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 Chapter  9


 夕刻近く、子爵とマーガレット、そしてローズを乗せた二頭立ての馬車はロンドンから馬車で北へ数時間の場所にある、メイフィールド荘園に到着した。
「ほら見て、先生。きれいでしょう? あれがわたし達のお城よ」
 メイフィールドの城と言われたとおり、その館は三百年ほど前に建てられた城館らしかった。
 秋の黄金色に色づく森に囲まれて静かに建つ城の情景は、物語の中に出てくる吟遊詩人の詩を思い出させ、ローズも一目見るなり気に入ってしまった。

 馬車の中で子爵は、はしゃぎながらあれこれ問いかける妹に、ずっと忍耐強く答えながら、時折ローズの様子を見ていた。自分が緊張して固くなっていたのがわかっただろうか。だが、こんなに近い距離で一緒に座っていると、彼の存在が否応なしに意識させられてしまう。
 館の中庭に到着し、御者が馬車の扉を開けたとたん、マーガレットは勢いよく外へ飛び出していった。
「メイベル! 来たわよ」 と言いながら出迎えている老婦人に飛びついていく。
 メイベル・リー夫人は夫とともにこの城の管理を任されている、年取った家政婦だった。
「まあ、お嬢様、また美しくおなりですね。もうすっかりレディですこと」
 嬉しそうに声を張りあげマーガレットを抱きしめる。子爵は次に降りてローズに手を差し出した。とまどいながらも、その手をとって馬車を降りる。
 二人の目が合い手がふれあった時、何か衝撃のようなものが走るのを感じ、ローズはいそいで手をひっ込めた。だが子爵は何もなかったかのように、リー夫人に声をかけながら、先に立って中に入っていった。
 自意識過剰だわ、とローズは自分を戒めながら後に続いた。与えられた部屋に入り沐浴して衣服を着替えるころには、ようやく気持も落ち着いてきた。
 早めに一人夕食を済ませ、庭先を散歩しようとショールを巻いて外へ出てみる。秋の夕暮れ、空気は少し肌寒くなっていたが、薄暮の空を背景に浮かびあがった金色の森と城は、まるで一枚の絵の様に美しかった。
 頭の中に浮かんで来た詩を口ずさみながら、そぞろ歩きをしていたローズは、ふと視線を感じて立ち止まった。

 テラスからこちらを見ていた子爵が、歩み寄ってくるのに気付き、訳もなく足がすくんでしまう。髪を解いてしまったのが悔やまれた。もう少しきちんとした格好をしていれば、まだましだったのに……。
 逃げ出したいのをこらえて、その場にじっとしていると彼が声をかけてきた。

「ミス・レスター、どうして夕食に来なかった? 長旅で疲れたのかい?」
「これ以上あつかましいことは、控えるべきかと思いましたので」
 ローズは堅苦しくこう答えた。だがそんな彼女の態度に、子爵は苛立ったように声を荒げた。
「いいかげんにしてくれ。いったい何をそんなに緊張しているんだ? 馬車の中でもかちかちになっていたじゃないか。わたしが怖いのかい?」
「あなた様というよりも、男の方とこれまでそんなに接する機会がございませんでしたから。多分そのせいなんです」
 ローズは彼の態度に驚きながら、いそいで答えた。だが子爵は再び何気ない顔をして、こう尋ねる。
「なるほど。たしか君はロンドンの寄宿学校にいたと言っていたね。学校は楽しかったかい?」
「あんなに規則が厳しくなければ、もっと楽しめたと思いますわ」
「君は模範生だったの?」
「必ずしも、そうとは言えませんでしたけど……」
 ローズはあのころを思い出して、少しいたずらっぽい顔を見せた。そしてほっとため息をついて微笑んだ。ようやく気分がほぐれリラックスしてきた。
「子爵様、こんな素敵な所に連れてきていただいて、とても感謝しています」
「ここが気に入った?」
「ええ、とても。まるで御伽噺に出てくるお城のようですもの」
 話しながら、二人は森の方へ歩くともなく歩き始めていた。金色の森が音もなく静かに、前方に横たわっている。
「ここは、我が家の一番古くからの荘園でね。あの城はクイーン・エリザベス時代に建てられたものだ。だからもうかなり古くなっていて、あちこちに手を加える必要もある。この森は」
 子爵は周りを見渡しながら付け加える。
「秋も美しいが、一番美しいのは何といっても五月だな。いっせいにいろいろな花が咲き揃い芳しい香りが満るんだ。そのころに……」

 その時、強い一陣の風が二人の間を吹き抜け、落ち葉とローズの長い金髪を吹きあげた。とっさにローズはショールで顔を隠し、収まると驚いたように澄み切った薄暮の空を見あげ、晴れやかな笑顔になった。
 子爵はそんな彼女をまじまじと見つめていた。突然顔に緊張したような表情が浮かび、身体も心なしか強ばっている。不思議そうな彼女の表情に気付くと、彼はさっと視線をそらしてしまった。
「寒くなってきたようだ。もう中へ戻ろう」
 ぶっきらぼうに言いながら、ローズを促すと先に立って城の中に入っていく。
「ゆっくり、おやすみ」
 そう言い残し、彼は足早に三階の部屋に上がっていった。

 翌朝目を覚ましたローズが階下に降りていくと、リー夫人は朝食を準備しながら、子爵が馬で早朝から遠乗りに出かけたと教えてくれた。後から起きてきたマーガレットはひどくがっかりしていた。ローズはマーガレットを慰め、食事が済んでから森に、シカやリスを探しに行こうと言った。



 あの最初の日の散歩から、子爵の自分に対する態度が急によそよそしくなったことに、ローズは気付いていた。
 今、城には付近の村から主人滞在中の用を足すため、娘が二人と男が一人雇われてきている。彼らにさえ気軽に接する子爵の姿を窓から眺め、彼女はため息をついた。
 知らないうちに何か主人の機嫌を損ねるようなことをしでかしただろうかと、考え込んでしまう。
 あの夕刻以来、子爵は彼女に話し掛けることもなく、目を合わせることすら極力避けているのではないかと、疑いたくなるほどだった。
 マーガレットと三人で一緒に馬車で出かけたり森の中を散歩する時でも、礼儀正しく最低限必要な会話しか交わさない。特別の何かを期待していたわけではないが、ことさら無視されているようで辛かった。せっかくのローズの休暇は台なしになった。時間はもうあと僅かしか残っていない。

 明日はもうロンドンに帰るというその最後の日さえ、子爵は妹を伴って馬で村まで行ってしまい、城にはローズとリー夫妻だけが残されていた。昼食後、ローズは森へ一人で散歩に出ることにした。外は秋晴れのよい天気だ。部屋に閉じこもってくよくよしていて、何になるだろう。
 髪をきちんと結いあげ、いつもの紺色ハイネックの服をやめて、白い丸襟のついた茶色の服を着た。その上に薄手のショールを取って巻きつけると、ローズは小道を歩き始めた。 森の道はこの一週間よく歩いていたおかげで、だいたい分かってきている。

 気持のいい午後だった。木漏れ日を受け、金の梢がきらきら輝いている。悩みを吹っ切るようにローズは、秋風に吹かれながらどんどん歩いていった。気がつけば、子爵のことを考えている自分にあきれ、叱責しつつも、なかなか気持は晴れない。
 彼を思うと感じる、この胸の刺すような痛みはいったい何だろう? そう考えた時、昔読んだ物語を思い出し、はっとした。もしや、自分でも気付かないうちに、子爵に恋でもしてしまったのだろうか……。
 恋……? 恋ですって……? これが恋なの?
 その突拍子のなさに愕然として、思わず立ち止まってしまう。
 彼は名門貴族で、自分の主人。こんな気持は、まったく狂気の沙汰としか言いようがないのに……。

 あれこれ思い悩んでいるうちに、どこかから犬の吼え猛る声が聞こえてきた。ずいぶん森の奥まで入り込んでしまったと気が付いたのはその時だった。
 静かな森に猟犬の吼え声が近付いて来る。戻らなければと慌てて振り返った時、一発の銃声が辺りに轟いた。



 ぎょっとして立ちすくむローズの目に、木立の間から大きな牡鹿が血を流しながら走り寄ってくるのが見えた。そしてそれを追う二匹の猟犬達。
 獰猛な犬に吠え立てられ追われながら、傷ついた鹿はついに力尽きたように、ローズの目の前でどっと地面に倒れ込んだ。追いかけてきた大きな猟犬が、驚きと恐怖に声もなく立ち尽くしているローズに、今度は狙いを定めた。

 飛び掛かってきた犬を必死でよけようとして、尻餅をついてしまい、思わず金切り声をあげた。だが誰も来てくれるはずはない。すかさずもう一匹が彼女に飛び掛かる。今度は避けきれず、スカートが犬の牙で引き裂かれた。
 ローズは再び悲鳴をあげて目を閉じた。
 猟犬の鋭い牙にかかると思った刹那、こちらに向かって走ってくる馬のひずめの音が聞こえてきた。二匹の犬がそちらに向かって駆け出したとき、鋭いいななきとともに再び二発の銃声が響く。
 犬の悲鳴が聞こえ、涙を流しがたがた震えながら恐る恐る目を開くと、視界に栗毛の馬に乗った子爵が血相を変えて飛び込んでくるのが見えた。彼の右手に握られた小銃からは、まだ硝煙が上がっている。

 子爵はローズの近くまで来ると馬から飛び降り、頭を撃ち抜かれて地面に転がっている二匹の猟犬に目を走らせた。まだ銃を構えたまま、ローズの手を引っ張って助け起こすと、自分の身体でかばうようにしながら馬の方へ押しやる。
 ふと木立の中に動く人影が見えた。子爵は厳しく声をかけてその男を止め、そちらに近づいていった。男を厳しく尋問しているらしい。やがて男が平身低頭謝って、去っていくのが分かった。子爵は拳銃を懐中に収めたが、まだ緊張した蒼白な顔でローズの方にゆっくりと戻ってきた。

 ローズはまだ半ば放心状態で、涙をぬぐうことさえできず、その場に突っ立っていた。子爵は前に立つと、彼女にそっと手を伸ばす。
 ゆっくりと、だが力強く抱き寄せられた時、ローズはようやく放心状態から覚めたように身動きした。
 今のショックの反動でまた涙が溢れてきた。そのまま彼の腕の中で激しく泣きじゃくる。ジェイムズは固く、それでいて子供をあやすような優しさを込めて、しばらくローズを抱き締めていた。
「神よ、間に合ってよかった……」
 彼の唇から漏れた声も震え、深々と吐息をつく。

 ふいに子爵が動いた。力強く抱き締めていた彼の手が顎にかかり、ローズの涙にぬれたくしゃくしゃの顔を仰向かせた。
 彼の目にはこれまで見たことのない輝きが宿っている。彼女が魅入られたように彼の顔を見つめていると、そのままゆっくりと、まるでためらうかのように唇が下りてきた。
 唇が重なった瞬間、ローズは息が止まりそうになった。
 なだめるように優しい、それでいて激しい渇望が見え隠れする彼の唇の動きにつれ、彼女の高ぶった心が静まり、癒されていくのを感じていた。
 彼の求めに応じ、ローズの唇が少し開くと、彼の舌がそっと差し込まれ、震えるように彼女の中を探っていく。
 風がたゆたうのをやめ、時間が瞬間静止した。

 子爵がようやく顔をあげたとき、ローズはもう泣き止んでいた。
 あまりにも様々な感情に一度に取り巻かれて、思考が止まってしまったような気がする。だが少し落ち着いてくると、とにかく助けてもらったのだと理解し始める。
 足元に転がった牡鹿と二頭の大きな犬の死骸に目を向け、ぶるっと震えが走った。彼が来てくれなかったら、今ごろは喉を引き裂かれていたかも知れないと思うと、今更ながらにぞっとした。

「……怪我はないかい?」
 子爵が腕の力を少し緩め、ローズの顔を覗き込んだ。合わせた胸から彼の心臓の鼓動が、自分と同じくらい狂ったように打っているのがはっきりと感じられる。
 気持が静まってくると、ローズは、今自分が何をしているのかを強く意識した。「……申し訳ありません」と、小さく口ごもりながら、いそいで彼の腕から逃れようとする。
 だが彼は離さなかった。もう一度腕に力を込め、彼女を一層固く抱きしめた。

「村から戻ってみたら、メイベルが、君が森へ一人で入っていったと心配していた。君を探しに出ていて本当によかった。まったく、さっき君の悲鳴が聞こえたときは心臓が止まったよ、ローズマリー」

 初めてミス・レスターではなく名前で呼ばれはっとする。思わず彼を見あげると、もう一度唇が下りてきた。もはや彼にためらいはなく、熱く刺激し燃え立たせるようなキスが何度も何度も繰り返される。
 彼女は初めて知る激しい口づけに陶然となりながら、彼の腕の中で身を震わせていた。やめてと言うべきなのに、喉から声が出ようとしない。

 ふいに、乱暴に身体を押し戻され、ローズは呆然とした。高ぶった気持を落ち着けようとするように、ジェイムズは鋭く息を吸い込み、一瞬目を閉じた。そして再び目を開くとローズの足元に片膝を突き、スカートの破れと足を調べ始めた。
 今の自分の姿がいかに悲惨かを思い出し、彼女は赤くなった。だが彼は、スカートの破れ目から見える素足に、傷がないことを確認するように目を走らせ、それからさっと撫でるように手のひらを滑らせた。
「怪我はないようだな。よかった」
 低い声で言うと立ち上がり、今度は彼女をさらうように抱き上げた。驚いて抗議する彼女を無視して馬の鞍に乗せ、その後ろに自分もまたがると、城へ向かって並足で馬を走らせ始めた。
 どちらも口を利かなかった。無言のまま二人は城に戻ってきた。



 大騒ぎで出迎えたメイベル・リー夫人に手短に事情を説明し、世話を任せると、振り向きもしないで子爵は階上に上がって行ってしまった。
 とても怒っていらっしゃるんだわ……。ローズは馬鹿なことをした、と泣きたい気分だった。頭がひどく混乱し、取り乱さないようにするのが一苦労だ。
 メイベルは非難がましく繰り言を言いながら、彼女のために熱いお風呂を準備してくれた。顔と身体の汚れを落とし、服を着替える頃には、どうやら気持も落ち着いてきた。

 だが子爵と同じテーブルで夕食をとる勇気はなく、そのまま部屋で灯りも点けずに、ベッドに座ってぼんやりしていると、ノックの音が聞こえドアが開いた。
 見ると、子爵が立っている。彼もさっぱりと着替え、洗ったばかりらしい黒髪が少し濡れて縮れていた。
 ドアを閉めながら、子爵は少しの間、黙ってローズを見ていた。やがてそっと近づき、穏やかに声をかける。

「食事は?」
 彼女が黙って首を振るのを見て、眉をひそめた。
「大丈夫かい、ショックだったろう?」
 ローズは彼の方を振り向いた。窓から差し込む月明かりだけの部屋は薄暗く、少し離れた所に立つ彼の表情は、影になっていてよく見えない。
 何を言おうとしているか自分にも分からないまま、かすれた声がほとばしった。
「ショックって……?」
「もちろんあの犬のことだ。いや、それとも……」
  彼は一瞬言葉を切って、彼女を見つめた。
「それとも、わたしがキスしたこと?」

 ローズはとっさに顔を両手の中にうずめてしまった。頬が火のように火照る。早く部屋から出て行って一人にして欲しかった。
 だが彼は出て行かなかった。コツンと靴音がして、子爵が自分の前に来たのを感じた。
 彼はゆっくりとローズの手を顔から引き離すと、その手を取り上げ、座っていたベッドから立ちあがらせた。そして騎士が愛する貴婦人にするように、ローズの手に自分の唇を押し当てる。
 ローズが硬直していると、彼は彼女の身体に腕を回し、そっと引き寄せた。耳元で、こもったような声がささやく。

「君を愛してる……。今までどれほど苦しかったか」

 驚いて身動きしたローズをさらに固く抱き締めて、ジェイムズは低く言葉を継いだ。
「住んでいる世界が違う人だと、今日まで一生懸命自分に言い聞かせてきた。だが、さっき森の中で銃声と君の悲鳴を聞いたとき、まるで氷で心臓を捕まれたような気がした。君なしには生きていけないと、あの瞬間、はっきり思い知らされたよ」

 思いがけない彼の言葉が彼女の中ではじけたとき、怯えるほどの幸福感が襲ってきた。ローズは顔をあげ、言葉もなく彼を見つめた。
 ローズの気持を探ろうとするように、子爵も食い入るように彼女の表情を見守っている。
 青藍の瞳と茶色の瞳が出会い、二人の視線が絡まり合ったとき、ローズの中に湧き起こった雑じり気のない歓喜の輝きを、彼は見逃さなかった。

 祈りの言葉を呟き、子爵は彼女を力いっぱい抱き締めた。二人の唇が再び重ねられ、解き放たれた情熱が二人を包み込んでいく。
 月明かりが差し込む部屋で、二人は何度も何度もキスを繰り返しながら、愛の言葉をささやき合った。


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12/04/13