〜 スプリング ブーケ 〜


 《子爵の恋人》  番外編 5

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「まあ、どうしましょう! あなたを先にお送りするべきでしたのに」

 馬車がサーフォーク邸に着いてしまったことに気付くと、ローズは声を上げてコリンズを振り返った。
 だが、彼は平然とした様子で彼女を見返している。仕方なく、御者に向かってこう頼んだ。
「申し訳ないですけれど、もう一度引き返して、この方をガウディ侯爵様のお屋敷までお送りしてくださいな」
 渋面で頷いた御者が、奥様のために高い御者台から降りようとするより先に、ローズは一人で馬車の戸を開こうとした。
 そのとき、コリンズがさっと機先を制して地面に降り立つと、彼女に向かって手を差し出した。

「ありがとうございます」
 紳士らしい気遣いを好ましく思いながら彼の手をとると、ローズは、馬車から降りて相手を見上げた。
 伊達男の印象は最初と変わらないが、今は随分親しみを感じるようになっていた。

「それでは先ほどの孤児院のことですが……、夫と、あと何人かのお知り合いの方々とも御相談してみたいと思います。もちろん、あなたもガウディ侯爵様の後ろ盾がおありなのですから、侯爵様にお伝えいただけますわね? それでは、またご連絡申し上げます。ごきげんよう」
「レディ・サーフォーク、お待ちください!」

 コリンズは屋敷の階段を上がろうとしていた彼女の右手を掴むと、真剣な声で引き止めた。
 もう一度振り向いた茶色の瞳を覗き込む眼差しには、どこか切羽詰った気配すら感じられた。僅かに躊躇した後、彼は口を開いた。
「礼を言わねばならないのは、こちらの方ですよ」
 彼女の怪訝な表情に咳払いし、さらに続ける。
「実はあの牧師は、わたしの古くからの友人でしてね。帰る間際、これで再生の道が開けるかもしれないと、それは大喜びしていました。それにしても、あのボロ雑巾のような孤児達のために、それほど親身に、熱心になって下さるとは、正直言って驚きましたね。どうやらわたしの方こそ、悔い改めなければならないようだ。本当にあなたは、社交界には稀有な御方です」
「……それは、おっしゃる通りかもしれませんわ」
 突然熱の込もったコリンズの言葉に驚きつつも、ユーモア感覚を取り戻した。
 事実、社交界には滅多に見ない平民出のレディ・サーフォークは、くすっと笑って彼の手から右手を引き抜こうとした。

 だが彼はそのまま、ローズの手を両手に包み込んでしまった。しばらく彼女を熱っぽい目で見つめていたが、やがて身をかがめ、華奢な手の甲に唇を押し当てた。
「今、わたしはサーフォーク子爵が、心底うらやましくなりました」
 その口調も、どこか先ほどまでとは違っていた。
 ようやく思い切るように彼女の手を離すと、彼は被っていたシルクハットを軽く持ち上げて礼をし、そのまま馬車で立ち去っていった。


*** *** ***


 ローズは屋敷の前に立ち、しばらく無言で見送っていたが、やがてほっと息をついて邸内に入っていった。
 今のコリンズの奇妙な態度も気にかかったが、思いはすぐにあの孤児達のことに戻っていった。

 まず、今日見てきたことを夫に話し、相談しなければならない。
 もちろん、生まれながらの貴族であるジェイムズは、慈善という行為を、ブルジョアジーの義務としか思っていない。
 決していい顔はされないだろう。だが、今までのところは、彼女がやりたいようにさせてくれている。

 でも、今度ばかりは、かかる費用の桁が違うだろうから……。
 彼の気持が動いてくれるといいけれど……。そのためには、さっきの孤児院に一度、一緒に行ってもらう必要があるかもしれない。

「旦那様はお部屋かしら?」
 出てきたブライス執事にすぐさまこう問いかける。何か思うことがあったとしてもめったに顔に表さない、熟練した執事はコホンと軽く咳払いをすると、丁重に答えた。
「はい、書斎におられます。しかしながら奥様……、お疲れでございましょうし、まずはお湯を準備させますので、お召し代えなどなさってからの方がよろしいのではございませんか」
 今の自分の身なりを思い出し、ローズは少し顔を赤らめて素直にうなずいた。
 そのとき、二階からまたもや声が飛んできた。

「いや、そのままで構わない。わたしも奥様に、今すぐ尋ねたいことがある。上がって来なさい」

 さっと振り仰ぐと、階段の上の手すりに両手を付いて、下を覗きこむように見下ろしている子爵の姿があった。昨日と同じような光景だ。
 だが、今日の彼はローズの顔を見ようともしなかったし、彼女が上がっていくと背を向け、執事に向かってこう叫んだ。
「しばらく、誰も書斎に近付けるな。たとえ息子でもだ」


*** *** ***


 無言のまま書斎に入ったジェイムズは、ローズから顔を背けたまま、窓辺に歩み寄った。
 重苦しい沈黙が続く。彼の様子がいつもとあまりにも違う。窓の外を何気なく眺めているようで、これ以上ないほど緊張しているのが、ぴんと伸ばした背筋から伝わってくる。

「あなた、どうなさったんです? 何か悪いことでも起こったんですか?」
 ローズは不安になっていそいで夫の傍に歩み寄り、彼に触れようとした。
 だが、伸ばした手がいきなりピシリと振り払われてしまった。指にじんと痛みが走る。
 あっけに取られて、ローズは夫の横顔を見つめた。こんな彼は初めてだ。

「今のは……、何だ?」
 再び窓の外に目を向けながら、ジェイムズはひどく乾いた抑揚のない声で尋ねた。
「今の……?」
「とぼけるつもりかい?」
 嘲るように言いながら振り向いた途端、ダークブルーの瞳が鋭い剣のようにローズを刺した。身体の脇で握り締めた拳がわなないている。
 声が震えないようにするのが精一杯だというように、彼の声はひどくかすれ、聞き取りにくかった。

「いつからだ? いつから、あの男と……?」
「何をおっしゃっているの? 何の話です?」
「まったく、たいしたものだな、レディ・サーフォーク。四年前、結婚したときは咲き初めた白百合のように清純だった君も、ついに社交界の浮気な女達の毒に芯から染まって内側から腐り始めたというわけか? 夕べあれほど情熱的にわたしの腕に抱かれながら、朝になるとたちまち身を翻して他の……」

 それ以上は口にするのも耐えられず、ジェイムズは我知らずきつく唇を引き締めた。愛する妻の面影が、自分の中で音を立てて壊れていくようで、その苦痛に身を焼かれるような気がした。
 思わず彼女から顔を背けて目を閉じる。そんなことになったら、自分は気が狂ってしまうだろう。

「我が目を疑う、とはまさにこのことだった。まさか、君が……、君がそんな真似をするとは……思ってもいなかったからね。この目で見た今も信じられないほどだ。まさか、わたしの留守中、いつもそうやって、どこかの男と東屋ででも人目を忍んで会っていたというのか? たとえ他の女達がどうあれ、君だけは、わたしを裏切ったりしないと心から信じていたのに……」

「……さっきからいったい……、何のことをおっしゃっているの?」

 夫の口から散弾銃のように続け様に吐き出される激しい非難の言葉に、驚き傷ついて、ローズは呆然としたまま彼から数歩後ずさった。
 目の前に急に真っ暗な淵がぱっくりと口を開けたような気がする。

 途方に暮れて、夫から窓の外に目を向けた途端はっとした。ここから、彼は先ほどの光景を見ていたのだ。コリンズのことであらぬ誤解をされたに違いない。とんでもない話だわ!

 突然蒼白になり、優しいブラウンの瞳を大きく見開いた妻の反応に、ジェイムズは再び鋭く息を吸い込んだ。
「……本当にそうなのか?」
「そんな! そんな馬鹿なことを本気でおっしゃっているんですか? 途方もない誤解ですわ。わたしのことを、どうしてそんなふうにお考えになれるの?」
「誤解だと?」
 しばらくの間ジェイムズは、焼き尽くすような眼で蒼ざめた妻の顔をじっと見据えていたが、やおら手を伸ばし彼女の腕に手をかけると、まるで藁束ででもあるかのように乱暴に揺さぶった。

「たった今、この目ではっきりと、君が馬車から他の男と一緒に出てくるのを見たんだぞ。その後のことも全部だ……。しらばくれるんじゃない! 君が誰のものなのか、今すぐはっきり示してやらなければならないのか?」

 身内から沸き起こる凶暴な破壊衝動に駆り立てられるように、ジェイムズはそのままローズを力任せに抱き締め、唇を激しく奪った。抗議の声を上げて夢中で抗い始めた妻にますます逆上し、怒りに任せて力ずくで窓際の壁にその身体を押さえつけると、彼女が身につけているハイネックの服の襟首に手をかけ、前身ごろを引き裂いた。布地の破れる鈍い音がした。
 乱暴に唇を合わせたまま、下着の中に手を差し入れ、烙印を押すように滑らかな素肌をまさぐりはじめる。まるで彼女を粉々に砕いてしまおうとするような荒々しい愛撫だった。

 ふいに、がっちりと全身で押さえ込んでいたローズの身体から、突然ぐったりと力が抜けていった。はっとして顔をあげると、彼女は腕の中で崩れるように意識を失っていた。


*** *** ***


 ローズがゆっくりと目を開くと、窓からその日最後の日差しがうっすらと差し込んでいるのが見えた。
 徐々に意識が戻ってくると、自分が薄暗くなった書斎のソファーに横になっていることに気付く。
 身体を起こそうとしたとき、窓辺に立っていたジェイムズが、手に琥珀色の液体の入ったグラスを手に、近付いてきた。

「まだ動くんじゃない。これを飲むんだ」
 抗う力も出ないまま、ローズは差し出されたアルコールに素直に口をつけた。少しむせたが、身体中がほっと温まり、気力が巡るような気がした。
「わたし、どうかしたのかしら」
 傍らにかがみこんだ子爵は、独り言のように呟いた妻の言葉に、目を細めた。
「……君は倒れたんだ。ここに寝かせて、服を着替えさせた。あの馬鹿げた服は処分させたよ。あんなものをまだ持っていたとは、まったく驚きだったな」
 見ると、いつの間にか普段の室内用のドレスに替わっている。
「あなたが、着替えを?」
「いや、君のメイドを二人呼んだ。今頃、派手な夫婦喧嘩があったらしいと、使用人達の間でさぞや噂になっているだろうさ」
 面白くもなさそうに言いながら、彼は残ったグラスの中身を一気に飲み干した。彼の表情は再び曇っていた。

「今しがた、御者から話を聞いたよ。とにかく、乱暴な真似をしてすまなかった。つい逆上してしまったんだ。相変わらず、君はわたしを怒らせるのが実にうまいな。以前も今も変わらない……」

 紳士たるもの、いかなるときも女性相手に手荒な行為をすべきではないと、叩き込まれているサーフォーク子爵にしてこの始末だ。まったく嫉妬は男を狂気に追い立てる。妻の浮気を疑い、激情に駆られ最愛の妻を殺して自滅したオセローの愚しさを、決して笑うことはできないと、今さらながら思い知らされる気がした。


 夫の言葉を聞いてほっとしたものの、彼の眼差しは依然として暗いままで、ローズは、まだ自分に対する疑いが完全に晴れていないのだとわかった。
 今すぐに最初から順を追って説明しなければならない。そもそも夫に何も言わず、他の男性と出かけたりしたこと自体が、あまりにも軽率な行為だったのだ。彼女は身体を起こすと、どうにかしゃんと座り直した。

「あなた……、聞いてください」
 暗くなりはじめた部屋にランプの灯を点すと、ジェイムズは無言で振り返った。ローズはまっすぐに彼の瞳を見つめ、落ち着いた口調で話し始めた。

「あの方は、絶対にそんな相手ではありません。アーネスト・コリンズさんとおっしゃって、昨日、ヴォクソールガーデンで初めてお会いしたばかりなんです。わたしが慈善事業に関心があるとお母様からお聞きになったらしく、火災に見舞われた気の毒な孤児達のために、孤児院の再建に力を貸して欲しいとおっしゃったのです。それで今日、見に行く約束をして午後からご一緒に……。本当にそれだけなんです。そんな馬鹿げたお疑いは、わたしの名誉にもとりますわ」
 それから、今日訪問した孤児院の様子を逐一、真剣に話していく。
 そんな妻の美しい顔を、彼は無言のままじっと見つめていた。

 なるほど……。そういうことだったのか。いや、それこそ実に彼女らしいが……。

 何やら拍子抜けして、ほぅっと大きなため息が漏れた。思わず苦笑しながら彼女の隣にゆっくりと腰を下ろすと、誠実な光をたたえた茶色の瞳を覗き込む。
 やはり彼女を一人で出歩かせるのは危険だな、と子爵はつくづく思っていた。そんな男の下心を露ほども疑ってみないとは、彼女は本当に純真無垢のままなのだ。そのコリンズという男にも、一度しっかり釘を刺しておかねばなるまい。


 夫の沈黙をどう捉えていいかわからず、彼女は不安そうに目を向けた。

「これでもまだ、わたしをお疑いですか? それならジャックさんにもよくよく確認なさってください。今日はずっと一緒にいましたから、わたしの言葉が嘘ではないと、彼なら全部……」
 ふいに肩を優しく抱き寄せられ、彼の唇に唇を塞がれて、ローズはそれ以上言葉を続けられなくなった。痺れるような長いキスからようやく解放されたとき、子爵は目に皮肉な色を浮かべ、あきれたように眉を上げた。

「それで……? 哀れな孤児達のために、わたしにその孤児院の修復をしろと、そう仰せなのかい? どうやら、日々飛び回っている夫の苦労など、その子供達の半分も心配しては貰えないようだね」
「ひ、費用がたくさん掛かることはよくわかっていますわ。あなたにあまりご無理を申し上げたくないので、どうしたらいいかと、実はそのことばかり考えながら戻って来ましたの。レディ・アンナやエルマー夫人、それからレノックス夫人や、他にも何人かの皆様に……、ご相談してみてはいけないでしょうか」
「おやおや、今度は自ら交渉に回るつもりかい? だがね、奥さん」
 彼はローズの顎を持ち上げると、優しい眼差しで彼女の視線を捕らえた。そして微笑んで、こう言った。
「君は当分の間、一人では外出禁止だよ。次は、わたしも一緒にそこへ出向いてみることにしよう」

 喜びと感謝の声を上げて、彼の胸に顔を埋めた妻をしっかりと抱き締めながら、子爵は深いため息をついた。
 やれやれ……。それではあと何人に、この降って湧いた公益事業の片棒を担がせてやろうか。


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12/05/18  更新

ノブレス・オブリージュ(貴さは義務を強制する) という言葉があります。
貴族達はその権益・特権の代償に、社会的弱者達にしばしば慈善行為を行っていました。
ローズのように、慈善に熱心な貴族の奥方もいましたが、もちろん、社交やパーティに熱心な奥方の方が圧倒的に多かったでしょう…。
本番外は、そういった当時の慣行をベースにしてのお話です。。。