〜 スプリング ブーケ 〜


 《子爵の恋人》  番外編  5

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 女主人の着替えを手伝おうとついてきた小間使いを下がらせると、ローズはゆっくりと部屋に入っていった。
 ジェイムズは、革張りのカウチでくつろいでいた。だが、機嫌はあまりよくないようだ。彼女に目を向けても、むっつりした顔で押し黙っている。

 ひどくお疲れなのかしら? 
 帽子を脱いで化粧テーブルに置き、ローズは落ち着きはらって夫の前に立つと、やや堅苦しく口を開いた。
「お帰りなさいませ、あなた。お疲れ様でした。お早いお戻りでしたのね」
「五日ぶりだからね。だが、どうやら早く帰らない方がよかったようだな」

 まぁ、本格的だわ。困ったように小首をかしげて見せる。

「もしや、わたしの帰りが遅くなったので怒っていらっしゃるの? 前もってお帰りになる時間を知らせてくださっていたら、わたしも出かけたりしなかったのですけれど……」
「出かけるな、と言ってるわけじゃない。それにしても、こんな時間までどこにいた?」
「ヴォクソール・ガーデンです。午後からロッテルダム夫人の野外音楽会に招待されていましたの。もっと早く戻るつもりだったのですが、ある方から……」
「ある方?」
「いえ、み、皆様といろいろ、お話が弾んでしまいましたので、その……」

 機嫌の悪い夫に、突然孤児院の話を持ちかけてきた風変わりな貴族のことなど話すのも、はばかられるような気がした。
 ためらって口ごもっていると、ふっとジェイムズの表情が和む。
 ほっとした途端、手首をつかまれてぐいと引き寄せられた。気が付くとローズは夫の膝の上に横向きに座っていた。
 目を丸くして見上げると、笑みをたたえたダークブルーの瞳がつくづくと自分を見つめている。
 まるで夜の海のように底知れず、強い意志と情熱が色濃く宿った眼差し。もう見慣れているはずなのに、間近にするとまだどきりとする。
 無意識に舌先で唇を湿したとき、たまらないというように一つため息をついて、彼の唇が覆いかぶさってきた。
 キスも五日ぶり。鬱積した思いをぶつけるように、痺れるほどの熱とともに背中に回された腕に力がこもった。痛いくらい抱き締められ、ローズが漏らした小さなあえぎも、巧みな舌先に絡め取られてしまう。
 やがて、彼女の手がシャツを這い上がり、夫の首筋にしがみついて、さらに身体を寄せていった。キスを続けながら彼がもどかしそうにドレスの襟ボタンを外し、露わになった白い喉元から脈打つ敏感なくぼみまで唇が滑っていったとき……。

「お父しゃま、お母しゃま! お帰りになったんでしょう?」
 ノックの音とともに扉の向こうから、長男ダニエルの元気な声が聞こえてきた。二人はぎくりとしたように顔を見合わせ、瞬時に身体を離して立ち上がった。
「今開ける!」
 扉に向かって唸るように答えた後、ジェイムズは苦笑した。
「まったく、来るタイミングをよくわきまえている奴だ」
 はにかみながらドレスを整えている妻の頬をなぞり、優しく微笑みかけた。
「この五日間、君の顔が見たくてどうにかなりそうだった。離れているのは、これくらいが限界だな」

 そして子爵は、扉を開くや勢いよく飛び込んできた我が子を、両腕に抱き上げてやった。


*** *** ***


 その夜、夫妻は早々と部屋に引き取っていた。

 窓から差し込む月明かりが、室内を銀色の光で満たし、壁に黒いシルエットを浮かび上がらせる頃、二人は天蓋付きの大きなベッドに横たわり、激しい情熱に身を任せた後のけだるいひと時を漂っていた。

 ローズの解いた金髪がベールのように白い首筋から豊かな胸元へと流れ落ちている。背を向けた妻の裸身を胸にぴったりと抱き寄せて、ジェイムズはそのクリームのような滑らかな肌を、長い指と手のひらで優しく、そして飽くことなく探索し続けていた。
 彼の指先が巻き起す甘美な快楽に浸り切るように、ローズも全身の力を抜いてじっと目を閉じていたが、ふと思い出したように、寝返りを打つと、夫に向き直った。
「ねえ、あなた……」
 今日の夕刻以来、気にかかっていたことを、ようやく問いかけてみる。

「アーネスト・コリンズさん、という方をご存知でしょうか? ガウディ侯爵様のご親族の方だと伺いましたけれど」
「……おやおや。名前くらいは聞いたことがあるよ。どうしてそんなことを?」
 ジェイムズの眉が上がり、半ばあきれたような、いぶかしむ表情になった。だが、先刻の奇妙な会話を思い返しながら、物思いにふけっていたローズは、急に冷ややかになった夫の口調に気付かない。
「実は今日、ヴォクソール・ガーデンでお目にかかって、はじめてお話したんです。まだお若くて、それに随分ロマンティストですわね。火事にあった孤児院の再建に関心をお持ちのようでしたけれど、どこまで本気でおっしゃっているのか、よくわからなくて……。なんだか不思議な殿方でしたわ。まるで……、きゃっ」

 ふいに身体に回されていた彼の腕にぐっと力がこもった。再び乱暴にのしかかられ、ローズは小さく声を上げた。
 驚いて見上げると、ジェイムズが怒ったように目を細めている。
 あっと思う間もなく力強い身体の下に組み敷かれ、再び激しく唇を奪われていた。唇から入り込んできた巧みな舌に責め立てられ、言葉も思考すらも、たちまち脳裏の片隅へと吹き飛ばされてしまう。

 その華奢な身体が小刻みに震えだし、息も絶え絶えに彼を求めて懇願するまで、指と唇とで身体中の敏感な部分に愛撫を加え続けていった。やがて、彼女が限界に近付いたことを感じとったようにしなやかな脚を開くと、容赦なく奥深くまでわけ入ってくる。
「目を開けて、わたしを見るんだ。ローズマリー」
 あごを掴まれ荒々しく促される。固く閉じていた瞳を恐る恐る開くと、ほとんど黒ずんだ夫の目が、彼女の顔を食い入るように見下ろしていた。
 先にもまして激しい、粗暴なまでの愛の交歓の中で、汗ばんだ二つの身体がもつれるように折り重なって、最も深いところで一つに解け合っていく。

 ついに、全身が粉々に砕け飛ぶような衝撃が訪れた。この大嵐の前には、レディのたしなみも慎みもまったく役に立たなかった。きれぎれに叫び声をあげながら、たくましい夫の肩に夢中でしがみついたとき、彼の身体が大きくうねって、彼女を完全に満たし尽くした。


 意識が戻ってくると、ローズは今の行為の奔放さに、顔から火が出るような思いだった。やっと少し動けるようになるや、まだ息を乱しながら身を起こし、ベッド脇に放り出されたナイトガウンを拾い上げようと手を伸ばす。
 だがそこで、ジェイムズに再び易々と引き戻されてしまった。小さく抗議の声を上げてあらがう妻を、しっかりと抱き寄せると、彼は目を閉じて満足そうに呟いた。

「他の男の噂話なんか、間違ってもベッドの中まで持ち込むものじゃないね。今のはほんのささやかなお仕置きさ。それじゃお休み、可愛い奥さん」


*** *** ***


「それで……、まだ膨れてるのかい? 夕べは、いったい何を言いかけたんだ?」

 翌朝、子爵はいつになく黙りこくっている妻と、ほとんど無言の朝食をとりながら、ついに業を煮やしたようにこう尋ねた。
 だがローズは、テーブルの向こうからちらりと夫を見返しただけで、素っ気なく「なんでもありません」と答え、さっさと食事を終えると、自室に引き上げてしまった。
 その後姿を彼はしばらく無言で眺めていたが、やがて背後で口元をひくつかせている執事を振り返って、じろりと睨みつけた。
「今日は一日書斎にいる。誰も取継ぐんじゃないぞ」


 一人になると、安楽椅子にもたれ、葉巻をとり出しながら考え込んだ。
 やれやれ、いったい何だと言うんだ? マーガレットでもいれば、彼女の機嫌も直るかもしれないが、あいにく妹も今は寄宿学校に入っている。
 しばらく経った頃、書斎の窓の下に一頭立ての小型馬車が準備された。質素な服装のローズが、どこかへ出かけていくのを、子爵は眉をひそめて見送っていた。


*** *** ***


 約束の場所に現れた小型馬車に目を輝かせたアーネスト・コリンズは、子爵夫人のその日のいでたちを見るなり、ひどく戸惑った表情になった。

「本当にお越しいただけるとは、光栄です。麗しの子爵夫人……。しかし本日は、また何と申しますか。何かの仮装ですかな? それではまるで……」
 女教師のようだ、という言葉を、彼はからくも飲み込んだ。彼も昨日よりは地味だったが、今日のようなレディ・サーフォークを見るのは初めてだ。
 パーティや社交場でいつも見かける華やかな礼装とは打って変わった、飾り気の一切ない紺色の地味な服に、小さな帽子だけ。だが、そんな格好をしていてさえ、身についた気品は隠しようがなかった。
 半ば感心していると、彼女がにっこりと微笑んだ。
「郷に入っては、郷に従えと申しますわ。お待たせいたしました。それでは参りましょう」


 ネルソン提督の肖像、あるいはもっと単純に鐘や盾、軍馬の絵などが描かれたパブや宿屋の看板が、軒下にいくつもぶら下がったロンドンの商店街。馬車が行きかい人通りも多く、いつも陽気な賑わいを見せている。
 サーフォーク家の御者が操るポニーに引かせた小さな馬車は、ウッドストリートからさらに、下町へと入っていった。
 次第に空気が変わってくる。一面にすえたような臭気が漂い、ひび割れたレンガや石造りの建物が、ごみごみと立ち並びはじめた。
 ある窓辺には洗濯物がかかり、街頭にはぼろを着た浮浪者が、真っ赤な顔で酒瓶を抱えて千鳥足で歩いていく。悪名高きイーストエンドほどではないにしても、下町の風景はどこも似たようなものだ。
 上流層の暮らしが光に満ちたものであればあるほど、影もなお一層濃く深くなるようで、その現実を正視することさえ、しばらくかかるほどだった。

 御者が悪態をつくほど次々と近寄ってくる物乞いの子供達に、馬車の窓から手を出して財布にあるだけの硬貨を一枚一枚与えながら、ローズは暗澹たる気持ちになっていた。
 さらに夜になれば、この通りにも何十人もの女達が立って、通りすがりの小金持ちを相手に客引きをはじめる。地方から貧しさに耐えかねてロンドンに出て来ても、結局職もなく、何万人もの女達が最後にはそんな暮らしに流れ着くと聞いている。中には救貧院に運ばれる者もいたが、そこも環境の劣悪さでは引けを取らない。


 道が細くなりそれ以上進めなくなると、路上に馬車を止めさせ、ローズはコリンズとともに歩きだした。
 馬と馬車を盗まれないようしっかりと鎖でつないでから、御者が帽子を手でもみくちゃにしながら、泣きそうな顔で付いて来る。
「奥様、こんなところに奥様をお送りするなんて、旦那様に知れたら、あっしは即刻首になっちまいますよ」
「あなたが何も言わなければ、わからないわ。一緒に来るのがいやなら、ここで待っていてちょうだい」
「とんでもないこってす! あっしは旦那様に殺されます! 絶対に一緒に行きます!」
 傍らでコリンズは、断固としてローズのそばから離れようとせず、自分を睨みつける御者をちらりと見やり、おかしそうに唇をゆがめた。
「おやおや、こちらの美しい奥方に、僕が何か悪さをしかけようとしているとでも? いいさ、君もついてきたまえ。そうすれば僕の清廉潔白も、おのずと立証されると言うものだ」
 ますます顔を引きつらせた御者を見て、愉快そうに笑ってから、ローズに視線を戻すと、黒い瞳に感嘆の色を浮かべた。
「しかし、あなたは本当に平気なのですね。実は、このような場所を見るなり逃げ出されはしないかと、心配していたのです。たいていの御婦人方は、こんなところ、一秒たりとも耐えられないものですが」
「わたしは、こういう暮らしも少しは存じておりますから……」
 ローズは小さな声で答えた。そして『こんなところ』を歩きながらも、石畳の隙間から顔を出したスミレになぞらえた詩などを詠み出すコリンズに苦笑しつつも、憎めない男だと思った。


*** *** ***


「ここです」
 コリンズが示した一角を見ると、石を漆喰で塗った三階建の建物が確かに半分焼け焦げていて、見る影もない有様だった。残った半分もすすけて黒ずんでいる。
 隣接した建物の壁面も黒くなっていたが、類焼は免れたらしい。
 どうやら無事だった正面の扉のノッカーをコリンズががんがんと打ち叩くと、中から一目で牧師とわかる男が出てきて、待ちかねたというように、コリンズと握手している。この二人は旧知の仲と見えた。ついで牧師はローズの方に目を向け、丁重に挨拶をした。

「このようなところまで、ようこそお出でくださいました。レディ・サーフォークでいらっしゃいますね。わたくしはこの『朝の希望孤児院』の復興をお願いした、この教区担当のジョンソン牧師です。そしてこちらが……」
 振り返って、後ろから近付いてきた四十過ぎくらいの痩せた婦人を振り返る。
「ミセス・シンプソンです。当孤児院の院長でして」
 婦人の眼鏡の奥に、いかにも厳格そうな青い瞳が見えた。だが、やってきたのが救い主になるかもしれない相手だとわかった途端、口元に笑みらしきものすら浮かべ、精一杯愛想よく振舞おうと涙ぐましいまでの努力を始めた。
 そして、この孤児院の窮状について、とうとうとまくし立て続ける。
 話を聞きながら、ローズはその孤児院を案内してもらい、自分の目で中の様子をつぶさに観察した。もとより不衛生な環境。子供達は痩せて一様に生気のない顔をしている。だが厳しくしつけられていると見え、行儀はよかった。この子達がこの前風呂に入ったのは、いったいいつのことだろう……。
 息子と同じくらいの年頃の、汚れ切った子供達を見ながら、ローズは息が詰まるような気がした。


「あの孤児院の経営には、評議員の制度でも造り、少なくとも数人の監督者を置くのがよいかもしれませんわ。それにわたし達だけでは、あの規模の修復は難しいですね……。完全な修理と設備を整えるためには、もっと多勢の方々からご助力を得なくては……。どうすればいいかしら」
 馬車の中で、考え考え、いつになく熱心に話すローズの傍らで、コリンズはいつになく黙りこくったままだった。
 彼女は先ほど見た情景とその対処法を照合しながら、コリンズにも質問したり提案したりしていたが、夢中になるあまり、相手の眼差しがますます深みを帯びて自分に注がれ始めたことすら、全く気が付かなかった。
 御者にコリンズを先に送ることも言い忘れ、思い出したときには、馬車はサーフォーク邸に着いてしまっていた……。


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12/05/16  更新