〜 スプリング ブーケ 〜
《子爵の恋人》 番外編 5
PAGE 1
ロンドン 春
穏やかな春の日差しが、ここロンドンのヴォクソール・ガーデンにも惜しみなく降り注いでいる。
その日、庭園では午後の野外音楽会が催されていた。招待された多くの紳士淑女が、着飾って社交の集いを繰り広げている。
サーフォーク子爵夫人、ローズマリーも、交される軽い会話を楽しみながら、その席についていた。
やがて歌い手が心地よいバリトンを響かせ始めると、優しいブラウンの瞳が熱心にそちらに向かう……。
――間違いない。彼女だ。
すそと胸元にレースの縁取りを入れたストライプ地の外出着を着たレディ・サーフォークは、とても優美でほっそりしていた。
彼女が二児の母親だとは、確かに聞いた今でも信じられないほどだ。歌手の歌声に聞き入る表情には、夢見る少女のような微笑が浮かんでいる。
彼はそっと見守りながら、少し離れた席の若い貴婦人達に近付いていった。陽気な軽口を叩きながら、そこに席を占めることに成功する。
これでもっと彼女がよく見えるぞ。雀のようにはしゃぐ二人の婦人達との会話を楽しむ振りをしながら、ちらちらと盗み見る。
何とか気を引くことはできないだろうか。だが、その作戦は成功したようには見えなかった。
ふと、向こうから上品な年配の貴婦人が近付いてくるのが見えた。
彼女の知り合いのようだ。そちらを振り向くと、かぶっているつば広帽に阻まれ、顔がまったく見えなくなった。思わず舌打ちしたとき……。
彼女が嬉しそうに、「レノックス男爵夫人」と、呼びかける声が聞こえた。
*** *** ***
「まだ四月だというのに、本当にいい陽気ですこと。ローズマリー、今日もお一人なの? ジェイムズはまた、どこかを飛び回っているのかしら?」
ローズの隣に腰を下ろしたレノックス夫人は、手にした扇子をゆったりと動かしながら、口を開いた。
「ええ、ここ五日間ほど……。今夜には屋敷に戻る予定ですわ。何でも工場に新しい機械を数台買い入れるとか」
「まあ!」夫人の声が高くなった。
「子爵ともあろう御方が、そこまでなさる必要がどこにあるでしょうね。まったく、事業熱に浮かされた殿方ときたら」
「いつもというわけではありませんの。最近は、特に忙しいようですわ。今まで、あれほど心を注いできたのですから……」
「だからと言って、大事な奥方をほったらかして出掛けてばかりいる、というのは、感心できませんね」
男爵夫人は重々しく首を振った。
「ああいう殿方は、仕事を人任せにはできないのね。もうちょっと、人生を謳歌してもいいのではないかと思うけれど……。そう、せめて、あちらのどなたかの半分でも!」
ことさら語調を強め、夫人は軽蔑のこもった一瞥を、近くではしゃいだ声をあげている若い三人に向けた。
そこには身なりのよい紳士と、彼を囲むように二人の若い貴婦人が、あからさまな戯れに興じていた。軽蔑するような視線にも悪びれる様子もなく、会釈を返した紳士を、あきれたように睨みつけると、男爵夫人はさらに大きなため息をついた。
「まったく最近は、場所柄も礼節もわきまえない者達が増えてきたこと。あのようになれ、とは、決して申しませんけれどね」
聞こえよがしに言うと、少し困ったように見ているローズに向かい、笑顔で話題を変えた。
「ダニエルとケント坊やは、その後お元気でしょうね?」
「ええ、もちろんですわ」
ほっとしたように、ローズの表情がぱっと明るくなる。
「ダニエルなど、乳母を泣かせてばかりおりますのよ。いたずらっ子で、本当に何を考え出すかわからなくて……」
二人の息子の話になると、心からの笑みがこぼれる。まだ三歳と幼いながら、ダニエルはいきなり何をやり出すかわからない腕白息子だった。
先日も、屋敷からいなくなる、という事件を引き起こしたばかりだ。玄関ホールの大きな柱時計の中に、一時間以上ももぐりこんでいて、乳母は泣きわめき、執事や使用人総動員で屋敷中を探し回ったあげく、外に探しに行こうとした矢先、もそもそと時計から這い出してきたダニエルの顔は、決して忘れられそうにない。
子爵が息子を叱った後で、彼女にいたずらっぽく、『わたしも昔、似たようなことをした覚えがあるよ』 と、言ったことは、あえて口にしなかったが。
「そう。あの子はジェイムズの小さい頃にそっくりですからね」
それですべて納得できる、と言うように男爵夫人が大きくうなずいたので、ローズはとうとう笑い出してしまった。
*** *** ***
やがて最後の朗唱が終わり、ローズも立ち上がった。そのとき、この音楽会の主催者であるロッテルダム伯爵夫人が、厳かな様子で人を伴って歩み寄ってきた。
「本日は御招待いただき、たいそう楽しいひと時でしたわ」
礼を述べるローズに、夫人はもったいぶった作り笑いで応えた。
「まさか、もうお帰りになるのではないでしょうね? まだ宵の口ではありませんか。今から、ささやかなパーティもございますのに……。それに先ほどから、あなたにぜひ紹介して欲しいと、この方からせっつかれていたんですのよ」
ローズが傍らの『この方』を見ると、先ほど、なれなれしすぎる態度でレディ達と戯れていた紳士だった。
濃い茶色の髪に黒い瞳。ジェイムズよりも若い。たぶんまだ三十そこそこくらいだろう。タキシードジャケットの下に華やかな模様の刺繍入りベストを着込み、最新流行の形にスカーフタイを結んで、いかにも女性が好みそうな甘いマスクだ。こういうタイプは、社交界の一部の貴婦人達にとても人気がある。
ことさら気にも留めず、もう一度伯爵夫人に視線を戻したとき、紳士が目を輝かせながら、前に進み出てきた。丁寧に会釈すると、やおらローズの手を取って口付ける。
「レディ・サーフォークでいらっしゃいますね。僕はガウディ侯爵の孫で、アーネスト・コリンズと申します」
「はじめまして、コリンズ様」
「どうぞ、アーネストとお呼びください。お知り合いになれてこんなに嬉しいことはありません。二週間前の舞踏会でお目にかかったのですが、覚えておいででしょうか? あの日から、もう一度ゆっくりお会いしたいと思っておりました。今日はついにその望みが叶い、非常に幸運な日です」
有体に言えば、ローズはその紳士などまったく覚えていなかった。おまけに、望みを叶えるなんて、一言も言っていないのに……。
そう思いながらよそよそしく、取られたままの右手をさっと引き抜いた。
「それで、わたくしにどういった御用件でしょう? コリンズ様?」
熱心な相手の態度に、これは挨拶だけでは済みそうにないと観念し、ローズはさり気なく続きを促した。彼を連れてきた伯爵夫人はいつの間にか、他の紳士と話しながら行ってしまった。何か用があるなら、早く聞いてしまおう。子供達が待っているし、数時間後にはジェイムズも帰ってくる。
だが、彼女の心中をよそに、彼はのんびりと薄暮の空を見上げている。
「あなたのお声は、まるで春のそよ風のようですね。うんざりするような退屈な空気を、軽やかに吹き払ってくれる心地よさがある。御覧ください、あの黄昏ゆく空の、輝きに満ちた光をすべて集めて、あなたに……」
「バイロンの詩でも、お読みになりすぎたようですわね」
ため息をついて、ローズは長くなりそうな口上をさえぎった。
「ご用件がそれだけでしたら、ありがたく承っておきますわ。わたくし、馬車を待たせておりますので……」
「お待ちください」
立ち去りかけたローズを慌てて引きとめると、男はおおげさな身振りで、慨嘆した。
「まったく、噂に違わずつれない御方ですね、レディ・サーフォーク。あなたのおかげで、どれだけの男が傷心しているか、あなたご自身、まるでご存知ないときている」
「そのようなゲームは、わたくしなどにお仕掛けになっても、時間の無駄ですわ。誰か他の方にお当たりくださいな」
ローズは笑いをこらえて、さらりと言い返した。これは社交界の退屈した貴族達の間で、ひそかに流行している恋愛ゲームの一種だろう。自分にはまるで関係のないことだ。
すると、相手はむっとしたように顎を引き締めた。
「これは、お顔に似合わず手強い方だ……。よろしい。本題と参りましょう」
いきなり前に回って、歩き出しかけた彼女を立ち止まらせると、軽く咳払いした。
「わたくしの母から、あなたが慈善事業の方面に一片ならぬ関心をお持ちだと聞きました。実は、ある孤児院のことで、折り入ってお話がしたかったのです」
『孤児院』と聞いて、思わず心が動いた。先日も慈善訪問に出かけたレディ・ゲィリックやエルマー夫人が、ロンドン下町の手もつけられないほど劣悪な環境を嘆いていたし、ローズ自身、さまざまな施設を訪問するたび、胸も潰れる思いで帰ってくるのが常だったからだ。
「あなたは教区の教会へのご寄付をはじめ、病院やアルコール中毒者の更生院、孤児院へのお見舞いなども、とても熱心になさっていらっしゃるとか」
「……わたくしではありませんわ。夫のお金ですもの。それに気の毒な方達を助けたいという気持は、クリスチャンとして当然のことではないでしょうか」
「やはりお姿だけでなく、お心も非常に美しいご婦人なのですね」
独り言のように呟いた後、彼はもう一度咳払いして、切り出した。
「実は先日、わたくし達のもとにある牧師が訪ねてまいりました。聞けばその教区内に潰れかけている孤児院があり、さらに追い討ちをかけるように、不幸な火災がありまして、建物が半分も焼失してしまったそうなのです。行くあてもない子供達は残りの建物に、詰めこまれて生活しているそうですが、毛布もミルクも圧倒的に不足しているため、哀れな子供が百人以上も毎晩おなかをすかせ震えているという話でしてね。見かねて、後援してくださる方を探して回っている、というわけです」
「何ということでしょう! ですが……、なぜ、あなた様がご自分でなさらないんですの?」
言葉の真偽を推し量るように、相手をじっと見つめると、彼は両手を上に向けて、大げさに肩をすくめて見せた。
「残念ながら……。わたしには到底手を貸すような余力もないんですよ。侯爵の三番目の息子の、さらに二番目の孫息子でしてね。こう生まれたくて生まれたわけじゃありませんが、運命は皮肉な人生を与えてくれたものです。軍隊に入りましたが、向かなくて二年で退役です。聖職にでも付くかと薦められましたが、あいにく、これも向いていないようで」
確かにそうでしょうね。ローズは内心深く同意した。だが、ほうっておいたら、日が暮れてもしゃべり続けていそうだ。彼女は再度相手を促した。
「それで、孤児院のお話ですが……」
「そうでしたな」 紳士はまた咳払いした。「いかがでしょう? 手伝っていただけないでしょうか」
「お手伝いさせていただきたいのですが……」
夫が何と言うだろう、と考えていると、さらに、
「子供達の親など実にひどいものですからね。あれはジンという安酒のもたらした大弊害ですな。我が子がどこかに行ってしまおうが、構わず真昼間から飲んだくれて、あげくは子供を酒のかたに売り飛ばす、などということも日常茶飯事だそうですからな。口減らしくらいにしか、思っていないんですよ」
「もちろん、そういう現状について少しは存じております。ですが……」
言い淀んだが、突然真面目になった彼の言葉を聞いているうちに、やはりほうっておけない、という気がしてきた。
今の話から察するに、問題は急を要するようだ。だが貴族達は通常、哀れな下層階級の子供達のことなど、ペットの犬ほどにも気にかけてはいない。
牧師が奇特な後援者を探している間に、その子供達が何か伝染病にかかりでもしたら……。
しばらく頭の中であれこれ考えていたが、やがてローズはこう言った。
「よろしければ、わたくしをそこまで、連れて行ってくださいますか?」
「あなたなら、そうおっしゃってくださると思っていました。もちろん喜んで、お連れしますとも」
「それでは、明日にでも……」
気が付くと、こう約束していた。ローズは突如舞い込んだこの話をあれこれ考えながら、ヴォクソール・ガーデンを後にした。
*** *** ***
込み合った街路を走るのに思いのほか時間がかかり、馬車がサーフォーク邸に着いたときには、すでに日もとっぷりと暮れていた。
屋敷に入ったローズは、執事とメイド達が何やら顔を引きつらせているのに気付いた。
「どうかしたの?」
不思議そうに尋ねる女主人に彼らが答える前に、上から皮肉な声が飛んできた。
「随分ゆっくりしたご帰宅だな。夫の留守中、君はいつもこんなふうなのかい?」
はっとして見上げると、平服に着替えたジェイムズが、赤いじゅうたん張りの中央階段の中ほどから無表情に見下ろしている。
五日ぶりに見る最愛の夫の姿に、たちまち心に喜びが溢れ出した。だが彼の言葉にむっとして、足を止めてしまった。
傍らでおろおろしているメイド達をよそに、二人は階段の上と下で睨み合っていた。やがて子爵はローズに、「部屋に来るんだ」と言い残し、さっさと階上に上がっていってしまった。
夫の高飛車な態度が気に障り、ローズはわざとゆっくりと階段を上り始めた。
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12/05/15 更新
少し波乱含みに始まりました(笑)
全5話ですので、またお付き合いくださいです〜。