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 歓楽の余韻を残し、子爵とローズを乗せた馬車がレノックス邸を後にしたのは、夜もかなり更けてからのことだった。

 石畳の夜道にひづめの音が規則正しくこだまする。
 今頃になって精神的にも肉体的にも、疲労が波のように押し寄せてきていた。
 ローズは革張りのシートにもたれかかり、ぼんやりと窓を過ぎ行くガス灯の灯を眺めていた。


「カミラのこと、何も聞かないんだな」

 それまで黙っていたジェイムズが、ふいにポツリとつぶやいた。その名を聞くなり、彼女はびくっとして夫を見返した。
 暗がりの中、表情は陰になって見えない。だが、さっきから痛いほど自分を見つめている視線を感じていた。
 ローズはきちんと座り直すと、伏目がちにゆっくりと首を横に振った。
 彼女がまた持ち前の控えめな、それでいて誰も寄せ付けない頑なな殻の中に閉じこもりかけているのがわかり、ジェイムズは一瞬苛立たしげな表情を浮かべた。
 だがすぐさまそれを押しやると、忍耐強く問いかけた。

「彼女のことを聞きたくない?」
「いいえ……、はい」
「なぜ? 彼女とわたしとの間に以前いったい何があったのか、君は気にも留めてないってわけかい?」
「いえ、そんなことは……。でも、先ほどあの方がおっしゃったことで、もう大体わかりましたもの」

 子爵の声に皮肉な調子が混じったのを感じ、ローズの口元が思わずほころんだ。
 殊更聞きたいとは思わなかったが、やはり心に引っかかってはいたから、彼の方から言い出してくれたことは嬉しかった。

「今夜は不快な思いをさせてすまなかった。彼女が今頃になってあんな馬鹿なことを言い出すとは、わたしにもまったく予測がつかなかったんだ」
 彼は苦々しげに大きく息を吐き出した。

「カミラとは以前たしかに、少しばかり付き合ったことがある。あれは君がまだサーフォーク家に来たばかりの頃だったか……。あの頃のわたしは祖母や親戚連中からしょっちゅう花嫁候補を押し付けられて、うんざりしていた。だがサーフォーク家の当主として、結婚し家の跡継ぎをもうけることは義務だとわかっていたから、色んなレディ達と付き合ってはみたよ。もちろん全ては、君への気持を自覚するまでの話だがね」
 冗談ぽくこう付け加えながら、サーフォーク家の指輪をはめた彼女の左手を取り上げ、両の掌で包み込む。ローズは頬が染まるのを感じ、暗がりに感謝した。

「カミラはその中の一人に過ぎない。幾度か観劇やパーティに同伴したが、わたしにとっては何の意味もなく、関心も持てなかった相手だ」
「でもあの方にとっては、そうではなかったのですわ。わたし……、何だか時々、あなたがひどく冷淡に見えることがあります」
「おやおや、彼女に同情してるのかい?」
「いいえ。むしろ改めて驚いているんです。レディ・アンナもレディ・カミラも、いえ、あの方達だけでなく、そんなにも大勢の素晴らしい花嫁候補のお嬢様方がいらっしゃったのに、そんなあなたが、どうして……」
「好きこのんで一年以上も待って、名もない下級役人の娘と結婚したかって? そんなことはもうとっくに君にもわかって……」

 ローズは夫の言葉をさえぎるように軽く頭を振ると、握られていた手を引き抜いた。そのとき、馬車がサーフォーク邸に到着した。
 御者を待たずに下りようとして、一瞬ふらついたローズを子爵が後ろから支える。
 彼の物問いたげな目を避けるように、屋敷に入るや否やそそくさと自室に引き上げてしまった。


*** *** ***


「さぞお疲れでございましょう」

 ドロシーが女主人を気遣いながら、大急ぎで沐浴の準備を整えてくれたので、手伝ってもらってようやく厄介な背中の飾りひもやボタン、髪を留めたピンをはずした。
 ドレスを脱ぎ、コルセットを取り去ると、心底ほっとする。
 後は大丈夫だからとドロシーを下がらせ、ローズはやっと一人きりになることができた。

 長時間きついコルセットで締めつけていた上、今日の緊張と疲労がどっと押し寄せてくるようで、何だか気分が悪くなっていた。
 これも新しく慣れないといけないことの一つ……。
 そう自分に言い聞かせようとしたとき、脳裏にまた、先ほどのカミラの言葉がよみがえった。

『ジェイムズだって、この先いつまで、あなたに満足していられるかしら。あの方は今までもずっと……』

 目をぎゅっとつぶり、ローズは湯桶に深く身を沈めた。薔薇の香料を溶かした暖かい湯が、身体に心地よく染み透ってくる。
 カミラから言われた数々の雑言のうち、この一つだけが心の中に刺さったまま、残っていた。
 馬車の中で夫と二人きりになった途端に思い出し、そのためなかなかジェイムズの方を見ることもできなかった。
 言われた瞬間は、夫の名誉を傷つけようとする相手への憤りと、レディ・サーフォークとしてのなけなしの誇りが先立ったのだが、悪意ある言葉というものは、遅効性の毒のように知らぬ間にゆっくりと意識の中をめぐり、浸透していくものらしい。気がついたときには、しびれて身動きが取れなくなっている。 

 パーティでの、レディ達が彼を見る目は如実に物語っていた。彼がもし自分に飽きて、他の女性に目を向けてしまったら、相手は掃いて捨てるほどいる。
 考えるのも怖いけれど、いつか自分も彼に望まれなくなる日が来るかもしれない……。

 馬鹿なことを……、とローズは目頭をぬぐいながら自分を叱った。涙腺までがもろくなっているようだ。

 さっさと忘れてしまおうと、髪と身体を洗いながらレノックス男爵夫妻や今日知り合った親切なレディや紳士達、そして助け舟を出してくれたゲイリック伯爵夫妻のことを取りとめもなく考えていった。
 何曲も踊った。若い紳士達の引きも切らないダンスの申し込みを、ついにジェイムズが顔をしかめてさえぎり、彼女が疲れたからと、一足先に引き上げてきたのだ。

 ジェイムズと、もっとたくさん踊りたかったわ。

 そうつぶやきながら、ついに意識が夢心地の中を漂い始める。とても暖かくていい気持……。
 その時、軽いノックとともに部屋の扉が開く音がした。


*** *** ***


 彼女の様子がどこかおかしい……。
 疲れただけならいいのだが。そう考えながら風呂も着替えもできる限り手早く済ませると、ジェイムズは妻の部屋の前に立った。
 彼女が思慮深い茶色の瞳の奥で何を考えているのか、何としても突き止めるつもりだった。ようやく一緒になれた今、二人の間にもはや何ものも立ち入れさせるつもりはない。

 たとえそれが、彼女自身の問題であろうとも。

 軽くノックして扉を開いた彼の目に、頭を浴槽のへりにのせたままことりと眠り込んでいるローズの姿が映った。驚いて一瞬足が止まる。部屋には他に誰もいなかった。
 急いで扉に鍵をかけ、湯桶の傍に近付いた。
 立ち上る湯煙に白い肌が上気してピンク色に染まり、つややかに濡れて薔薇の香りを放っている。たくし上げた洗い髪が数束ほつれて湯の中にふわりと落ちていた。

 見ているうちにたちまち下腹部が反応し、かっと熱くなるのを感じた。
 この美しいニンフのような女性は自分の妻なのだ。そのことをどんなに神に感謝しても足りない。彼女を失っていた間も、どれほど求め焦がれてきたことか。
 胸の奥のうずくような渇きは、まだまだ満たされたとは言い難かった。

 ジェイムズは彼女の髪をそっとかき上げた。そしてなめらかな肩から腕へ手を滑らせながら、優しく名を呼びかける。眠っていたローズが目をしばたかせて身動きした。
 自分が何をしているのか分からない、というようにぼんやりと目の前にある夫の顔を見ていたが、やがて小さく声を上げ、裸身を覆い隠すように腕を交差させた。

「わたしったら、こんなはしたない格好で……。ごめんなさい。いつの間に眠ってしまったのかしら」
「ひどく疲れていたんだな。無理もない。それに何も隠すことはないさ。ここにはわたしだけしかいないんだ。今の君の姿をいつまでも見ていたいところだが、風呂の中で眠っていたら風邪を引いてしまうからね」

 真っ赤になったローズをからかうように微笑を浮かべると、ジェイムズは傍らのタオルを取り上げた。

 だが彼女がおそるおそる立ち上がった途端、彼の微笑は跡形もなく消え去り、熱っぽい真剣な表情がそれに取って代わった。たぎるような欲情が内奥からこみ上げ、全身がこわばってくるのを感じる。もう我慢できない。
 あなたのガウンが濡れるから、と抵抗する彼女を構わず強引に浴槽から抱き下ろすと、広げておいたタオルにくるみこんで床に立たせた。そのままゆっくりと両手を動かし、濡れた身体から水滴を拭き取ってやる。
 そうしながら彼女のこめかみから頬、唇、首筋、肩へと次々にキスを落とし、さらに頭を下げてやわらかな白い肌のいたるところに口づけしていった。
 再び赤くなって抗議しかけたローズも、彼の眼差しに出会った途端、喉がからからに乾き一言も言えなくなってしまう。息がとまりそうだ。

「肩から力を抜いて。そう、何も考えずにわたしにすべて任せてごらん」

 ゆったりした低い声が聞こえ、彼の唇がさらに濃密な熱を帯びる。押し寄せる快感がすべての思考を麻痺させていき、やがてタオルが音もなく床に落ちていた。



 ローズの背が弓なりに反り返り、唇から押さえ切れないように小さな悲鳴がこぼれたとき、彼女の前に膝まずいていたジェイムズの両肩に、細い指先が痛いほど食い込んだ。
 情熱に曇った目を上げたジェイムズは、彼女が大声をあげないよう、必死になって唇を噛みしめていることに気づいた。
 たった今彼が与えた責め苦にも似た激しい悦びに、華奢な身体が痙攣するように震え、今にもくず折れてしまいそうに見える。

 半分閉じられた妻の瞳から、悦びの涙が零れている。彼は満足そうに微笑みながら立ち上がると、ようやくその身体を抱き上げ、部屋の奥の天蓋つきベッドに運んでいった。
 ぐったりと横たわる彼女から一瞬も目を離さずに、自分もガウンを脱ぎ捨て傍らに滑り込む。
 そのまま、大切な宝をめでるように、肘をついてゆっくりと片手を彼女の全身に滑らせていった。

「君はまたきれいになった。前よりももっと……」

 耳にささやく深い声を聞きながら、再び彼の唇に熱く唇を覆われると、全身が柔らかく解けだしていくような気がした。
 夫の愛撫を受けながらまた一つ新しい悦びの扉を開き、それと同時に愛されている誇りがわき上がってくる。
 彼はその熱い身体と手と唇を通して彼女のすべてを絡めとり、彼女の精神にも肉体にも、もはや疑う余地もないほどくっきりと、彼の刻印を刻み込んでいるかのようだった。


*** *** ***


「さっき馬車の中で、いったい何を考えていたんだい?」

 二人の鼓動がようやく静まってきたとき、子爵はローズを腕の中に引き寄せながらこう問いかけた。
 ローズはため息をつき、降参したというように潤んだ瞳で夫を見上げた。カミラの残した小さな棘は、いつの間にか何の力もなくなり、完全に抜け落ちてしまっていた。
 そう、自分は絶対的にこの人のものであり、この人は絶対的に自分のものだ。誰もその間に立ち入ることなどできはしない。

「何も……、本当に何でもなかったんです。ああジェイムズ、あなた……」

 彼女の唇をついて自然にあふれ出した愛の言葉に、子爵がはっと息を呑むのが感じられた。回された腕に再び力がこもり、彼の瞳に小さな火が踊る……。


 やがて、月がロンドンの西空にかかる頃……。
 二人は互いの腕の中に身を横たえ、ようやく満ち足りた眠りの中に落ちていった。


〜 FIN 〜
              

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patipati
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12/05/07  更新
次は、ローズが妊娠中のお話をお届けします〜。