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Chapter 10
「旦那様がお呼びです」
ローズが夕刻、部屋で休んでいると、決まってメイドが呼びにやって来る。
メイフィールドから戻ってから三週間が過ぎていた。とうにメイド達も変に思っているだろう。主人が毎日外出から帰ってくるなり、妹の家庭教師を部屋に呼びつける理由を詮索し、ゴシップの花を咲かせているに違いない。
だがジェイムズに会いたいという気持を抑えることは、もはやできなかった。たとえ僅かな時間でも構わない。
ローズは鏡を覗き、髪はきちんとしているか、衣服は乱れていないかを確認すると、子爵のいる書斎に行った。
ドアをノックするなり室内に引っ張り込まれる。
「元気だったかい。今日はどうしてた?」
息も止まるぐらい抱きしめてローズにキスし、ジェイムズは笑顔で問いかける。その笑顔があまり素敵で、ローズが返事を忘れて見とれていると、そのうっとりしたような瞳を覗き込んで、彼はまた微笑むのだった。
「なぜまだそんな格好をしてるんだ? この前買ってあげたドレスは気に入らなかったのか?」
ジェイムズが彼女を抱えながら、書斎のカウチに腰を下ろすと、ローズを膝の上に乗せた。初めてそうされた時は、びっくりして抵抗した彼女も、何日かするうちに大胆になってきた。ローズもジェイムズに甘えるように、彼の首に手を回して答える。
「でも、あれは貴婦人方が召されるドレスですもの。わたしがああいうのを身につけても、似合いませんわ。どんなにこっけいにみえるか……」
「こっけいだって? とんでもないことを言うな、君も。頑固にいつまでもこんなメイドみたいな服ばかり着ているつもりかい?」
ジェイムズは顔をしかめてふっと吐息をつく。ローズは彼がまた夜会に出かける支度をしているのに気付いた。
「今から、またお出かけなのね」
「ああ、まったくつまらないパーティばかりでうんざりだ。君と二人でまたメイフィールドへでも行きたくなってくる」
ローズが、膝から降りようとするのを片手で止めて、ジェイムズはその顔を覗き込む。
「君を一緒に連れていきたいな」
「だめですわ」
彼女はそっと膝から降りて、彼の前に立った。彼の顔に寂し気な表情が浮かんだのを見て、彼の手を握ると努めて明るく言った。
「わたしなんかお連れになったら、あなたの評判は台なし。きっと後でものすごく後悔なさいますわ。そんな気まぐれの代償が高くつきましてよ」
「気まぐれだって?」
怒ったようにつぶやくとジェイムズも立ち上がり、再び彼女を抱き寄せて息もつけないくらい激しくキスをする。ようやく顔をあげた彼の青藍の目に、強い欲望が宿っているのを見て、ローズはどきりとした。
「わたしは君が欲しいし、何とかするつもりだよ。必ず……」
その時ドアにノックがあった。執事が時間を告げている。
子爵は舌打ちしてローズを放すと、帽子とステッキを取りあげ、部屋を出ていった。
いつもの日々が戻ってきたかのように見えた。ローズはマーガレットを教え、子爵は相変わらず外出がちだった。
そうした中で使用人達の手前、極力普段どおりに振る舞う子爵が、内心とても苦しんでいることを、ローズは敏感に感じていた。
小部屋や書斎で二人きりで会っていても、それで彼が満足していないのは明らかだった。ジェイムズから飢えにも似た激しいキスや抱擁を受けるたびに、ローズは歓びと苦痛に引き裂かれるような気がした。
自分などが、彼に何を与えられるだろう。所詮は、子爵家に大勢いる雇い人の一人にすぎないのに……。
彼からいろいろ贈り物をもらっても心苦しくなるばかりで、必要ないと何度言ったか知れなかった。
ある日の午後、廊下を通りかかった時、偶然、子爵と彼の叔母であるウィルソン夫人が、口論しているのが耳に入り、ローズは足を止めた。子爵が猛烈に怒っているようだ。
「そんなことをわたしに一言も言わず、どうして勝手に決めるんです!?」
「でも、あなただってまもなく三十二歳になられるというのに、いつまでもお一人身で。お父様やお母様が生きていらっしゃったらどれくらい心配なさるか考えてごらんなさい。とにかく明日のダンバード侯爵家のパーティにはぜひ行っていただかなければ。レディ・アンナをよくエスコートして差しあげてくださいね。これはあなたのおばあ様のご命令です」
昂然と言うウィルソン夫人に、ジェイムズが食って掛かる。
「アンナと結婚するつもりなどない! 余計なおせっかいはおやめください」
だが、夫人は耳を貸す風もない。
「侯爵家のお嬢様の、いったいどこが気に入らないとおっしゃるんです? わがサーフォーク家にとって、これ以上の縁組みは望めないのですよ」
この話はまさか……、ジェイムズが結婚?
ローズは目の前に、突然ぽっかりと大きな穴が開いたような気がした。今すぐ逃げ出したかったが、足が床に張り付いたようで、動くこともできない。そのまま息を殺し、花瓶の陰にじっと立ちすくんでいた。
やがて、ウィルソン夫人があきれ顔で歩き去っていくのが見えた。ジェイムズが大きなため息をつきながら振り返った。青ざめて立っているローズの姿を見つけ、ふっと表情をゆるめる。
「聞いていたのか?」
近づきながら、彼がゆっくり問いかける。
「し、失礼を」
詫び言を口ごもり、慌てて身を翻そうとしたローズを、ジェイムズが腕を伸ばしてからめ取った。彼女の青ざめた顔を見つめながら、何事か思案している。
「ちょっと来てくれないか」
やがて、ジェイムズは彼女の手をとり、階段の脇の使っていない小部屋に入ると、後ろ手に鍵をかけた。ローズは無意識に片手を喉元に当てた。しんと静まり返った部屋の中、自分の胸の荒れ狂う鼓動が彼にも聞こえているに違いないと思う。
だが彼はローズの青ざめた顔を見守りながら、じっと黙ったままだった。
ローズがもうこれ以上耐えられないと思った時、ようやく静かな声がその沈黙を破った。
「そんな顔をしてどうした?」
「そんな顔?」
彼女は目を見開いて、おうむ返しに口にした。
「わたしの結婚話を聞いて、ショックを受けたような顔をしている」
子爵は憎らしいほど落ち着き払って、まだそのまま彼女を見ていた。
「ショックだったかい?」
そう尋ねながら近づいてくる。ローズは思わず顔を背けた。頬に伝い落ちた涙を、見られたくなかったからだ。
「ええ。でも当たり前ですわね。いつかはこんな日が来るって、わかっていましたもの」
「そうかい? では、わたしが結婚したら、君はどうするつもりだ?」
「わたしは……もちろん」
ローズはいそいで涙を手のひらでぬぐうと、彼を見つめ返して了解したことを示す微笑を浮かべようとした。彼の負担になるつもりなど、さらさらない。そう伝えるために、口を開きかけた。
だが言葉は出てこなかった。微笑のかわりに再び涙が溢れ、喉からすすり泣くようなうめきが漏れる。
ローズはたまらず部屋を出ようと、彼の背後のドアに手を伸ばしかけた。だがその手が取っ手に触れるよりも早く、彼女の身体は子爵の力強い腕に、抱きすくめられていた。
「もちろん、どうするんだ? 言ってごらん」
耳元で畳みかけるようにささやく甘い声。それが彼女の心に更に痛みを加えた。
「……酷い方!」
ローズは呻いて、彼から身を離そうと必死になってもがいた。
「ローズマリー、わたしを愛している?」
彼女を抱きしめたまま、切羽詰まった声で子爵が問いかけた。その声に込められた緊張に気付き、ローズは思わず動くのをやめ、腕の中で振り返ってその顔を見た。
そこに浮かんでいたのは、これまで彼女が見たこともない表情だった。瞳は雷雲のように暗く陰りを帯び、そこに宿っている感情のあまりの激しさに、息苦しくなるような気がした。
「ええ、愛しています」
震える声でこう答えた時、回された彼の腕に一層力が加わり、彼の顔が荒々しく被さってきた。彼女の唇をこじ開け、舌を差し込み絡めむさぼる。気の遠くなるような激しいキスを受け、ローズも夢中でキスを返していた。
彼の手が彼女の身体をゆっくりと這い、やがてハイネックの襟のボタンを外すと、そのまま唇が白い喉元へと滑っていく。
どちらの口から漏れた呻き声かわからなかったが、子爵がはっと自制するように顔を上げた。
荒くなった息を整え、乱れた彼女の服のボタンをもう一度留め直すと、恥ずかしそうにうつむいてしまったローズの顔を上向かせた。
華奢な手を取り、口を開いた子爵の言葉は思いがけないものだった。
「では、ローズマリー、わたしと人生をともにしてくれるかい?」
その口調と言葉の意味に、心臓が止まりそうになりながら、ローズは彼を見つめ返し、控えめに答えた。
「ええ、もし叶うものでしたら喜んで。ですが……」
「では、わたしと結婚して欲しい。わたしの妻になって欲しいんだ!」
「でも! たった今!」
「叔母や祖母が何を言おうと関係ない。わたしは、自分が結婚する相手は自分で選ぶつもりだからね。ローズマリー、君の返事は?」
「でしたら、わたしの答えなんか、お聞きになるまでもないですわ」
絶望の淵で突然訪れた目も眩むような歓喜に、舞い上がり圧倒されながら、こう答えた。子爵が瞬間目を閉じ、つぶやくように感謝の言葉を口にした。
もう一度抱きしめられて、今度は溢れんばかりの優しさと真心を込めた口づけを受け、ローズは深い歓びに満たされていった。
「苦労させるからね。その時になってやっぱり取り消すといっても、もう手遅れだよ」
長い抱擁の後、ようやく彼女を離すと、子爵は笑ってこう言った。
その翌日から、子爵のローズへの特訓が始まった。
父親が下級官吏といっても彼女は中流階級の出身だ。上流社会の習慣、礼儀作法や会話の仕方など、何から何まで馴染みのないことばかりだった。
子爵はローズのために、作法や会話、着付けの教師をひそかに呼んで来た。また、彼自身も外出を必要最低限に抑え、常識的なことや教養、そして幾種類かのダンスの仕方を教え込んだ。
彼女の飲み込みの早さに内心では舌を巻きながらも、表面上、子爵はかなり厳しい教師になった。
何度やり直しを命じても、弱音を吐かず熱心に学ぼうとする彼女を見て、子爵は感嘆し、頭が下がる思いがしたし、彼女への尊敬と愛しさがこれまで以上に募っていくのだった。
時が来たらこの思いをすべて、自分の名前と名誉とともに彼女に捧げようと、彼は改めて心に誓った。
おかげでクリスマスの声を聞くころには、ローズはひとかどのレディとしてのたしなみを、どうやら身につけていた。
子爵はサーフォーク家で毎年盛大に催されるクリスマスパーティでローズを親族や招待客に紹介し、自分の婚約者として、ロンドン社交界にデビューさせようと考えていたのだ。
いよいよ、そのパーティを明日に控えた前日の午後、屋敷は準備で上へ下への大騒ぎだった。それに紛れるように自分の部屋に届けられたおびただしい贈り物の箱を前に、ローズは目を丸くし呆然としていた。
恐る恐る一つずつ開いてみる。何枚もの美しいシルクやサテン、ビロードのドレスに始まり、豪華な飾り帯び、靴、靴下、宝石、リボン、その他レディの身繕いに必要な道具が、幾種類も調えられていた。
これを準備するために、子爵は一財産使ったに違いないと思える品々だ。子爵に会った時そう言うと、彼はまた笑った。
「明日は君の晴れなるデビューの日なんだ。未来のレディ・サーフォークとして、ふさわしい装いを凝らしてほしい。誰も文句のつけようがないくらいにね」
ついに当日の夕刻になった。
屋敷の支度は万全に整い、招待客が訪れ始める中、ローズはメイドのドロシーに手伝ってもらいながら、自分の部屋で衣装を身につけていた。
ドロシーは控えめで気立てが優しく、何よりも口が堅い。ローズに対しても、この屋敷へ来た当初から好意的でいろいろ教えてくれていた。
だから、子爵が彼女の身支度のためにメイドをよこそうと言った時、迷わずドロシーの名を口にしたのだった。
何枚もの、女性なら誰もが胸をときめかせずにはいられないようなドレスの中から、今日のためにローズが選んだのは、アイボリーのシンプルだが女らしいデザインの、サテンのイブニングドレスだった。
「お奇麗ですわ、とても……。旦那様が夢中におなりなのも、当たり前ですね」
着付け終わったローズを見ながら、ドロシーはうっとりしたようにつぶやいた。
「このドレスのせいだわ。まるで魔法みたい」
金髪をカールさせて結いあげ、イタリアンレースのリボンをつけた。興奮のせいか、いつもより生き生きと輝いてみえるブラウンの瞳、紅をさした唇。襟ぐりの開いたサテンのドレスは彼女の細い身体の線を柔らかく包み、膨らんだスカートがささやくように揺れている。白いうなじに真珠のネックレスを幾重にもまいて、耳元にも同じイヤリングをとめた。
今、鏡に映る姿は、どう見ても家庭教師のローズマリー・レスターとは程遠かった。
「支度はできたかい?」
正装で室内に入ってきた子爵は、目の前に立つ貴婦人を見て、言葉を失った。
青藍の瞳が、サファイヤのようにきらめき、たちまち陰りを帯びる。ゆったり握られていた片方の拳に、瞬間ぐっと力がこもった。
彼女に正装をさせたらどんなだろうかと、常々想像していた以上だった。美しい。まるで今まさに花開こうとしている白百合の花だ。
半ば呆然とその姿に見とれていると、ドロシーがこほんと小さく咳払いをして、広く開いた襟ぐりから見える華奢な肩に、レースのショールをかけた。
「ではわたくしはこれで」 と、メイドが足早に部屋を出ていくと、子爵は少しばつの悪さを感じながら、ローズに近づいた。
しっかりしろ。これではまるで初めて貴婦人をエスコートする、青二才と変わらないじゃないか。
自分を叱咤しながら、彼女に声をかけようとしたが、喉から出てきたのは、自分の欲望の深さを示すような、低くしわがれた声だった。
「綺麗だ……、とても」
いつもなら、かなり気の利いた言葉が出てくる世慣れた彼も、目の前に恥ずかしげに立っている貴婦人を前にしては、まるで形なしだった。
これなら今日のパーティで、注目の的になるに違いない。しっかりするんだ。今日の成功に、二人の未来が懸かっているのだから。
子爵は再び自分を叱責すると、ローズに右手を差し出した。彼女がおずおずと手を重ねる。彼はその手を持ち上げ、恭しく口づけした。
「行こう」
やや緊張した面持ちで、彼が微笑みかける。
ローズは既に緊張のあまり声も出ないほどだったが、とにかく彼についていくことだけを考えて、彼と並んで歩き始めた。
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12/04/14
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