〜 スプリング ブーケ 〜


 《子爵の恋人》  番外編 5

PAGE  5



「サーフォーク子爵様からのお言付けです。奥様に至急お出でいただきたい、とのことです」

 まるで難しい詩の文句を棒読みするかのように、院長の前で一気にこう告げると、少年はローズと、それからどうしても一緒に行くと言い張った子爵夫人付きの侍女――約一年前にドロシーが結婚し、その後に入った――ジェニーを案内して、、先ほど皆で一緒に工事を見ていた場所を通り過ぎ、下町の通りを歩いていった。
 すぐに、小さな広場に出た。道はそこで行き止まりになっていた。
 広場の中央には、古びた噴水台があったが、水はとうの昔に枯れているようだ。がらんとした石畳の空間には、夫はもとより誰の姿も見えない。
 物陰から、今にも浮浪者が飛び出してくるのではないか、とびくびくしながら、ジェニーは目を吊り上げて少年にくってかかった。

「旦那様のような方が、こんな場所で奥様を待っておられるはずがないわ。御覧なさいよ、誰もいないじゃないの! 奥様、やっぱりおかしいですわ。どうぞ早くお戻りくださいまし」
「そうね……」
 ローズもそう答えた時だった。それまできょろきょろと周りを見回していた少年が、ほっとしたように声を上げて左側を指差した。
「あ、あちらの旦那でさ!」

 ローズ達が同時にそちらに目を向けると、広場に面した古い建物の通り抜けの下から姿を現したのは、アーネスト・コリンズその人だった。
 濃いモスグリーンの上着のポケットに片手をかけたまま、何かを思い詰めたような目で彼女をじっと見つめている。

 もっと悪い事態を考え始めていたローズは、思わずほっとした。口元に明るい微笑が浮かぶ。驚くジェニーが止めるのも構わず、彼の方に歩み寄っていった。

「コリンズ様ではありませんか! 驚きましたわ。相変わらずジョークがお好きな方ですわね。今度はいったい何を始められましたの? それにしても、今までどちらに雲隠れしておられたんでしょう?」

 あの日以来、なぜかこの紳士の姿を見かけなくなっていた。『朝の希望』孤児院の再建計画は、サーフォーク子爵が中心になって着実に進んでいくのに、それに関する会合などにも、アーネスト・コリンズは一切姿を見せなかった。不思議に思い夫に尋ねても、「もう、その男のことは気にするんじゃない」という不機嫌な返事しか返ってこなかったから、それ以上問うこともできなかったのだ。
 話が順調に進んでいる以上、ことさら夫を怒らせるようなことをしたくなかったので、あえて不問にしていたが、心の中ではいつも疑問に思っていた。
 コリンズは確かに軽薄そうな男だが、それでも彼なりに、この孤児院のことを考えていたはずではなかっただろうか?
 だが、日が経つに連れ、やはり道楽貴族の気まぐれにすぎなかったのかもしれない、と思い始めていた。
 それにしても並み居る貴族の中から、自分や夫に目をつけた彼の人を見る目だけは、褒めてやってもいいかもしれない……。


*** *** ***


 ローズの顔に花が咲きこぼれるような微笑が広がった途端、コリンズがはっと息を呑んだように見えた。
 緊迫した表情が少し和み、照れくさそうに彼女の方に足を踏み出す。ローズはコリンズの前に立つと、その顔を見上げ、わざと非難めいた口調で続けた。

「途中で責任を放り出されるなんて、本当にひどい方ですね! わたしは会合があるたびに、今度こそあなたがいらっしゃるかと、お待ちしておりましたのよ」
「待っていてくださったのですか? このわたしを……、あなたが?」
「ええ、もちろんです。この孤児院のお話は、もともとあなたが持ってこられたものではありませんか。ガウディ侯爵様のお屋敷にお手紙を幾度も差し上げましたのに、お返事すら下さらないなんて! それとももしや、お読みにもならなかったのですか?」
「いいえ。もちろん読みました……。それこそ何度も何度も、です」
 彼の目に再び思い詰めた色が浮かび、まじまじと自分を見返している。ローズは少し心配になってきて、声の調子を落とした。
「コリンズ様、本当にどうなさったんです? 何だか、お顔の色が少しお悪いような気がしますけれど」
「レディ・サーフォーク……」
「どこかお身体の具合でも?」

 彼女の表情が曇ったことに気付き、コリンズはまた少し口元をほころばせ、やおら薄いレースの手袋をはめた彼女の華奢な両手を取り上げ、むさぼるように幾度も口付け始めた。
 さしものローズも、その突拍子もない動作には息を呑み、いそいで手を振り解こうとしたが、彼は離さない。

「あなたにもう一目お会いしたい、あと一言でも言葉をかわしたいと、このひと月以上、そのことばかり考えてきました。もちろん、所詮無益なこととはわかっていたのですが……。それでも、あなたがそんなふうにおっしゃると、つい期待してしまう」

 二人から少し離れた所を、はらはらしながらうろついていたジェニーが、押し殺した叫び声を上げたのもかまわず、コリンズはいきなりローズの肩に手をかけ、ぐっと身体を引き寄せた。
 その大胆な態度と声の熱っぽさに嫌な予感がして、慌てて身を引こうとするも、彼にしっかりと肩を抱き寄せられ、胸と胸が今にも触れ合わんばかりになっている。

 この人は、行き過ぎた恋愛ゲームをまだ続けているつもりなのだろうか。こんな愚かしいことを、これ以上させてはならない。
 ローズはどうにか話を孤児院の方に戻そうと、息を吸い込み、極力落ち着いた声を出すよう努めた。

「コリンズ様……、どうぞその手をお離しください」
 それでも彼は、しばらくそのままじっと見下ろしていたが、やがてどうしようもない、と理解したかのように頭を振り、ようやく手を下ろした。
 すかさずジェニーが駆け寄ってきて、必死の面持ちで二人の間に割って入ろうとした。そんな侍女を押しとどめ、再び脇へ下がらせると、ローズはコリンズに向かい、静かに言った。

「……ご冗談にしても少々度が過ぎたようですわね。コリンズ様?」
 相手は世の無情を嘆くように、大げさな身振りで空を見上げ、大きなため息をついた。またローズが言った。
「どうぞ、そのような恋愛ゲームはどなたか他のお好きなご婦人にでも、なさってくださいませ。わたくしは、孤児院のことでここに来ているのですわ。あなたにもご相談したくて、幾度もご連絡申し上げましたのに、いつもお留守ばかりではどうしようもないではありませんか? また優雅に、ご旅行でもなさっていらしたんですの?」
「ああ、あなたは、そんな言い訳を真に受けておられたのですね」
 苦笑とも泣き笑いともつかぬ笑い声を漏らし、紳士は広場に面して立つひときわ高い教会の尖塔の上に浮かんだ雲に向かって呟くと、再び彼女を見た。
「今後一切あなたには関わるなと、サーフォーク子爵、あなたのご主人から、あるクラブでお目にかかった折、はっきりと言い渡されたのです。そして、わたしは……」
 彼は深いため息をつき、さらに続けた。
「残念ながら、何も言い返せなかった。人当たりの良い方だと伺っていましたが、時には酷く非情にもなれるのですな。あなたのご主人という方は……」
「まあ! そんな……」

 ローズは返す言葉もなかった。どうして夫はそこまでしたのだろう? それでは、あの時あれほど説明したのに、まだ自分のことで何か疑っていたのだろうか?
 そう思うと、腹立たしいような情けないような、複雑な感情さえ湧いてくる。

「そんな失礼なつまらないことを、主人がわざわざあなたに申し上げたとは、少しも存じませんでしたわ」
「つまらないこと、ですって?」
「ええ、だって、そうではありませんか? あなた様とは言わば、この慈善事業についての共同責任を負っていると思っていましたのに、まさか主人があなたにそんなことを……」
 ブラウンの瞳に浮かんだ苛立ちと困惑の色を見ていた彼は、やがて大げさな身振りで、「つまらないこと……」と呻くように繰り返した。
「わたし自身、願わくば、ご主人の心配が的を得ていてくれればと、どれほど切に願ったか知れないのですがね……。どうやら、見込みは皆無のようだ。あなたは、ご主人を愛しておられるのですな、心底深く」
「ええ、もちろんです。申し上げるまでもございませんわ」

 今更何を、と言わんばかりの口調で答えるローズに、また小さく笑ったコリンズの視線が、ふいにローズを通り越して背後に向かった。
 ゆっくりと姿勢を正し、胸に手を当てて一礼した彼に、ローズが目を丸くしていると、声を高めてこう呼ばわった。
「たった今、奥方は完膚なきまでにわたしを退けられましたよ、サーフォーク子爵。哀れな男のささやかな最後の試みは、完全に失敗に終りました。どうぞこの非礼、ご容赦のほどを」

 ローズは驚いて息が止まりそうになった。ぱっと振り返ると、夫が少し離れた位置に立って無表情にコリンズと自分を眺めている。その後でジェニーがついて来た小間使いと一緒に、心配そうに何度もこちらを振り返りながら、孤児院の方へと戻っていくのが見えた。


*** *** ***


 サーフォーク子爵は両手をゆったりと下ろしたまま、落ち着き払って彼女の傍らに来た。
 一瞬、ローズはここで何か起こるのでは、と危惧したが、どうやらそれは無用だった。やがてコリンズは頭を上げると、丁重に言った。
「最後に……、わたくしから奥方に一つだけ、ささやかな贈り物を差し上げたいのですが、よろしいですかな」
 子爵の無言を同意とみなし、コリンズはきびきびと先程の通り抜けの下で待っていた従者らしき青年を呼び寄せた。その手に抱えられていた薄紅色の花束を手に取ると、儀式めいた仕草でローズの前に片膝を折って差し出した。
「今日ここに来る前に、馬で早駆けして摘んできた春の花です。麗しき最愛の奥方に、これを」
 なんと言ってよいかわからないまま、ローズが差し出された花束を受け取ると、彼は再び立ち上がって、これが最後というように彼女をじっと見つめた。
「……レディ・サーフォーク。あなたにお目にかかれて、とても嬉しかった。いつか、わたしもあなたのような女性にめぐり会えることを、神に祈りましょう。それから孤児院の改築事業については、もちろんわたしもできる限り協力しますよ。と申しましてもあなたのご主人に比べれば、ほんの気持ばかりですがね。今朝そのように家の者に手配させました。それでは、ご機嫌よう……」

 一方的にそう二人に別れを告げ、コリンズは従う青年と共に、もう振り返ることもなくその場から立ち去っていった。


*** *** ***


 コリンズ達の姿が見えなくなった後もしばらく、二人は無言のままでいた。やがてローズは手にした花束に顔を寄せ、遅咲きの花のよい香りを胸いっぱいに吸い込んだ。

「どうして、わたし達がここにいるのが、お分かりになったんですの?」
 彼女の問いには答えず、子爵はしばらく彼女を見下ろしていたが、ふいに彼女の両脇に手を差し入れ、驚く彼女を両腕で高く差し上げると、笑いながらその場で何度かくるくると回った。夫の突然の動作にローズはまずあっけにとられ、それからついにくすくす笑い声を上げながら、彼の腕の中にすっぽりと着地した。しばらくしっかりと彼女を抱いていた彼の手が、やがて顔をそっと上げさせる。
「まったく……。またわたしにロンドン中を探し回らせるつもりだったのか? 君は」
 もう勘弁して欲しいね、と言わんばかりに呟いた彼を、愛情込めて見上げると、子爵は彼女が手にした薄紅の花を一枝取り上げた。
「遅咲きのメイフラワーか……。このあたりではちょっと見当たらないな。かなり行かないと」
「さっき、なぜ、あの方に何もおっしゃらなかったんです?」
 少し不思議そうに小首をかしげた妻を、彼は黙って見返した。

 ……あの男が自分の負けを、潔く認めていたからさ。

 内心こう呟きながら、そっとその表情を探った。今の出来事が、彼女に影響を与えたようには見えなかった。安堵の吐息が漏れる。

「君を最初に見つけたのがわたしで、本当によかったよ。もし立場が逆だったら、それこそ到底立ち直れなかったかもしれないな。そう思えば同情の余地も少しはあるさ。しかしね、奥さん……」
 子爵のダークブルーの瞳が、また皮肉っぽく煌いた。
「少しばかり留守にするたび、こんなにやきもきさせられたのでは、とても身が持たないね。君の外出禁止は当分延長した方がよさそうだ。これからはどこかに出かけるときは、君も一緒に連れて行くことにしよう」

 目を見張ったローズが何か言い出す前に、彼はしっかりと封印するように、彼女の唇に熱っぽく口づけた。


 遅い春の風が、路上に寄り添う二人を包んで、軽やかに吹き抜けていった……。


〜 FIN 〜


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patipati

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12/05/22  更新
お読みいただき、ありがとうございました。残り、番外ラストを残すのみです。