えますわね」
「ま、まあ、レディ・アンナ……。いきなり何という失礼なことをおっしゃるの?」
「その言葉、そっくりそのままお返ししますわ。先ほどレディ・サーフォークにおっしゃった失言の数々を、ご自分でよくよくお考えになってみることね。わたくしが言っているのは真実よ。それから皆様にもこれを機会に申し上げておきますが……」
 そう言ってアンナはその場の一同をぐるりと見渡した。
「今後、レディ・サーフォークにご無礼をおっしゃるのは、わたくしにおっしゃるのと同じだと思ってちょうだい。二度とお忘れにならないよう、しっかりと覚えておいていただきたいわ」
 そうはっきりと宣言すると、結局一言も言い返せないまま、口をパクパクさせて悔しそうににらみつけているカミラなど、もう忘れたかのように、ローズを振り返った。
 黒い瞳が驚きに目を見張っているブラウンの瞳と出会う。

 その瞬間ローズは、アンナのジェイムズと自分に対する深い友情を理解した。感謝の気持で胸がいっぱいになる。
 アンナはローズの手を取ると、親しみをこめて心から嬉しそうに話しかけた。

「またお会いできましたわね、ローズマリー。あなたのことを、そうお呼びしても構わないでしょう? ようやくレディ・サーフォークにお目にかかれて、 わたくしがどんなに嬉しく思っているかわかって? 早くお祝いを言いたかったから、あなた方がハネムーンからお帰りになるのを、首を長くして待って いましたのよ。さ、こんなところにいつまでもいることはないわ。あちらに参りましょ。ジェイムズがさぞ、やきもきしていることでしょう。わたくしの主人を紹介しますわね」

 そして、後には目もくれず、アンナはローズを連れてさっさと歩き去ってしまった。
 その直後、失笑しながら何事かささやき合う人々の合間を縫うように、顔色をなくしたフォートワース伯爵夫人が、そそくさと広間から出ていった。


*** *** ***


 レノックス夫妻をはじめ、心ある友人達の心配そうな表情に微笑で応えながら、アンナはローズをホールの反対側に連れていった。
 ジェイムズが恐ろしく表情をこわばらせ、むっつりと壁際の椅子に腰を下ろしているのが見える。
 その隣には、白っぽい金髪のがっしりとたくましい体躯の紳士が座って、何か話していた。二人が近付くのを見て、彼らは一緒に立ち上がった。


「首尾よく救出できたようだね」
 金髪の男が、彼女達を見てにやっと笑った。
「ほら。だから、こういうことは彼女に任せておくに限ると、さっきから僕が言ってるじゃないか。彼女の舌にかなう者など、ここには誰もいないのさ」
「あら、いったいどなたのことをおっしゃっているのかしら?」
 アンナが無邪気そうに聞き返しながら、その日焼けした大きな手の甲を思い切りつねったので、紳士は危うくうめき声を飲み込んだ。

 一方、ジェイムズは明らかにほっとしたようだった。じっとローズの顔を見つめながら、片手を取って無言のまま自分のほうに引き寄せる。
 緊張で彼の身体がひどく硬くなっているのが、タキシードの服地越しにも伝わってきた。ダークブルーの瞳が苦痛と怒りで暗く翳っているのを見て、ローズはもう片方の手を彼の頬に当て、大丈夫、というように微笑みかけた。

 そのとき傍らで、軽い咳払いが聞こえた。
「ジェイムズ、まず、奥方に僕を紹介してくれるのが先だと思うがね」
 そう言うが早いか、紳士はローズの手を子爵から取り上げ、軽く唇を押し当てる。

「はじめまして、レディ・サーフォーク。アンナの夫、ゲイリック伯爵カーク・ミルトウェイと申します。どうぞカークとお呼びください。お噂はかねがね家内から聞いていましたよ。あなたにお会いするのが、とても楽しみでした。何しろあなたのおかげで……」
 そう言いながらカークは、傍らの妻とジェイムズをちらりと眺め、いたずらっぽく にやりとした。
「こいつが僕のライバルにならずにすんだ、大恩人ですからね」

 意味がよくわからない、というように小首をかしげたローズに、今度はジェイムズが咳払いする番だった。だがカークはかまわず続けた。
「こいつをここまで引きずってくるのは、まったく大変だったんですよ。何しろさっきは今にも自分で飛び出しかねなかったんだから。だがね、ジェイムズ……」
 少しまじめな顔になってジェイムズを軽くにらむ。
「あそこでもし君が出ていったら、今頃どうなっていたと思う? フォートワース伯爵だって黙ってはいられないだろう? たとえ向こうが悪いにしてもだ。たしかに突然くだらない御託を並べてきたのはあっちだが、そのせいで、名門の二人が細君の名誉のため、手袋を投げ合うはめにでもなれば、ひどく面倒なことになる。愚かなご婦人の問題は、賢明なるご婦人方に任せておくのが一番いいのさ」

 ローズの顔色が変わるのを見て、カークは一つうなずいて見せた。ジェイムズがため息をついて、苛立たしげに前髪をかき上げる。
「……わかってはいたさ」
「それに元はと言えば、自分のまいた種だろうが」
 不機嫌な顔で何ごとかつぶやくジェイムズに、カークは白い歯を見せて笑った。

 カミラと子爵の間に何があったのか、もちろんローズにもおおよその見当はついていた。だが、ことさら夫の過去を詮索したいとは思わない。
 昔がどうであれ、今は間違いなく自分を愛してくれている。それだけでもう充分すぎるほどだから。

 そして、この方もとても魅力的な人だ、とローズはゲイリック伯爵を見ながら思っていた。そう、ジェイムズと同じくらい……。容貌ももちろんだが、人柄がとても気さくでおおらかそうだ。
 さすがレディ・アンナのご主人だわ。それにこの三人は、本当に仲がいいのね……。
 彼らを見比べそんなことを考えていると、カークがおもむろに彼女に一礼した。

「では、レディ・サーフォーク。栄えある一曲目のダンスのお相手を、お願いできますか?」
「はい、もちろんですわ」

 またもやむっとするジェイムズに、ちらりとすまなそうな目線を送り、ローズはカークにエスコートされてホールの中央に歩み出た。
 着飾った人々の中でもひときわ目立つ二人が、軽やかなワルツの楽曲に乗って流れるように踊りはじめると、周囲からため息が漏れる。
 その様子を見ながら、アンナはジェイムズににっこりと微笑みかけた。

「あなたのローズマリーは、カミラの毒舌に少しも取り乱していなかったわ。まるで生まれながらの貴婦人みたいに落ち着き払って、立派に対抗していたの。あの人なら大丈夫。必ず素晴らしいレディ・サーフォークになれるわ」
「ありがとう、アンナ……」
 ジェイムズの表情がふっとほぐれた。
「あなたが味方についてくれたら、文字通り百人力だ」
 アンナがジェイムズの前に、すっと片手を差しのべた。
「では、サーフォーク子爵様、わたくし達も参りましょうか」
「喜んで」

 レノックス家のパーティは、今がたけなわだった。


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12/05/06  更新
ここでめでたく終わりでもよかったんですが、もう一ページあります(笑)
この夜会が引けた後の、二人の夜…。明日更新できると思います。