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Chapter  14


 ロンドンはその日も、霧が立ち込めていた。空気中に重い水の粒が浮かんで見える。
 帽子を目深に被り、急ぎ足で家に向かうパトリックの顔に、淀んだ冷たい空気が刺すように感じられた。彼はハワード商会の事務所がある大通りから、自宅のある込み入った住宅街へと、人気のない細い路地を近道して歩いていた。時刻はまだ午後四時前だったが、霧のためか既に辺りは薄暗い。

 彼は昨年大学を卒業し、今は父のハワード商会を手伝っている。仕事を始めてから、早くも数か月が過ぎた。事務員兼留守番をし、帳簿つけは元より、時には父親の代わりに交渉もできるようになってきたつもりだが、まだまだ大きな取り引きは任せてもらえない。毎日決まりきったように過ぎていく平凡な日々に、少し退屈感さえ覚えていた。

 ローズの伯父、ミッチェル・ハワード氏は、ロンドンの目抜き通りで商事会社を営んでいた。六年前に亡くなったローズの母親よりも四歳年上で、穏やかな物腰の人当たりのいい人物だ。彼の人望も手伝ってか、ハワード商会もまあまあ繁盛している。家族は妻のオリビアと、息子が二人。長男がパトリック、次男はまだ十七歳で、寄宿学校に入っている。
 一家はこれといって悩みもない、平凡な日常を送っていた。オリビアはごく普通の主婦で、多少見栄を張って雇っているメイドとともに、日常の細々した事柄に気を遣いながら、良妻賢母であろうと努めていた。多少口やかましく、もう立派な大人になっている息子が辟易することはあるのだが、それも持ち前の気質だから仕方ないと、回りからは大目に見られていた。

 パトリックが自宅に戻り、二階の部屋で椅子に座ってくつろいでいると、前触れもなく馬のひずめと轍の音がして、豪華な二頭だて馬車がハワード家の玄関先に止まった。窓から何事かと顔を出したパトリックの目に、ラベンダー色の旅行用ドレスを着た貴婦人が同じく立派な身なりの貴族然とした男に付き添われて、馬車から降り立ったのが見えた。
 好奇心を抑えて見ていた彼は、二人がこの家の門を叩くのを見て、階下へ降りていこうとした。メイドが取り次いだらしく母が応対に出ている。と思った途端、驚いたような甲高い声が上がり、母が大声で自分の名を呼ぶのが聞こえた。
「パトリック! ちょっと! 早く来てちょうだい」

 普段客を迎えた母が、これほど興奮するような、礼儀を欠いた振る舞いは見たことがない。不審に思って急いで出ていくと、階下の狭いホールにさっき窓から見えた二人が立っていた。
 やはり貴族だ。いったいこの家に何の用があってきたのかと思いながら、取って置きの愛想のいい笑顔を浮かべ、挨拶した。

「閣下、並びにレディ。このような場所に、ようこそおいでくださいました」
 それを聞いた途端貴婦人がこちらを向き、自分の名を呼んだ。
「パトリック?」
 驚いて彼は、その貴婦人をまじまじと見つめた。美しい忘れ難いブラウンの瞳に、はっと思い当たる。
「ローズかい?」

 何年ぶりだろうか。見違えるように美しくなって。彼が思わずローズに近づこうとした時、その傍らに立っていた紳士が、軽く咳払いをした。その青藍の目に、一瞬険しい色が浮かんだような気がした。パトリックと目を合わせたまま、ハワード夫人に声を掛ける。
「失礼ですが、こちらは? あなたの御子息ですか?」
「はい、さようでございます。失礼いたしました。どうぞこちらへ」
 オリビアは緊張したように身をすくめ、突っ立ったままの息子に、商会までいそいで行って父親を呼んで来るようにと小声で命じ、二人を客間に案内していく。
 驚きのあまり、一瞬呆然としていたパトリックも、我に帰ると慌てて商会に向かい、再び通りへ駆け出した。



 狭いが、きちんと手入れされている。居心地のよさそうな住まいだ……。
 オリビアに案内されるまま、掃除の行き届いた廊下を歩きながら、サーフォーク子爵は考えていた。このような家の敷居をまたぐのは、彼には初めてのことだ。
 客間も広くはないが暖かく、暖炉の前に、かなり年季の入った肘掛け椅子数脚と、お茶用のテーブルが置かれていた。暖炉の上に、昔風の天使の置物が置かれ、その横の壁には大きなぜんまい仕掛けの時計が、正確に時を刻んでいる。
 こういう場所で、こういう人達に囲まれながら彼女は育ってきたのだ。
 広くて豪奢だが、家庭的という言葉からはほど遠い、むしろ人を寄せつけない冷たさも合わせ持つような自分の屋敷と、思わず比べてしまう。ローズマリーの持つ優しさや温かさは、このような雰囲気の中で育まれた性質なのだろう。以前彼女自身が話していた、家族の話を思い出し、肯けるような気がした。

 こうして、サーフォーク子爵とローズは、ハワード家の居心地のいい客間でローズの伯父夫婦と向かい合って座っていた。ハワード氏はパトリックから話を聞くなり、すぐさま家に帰ってきた。
 子爵は、この善良そうなハワード氏を見て好感を持った。そして挨拶と自己紹介の後、ローズが自分の屋敷に家庭教師として来たことから始めて、至極簡潔にことの次第を説明していった。そして最後に、伯父夫婦の肝を冷やした。
「わたしの気持は、以前から少しも変わりありません。ミス・レスターに継続して結婚を申し込んでいますし、承諾してもらえるなら、すぐにも式を挙げたいと思っています。ことによると、この人は既に、わたしの子を宿しているかもしれないのです」
 最後の言葉は、俯きがちに隣に座っているローズに対しても、強い警告の意を込めて発したものだった。
 こうはっきり告げられてしばらくの間、伯父夫婦はただ絶句して、ローズと子爵の顔を見比べるばかりだった。オリビアが傍らで声を飲み込み、落ち着かない様子で身動きした。
 子爵の顔には強い意志のこもった決然とした表情が浮かび、ローズの方は今にも泣き出しそうに唇を震わせている。
「そうでしたか……」 
 長い沈黙の末、ハワード氏は深いため息をついて、姪を見ながら口を開いた。
「それで、君は何とお返事したのかね」
「……結婚はできませんと、お答えしました」

 彼女は一言、小さな震える声でこう言うと、それ以上耐えられず、席を立って客間から外へ出ていった。ハワード氏が再びため息をつき、出ていくローズの後姿を硬い表情で見ている子爵に声を掛けた。
「閣下。身分の違うあの娘に対し、そこまでおっしゃってくださるとは、本当に感謝の言葉もございません」
 子爵は表情を曇らせ、苦々しく呟く。
「身分など、まったく関係ないのですが」
「ですが、わたくしどもにとってそれは大きな問題です。あなた様がそう言う風なお気持をあの子に持ってくださったことは、誠に光栄なことです。ですがあの子も自分の立場をよくわきまえているのでしょう。だからこそ、その名誉あるお申し出を、お断りしたに違いないのです」
 子爵がはっとしたように顔色を変えるのを見て、氏は言葉を切った。
「では、あなたも彼女に同意されると?」
「いえいえ、そうではございません。もしあなた様が先程おっしゃられたことが真実でしたら、それはこの先のあの娘の人生が、終わったも同然の結果になってしまうのですから。あの子はまだ若い。この先の長い月日を、世間から娼婦のような扱いを受けて暮らすのでは、あまりに酷すぎる話です」
 子爵は、こみあげる激しい葛藤を必死で抑えるかのように、数秒間じっと目を閉じた。今の時代、もし未婚で子供を宿せば世間からどう見られるかは、彼にもよくわかっている。
「もし、子供がいるとはっきりした時には、彼女の承諾を待ってなどいないつもりです」
 彼は再びハワード氏を見ると、きっぱり言い切った。そう、その時は待ってなどいるものか。ああ、いっそそうなら、すぐさま祭壇の前に連れて行けるものを!

「ですが、結局はローズの気持が変わらない限り、わたしどもにもどうすることもできないでしょうな」
「気持を変えるよう、あなたの口からも彼女を説得していただけないでしょうか」
「もちろんやってはみます。だがあれも母親に似ているのか、自分がこうと思ったことは、なかなか変えない性質でして」
 子爵は募る焦りを抑えて、立ちあがった。これ以上ここにいたら、遮二無二彼女の部屋へ押し入ってしまいそうだった。
「またこちらに伺う許可を、頂けますか」
「おお、それはもちろんです」
 夫妻も立ち上がり見送るために、彼とともに客間を出た。子爵は帽子をかぶり、玄関ホールで振り返ると、感情を消した低い声で二人に言った。
「彼女の気持が変わるまで、説得するつもりです。今は少し気持が高ぶっているかもしれない。また数日して彼女が落ち着いたころに伺います。どうぞ、彼女をよろしく頼みます」


 ジェイムズは重い心を抱えて外に出ると、ハワード家の石造りの建物を見あげた。窓辺にローズの影を探したが、その姿はどこにも見えなかった。
「まったく、残酷な恋人だな、君は……」彼はそっと呟いた。
 身体を引き裂かれるような苦痛を感じながら、彼はゆっくりと待っていた馬車に乗り込んだ。
 できることなら今すぐ取って返し、有無を言わさず彼女を一緒に連れ去ってしまいたかった。今また離れて暮らすことに、耐えられるだろうか。だが、今は他に方法がないのだ。

 御者に合図すると、馬車が走り出した。規則正しいひずめの音が、ガス灯の点り始めた石畳の道に響く。
 この音が彼女の胸に、自分の半分でもこたえてくれればと、強く願わずにはいられなかった。



「お帰りになったよ」
 子爵を見送った後、ハワード氏はローズのいる部屋をそっとノックした。中から青ざめた顔の貴婦人が姿を見せる。その茶色の目に浮かんだ激しい苦悶の色に、胸が痛んだ。
「可哀相に」
 娘を抱くように、氏は彼女を抱き寄せ、無言のまま背中をさすってやる。彼女が鳴咽をもらし、身を震わせた瞬間、涙が堰を切ったように溢れ出した。
 そのまましばらく暖かな伯父の腕の中で、ローズはただ泣きじゃくっていた。

 オリビアはローズを着替えさせ、暖かい夕食を何とか少しでもとらせようと苦心していた。当の本人はしばらくの間、ほとんど放心したように、伯母に世話を焼かれるまま、ただ機械的に動いているだけのように見えた。
「子爵様だって、あれほど望んで下さっているのだから、素直にお嫁に行けばいいだけなのにねぇ。こんなことが世間に知れたら、どの途この先どこへも嫁になんか行けやしない。第一、お日様が西からあがったって、子爵夫人になれるなんて、こんな素晴らしいことは二度とないんだから」
 本当に馬鹿な娘だ、と言わんばかりに、小声でこぼすオリビアを目で制し、ハワード氏はただぼんやりと食卓に座っているローズと、手のつけられていない皿を見やった。そしてローズを早く二階で休ませるように妻を促す。
「やっと、眠ったようですよ」
 しばらくして、ランプを持って階段を降りてきた夫人が、夫に報告した。ハワード氏は居間でパイプを吹かしながら、暖炉の火を眺め考え込んでいた。パトリックも父の向かいに座って天井を睨み、額に皺を寄せている。
「もう一年以上、何の連絡もなく、どうしているかと心配していたが。まさかこんなこととはな」
 ハワード氏の口から、重いため息が漏れた。オリビアが、熱いお茶を運んできた。


 サーフォーク邸では、数日ぶりに前触れもなく戻ってきた主人を迎え、メイド達が忙しく動き回っていた。
 だが、当の子爵は暗い表情のまま、妹や執事の心配そうな、物問いたげな眼差しにも何も答えず、そのまま寝室に閉じこもってしまい、夕食にも姿を現さなかった。

 執事のブライスも気遣わしげに歩き回っていたが、やがて所在なげにいつまでも起きているマーガレットに、そっと声をかけた。
「お嬢様、時間も遅くなって参りましたし、もうお休みになられたほうがようございますよ。旦那様もずいぶんお疲れのご様子ですし、お話はまた明日になさって」
 十三歳になり、ずいぶん大人びてきたマーガレットは、兄と同じ美しいダークブルーの瞳を曇らせて、執事を見あげた。
「お兄様、ひどく思い詰めたようなお顔をされていたわ。先生はどうなさったのかしら。今度こそ、一緒にお帰りになると思っていたのに」
「さあ、本当にどうなさったんでしょうか……」

 執事も深いため息をつく。この一年間、子爵の様子に胸を痛めながらも、どうすることもできずにただ見守っていた者達にとって、この成り行きは他人事ではない。

 やがて子爵邸から灯りが消え、あたりは完全に夜の帳に包まれる。
 深くなっていく霧の中を、ガス灯の鈍い光だけが、ぼんやりと浮かんでいた。


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patipati
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12/04/19