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 Chapter  16


「たいへん結構なおもてなしでしたわ」

 気の置けない仲間内の午後のお茶会に出席していたシャーロット・エルマー夫人は、主催者夫妻にこう挨拶し、サロンから引き取ろうとしていた。
 その時、つと歩み寄ってきたサーフォーク子爵に呼び止められて、話があると言われる。
 珍しいことなので、内心驚きつつも、陽気に微笑みかえした。

「ジェイムズ、最近はいかがお過ごし? わたくしのサロンには、とんとご無沙汰ではありませんか」
「ええ、まあ。何かと忙しく過ごしていたのでね」

 彼は何気なく答えながら、まだその場に残っている人達から少し離れた部屋の一角に彼女を連れていくと、少し雑談した後ゆっくりと用件を切り出した。
「実はお宅で今、家庭教師を探しているという話を伺ったのですが」
 エルマー夫人は大きく肯いた。
「ええ、下の娘にいい家庭教師をつけてあげなければいけないんですけれど、最近はどうも誇大広告ばかり多くて、実際にいい人を選ぶのは、なかなか骨が折れるようですわね」
「では、いかがでしょう。わたしがいい人材を推薦したいと申しあげたら?」
「それは願ってもないことですわ」

 話し終えてエルマー夫人は満足げに帰っていった。交渉はどうやら望みどおりに成立した。
  しかしサロンを後にした子爵の顔には、諦めと慨嘆の入り交じった、何とも複雑な表情が浮かんでいた。



 新聞広告を出してひと月ほど経ったある日、突然ローズの元へ家庭教師に採用するという手紙が舞い込んだ。
 広告を出してからの期間を考えると、実に幸運というべきで、ローズ自身も驚いていた。何しろ以前は口を見つけるのに何か月もかかったのだ。
 もし本当に妊娠しているならあと数か月も経てば、誰の目にも分かってしまうだろうが、とにかくこれでそれまでの間は、どうにか過ごして行けるだろう。その間に少しでも、貯えをつくらねばならない。経済的にも、切迫した問題だった。

 こうして三月のある日、ローズは世話になった伯父の家に別れを告げ、ロンドンの高級邸宅街に続く道を再び辻馬車に乗って、手紙にあるエルマー家の屋敷を目指していた。
 ローズを採用してくれたエルマー家と言うのは、伯爵家と縁続きの家柄だった。十三歳の息子と十歳の娘がいて、ローズには下の娘の家庭教師を、と言うことだった。
 シャーロット・エルマー夫人は三十代半ばの、上品だが陽気できさくな人柄で、ローズに対してもまるで友人に対するような言葉づかいで、たいそうよくしてくれた。
 主人のエルマー氏は伯爵家の次男であったため、爵位こそ持たなかったが立派な邸宅や幾ばくかの土地を所有し、妻の財産のおかげもあって、ロンドン社交界では何不自由ない地位を保っていた。
 ローズは身体の不調を、人前ではおくびにも出さないよう気をつかっていた。とは言え貧血気味らしく時折目眩がし、立っていることすら辛い時もあった。
 その上、今度の生徒は非常に手が懸かった。マライアというその少女は覚えが悪く、注意力も勉学への関心もまったく乏しかったからだ。
 ローズは同じことを幾度も繰り返し、忍耐を持って教えなければならなかった。


 授業が終わると、夫人は当たり前のような顔で、ローズを自分達のお茶の席に同席させた。
 そのためにドレスまで準備してくれたのには驚き、強く辞退した。そのドレス代だけでも、自分の一年分もの給料に該当するだろうと思われたからだ。だが、エルマー夫人は聞かなかった。
「これはわたくしからのお願いですよ。着ていらっしゃって」
 お願いというよりは命令に近い有無を言わさぬ調子で、にっこり笑って言われては、従う以外ない。
 貴族の奥方の何の気まぐれかしらと、不思議に思いながら、ローズは貴婦人のようなドレスを身につけ、サロンで交わされる様々な会話に耳を傾けていた。
 時には彼女の方に話題が向けられることもあった。最初は緊張したローズだったが、やがて失礼にならないよう控えめに、意見や考えを述べることに慣れ始めているのに気付く。
 そして、こんな席にも引け目を感じずに済む程度に、すべてが自分の身についていたのだった。
 それが、まだサーフォーク家に暮らしていたころ、ジェイムズが教師を呼び、会話や作法、必要な教養などを教えてくれたからに他ならないと思い至った時には、ローズは今更ながらに涙が出そうになった。
 結局、要は慣れの問題で、心配したほど恥をかくことも、怖れることもなかったのかもしれない。

 夫妻はオペラ観劇なども好むらしく、夜は着飾って出かけることが多かった。主人がいなくなると、数人の召し使いたちもめいめい自室や台所へ引き取ってしまう。
 ローズも与えられた部屋で、身体を少しでも休めるために、早めにベッドに入るのだった。
 時折、ソールズ村の無作法だが元気な子供達のことを思い出した。
 突然の成り行きで別れを告げることもできなかったが、あの子達に新しいよい教師を、キングスリー夫妻が見つけてくれただろうか? 夫妻やメアリーは今ごろどうしているのかしら。ふと懐かしくなることもあった。


 こうして、日々は穏やかに過ぎていった。

 お腹の赤ん坊が三か月に入ったころから、食欲が落ち、自分でも少し痩せてしまったと思う。心配していたつわりはなかったが、腹部が少しふっくらし、胸も大きくなってきていた。身体は着実に生まれる子供のために準備を始めている。

 だがそれはローズに、喜びと同時に深刻な現実問題をもたらしてくる。
 このことを誰にも知られずに、いったいいつまで過ごせるのだろう。主人夫妻に知れたら、間違いなく追い出されてしまうだろう。
 その後自分はどうするつもりなのか……。

 メイドや子守りが多いと噂に聞くロンドン下町、たとえばパターソン街の薄暗い地下室でも借りて、裁縫や子守りをしながら働く自分の姿が目に浮かんだ。
 ひどく不衛生な環境で生まれるという赤ん坊達の話を思い出すと、ぞっとして気持が挫けそうになる。
 自分が意地を張りさえしなければ、この子は子爵家の子供としてシルクの産着にくるまれて、生まれてくることも可能だったかもしれないのだから……。

 それでも、後悔はしたくない。そう、彼のためにも、あの辛い選択をしたのだ。自分などを子爵夫人にするという愚かな真似をさせて、彼がロンドン社交界の笑い者になるのは耐えられない。彼も今ごろはとっくに目が覚めているに違いない。

 決して後悔はするまい。だが近いうちに、本当に覚悟を決めなければならない時が来るだろう。



 サーフォーク子爵は子爵邸の書斎で、書きかけの手紙を読み返すと、いらいらしたようにそれを丸めてしまった。
 もうこれで何枚目だろう。ついに手紙を書くのをあきらめて、葉巻を取りあげた。しばらく吸っていなかったが、またこれがないと落ち着かなくなってきている。
 傍らには飲みかけのブランデーの入ったグラスが置かれていた。それはまだ時折きりきりと激しく疼く心の傷の痛みを、どうにか鈍らせてくれるたった一つの鎮痛剤になっていた。
 何も考えないようにするにも、かなり努力が必要だったし、それでもうまくいかない日が多かった。

 数時間後には、またどこかのパーティに出なければならない。招待状は執事に任せたきりで、どこだったか覚えてもいない。
 またそこで誰か令嬢をエスコートして、ダンスなどしなければならないのかと、思っただけでもうんざりした。
 心は完全に冷え切っていて、自分で意識しているわけではないのだが、表情にも動作にもそれが表れ、近寄りがたい雰囲気になってしまっているようだ。以前は熱心に彼の気を引こうとしていた良家の令嬢達も、今では遠巻きにして見ているだけで、あまり近づいてこなかった。もっとも彼にとってはその方がありがたかった。

 夜更けのクラブでカードゲームやチェスに無意味な時間を費やし、馬鹿げた話に興じる振りをしながら、空しく日々を送り迎えていた。毎朝遅くに起き出し、夜半に酒を何杯もあおってようやく眠りに落ちるまで、何の希望もない砂を噛むような一日が待っているだけだ。

 ローズマリー……。
 彼は椅子に深くもたれかかると、目を閉じた。
 彼女に会いたくてたまらず、どうにかなってしまいそうだ。一目姿を見るだけでもいい。
 彼女がいない日々にこの先いつまで、耐えなければならないのだろう。このひと月余りでもうすでに、耐え難い孤独と渇きに心も身体も侵食され、ボロボロだった。その苦痛はかつて失踪した彼女を必死で探していた時以上に、耐え難いものだった。その理由は分かり切っている。

 今朝も彼女の夢を見た。彼女は優しいブラウンの瞳を潤ませて、彼にしがみついてきた。彼女を力いっぱい抱きしめ、口づけしながらその甘い香りを吸い込み、愛を交わそうとする。彼女の笑顔が泣き顔に変わり、彼ははっとして目を覚ました。既に日は高く上り、広いベッドにあいかわらず自分は一人きりだった。口中に苦いものが溢れた。

 あの日、見るともなしに見ていた新聞に、彼女の名の広告を見つけた時は、打たれたような気がした。ではやはり彼女の胎に、子供は宿っていなかったのだ。こうして彼の最後の望みも容赦なく断たれてしまった。そして彼女は既にすべてを過去に置き去って、新しく歩き始めようとしている。それが実感された瞬間だった。
 あまりの苦痛に、メイフィールドへでも引きこもるか、いっそ外国へでも行けばいいかもしれないと思ったこともあった。だがそれもできはしなかった。なぜなら、彼女がこのロンドンにいるからだ。
 考え悩んだ末、とりあえずの手は打った。今のローズマリーでは、どんなに差し伸べても自分の手は絶対に拒むに決まっている。ジェイムズは社交界でそのころ、家庭教師を必要としていた貴族の友人達の中で、最も優しく人柄のいいエルマー夫人を選んだ。くれぐれもよくしてやって欲しいと頼み、彼女を託した後も、折にふれて必要な物を届けさせたりした。雇い主の夫人からということにすれば、彼女も拒みはしないだろうから。おかげで彼女の様子も、パーティなどで夫人に会った時には聞くことができた。変わりなく元気でいるようだ。
 彼女の心が変わるとは到底思えない今は、不本意だがそれで満足しなければならなかった。



 こうしてロンドンにもいつものように春が巡ってきた。
 五月も近いある晴れた日、ローズが午後の授業を終えて階段を降りていくと、エルマー夫人が貴婦人の客を連れてホールから上がってくる所へすれ違った。

 上品な香水の香りと、衣擦れの音がする。ローズが脇へ退き、立ち止まって腰を屈めると、エルマー夫人が彼女に気付き、声をかけた。

「あら、ミス・レスター。マライアのお勉強はもう終わったのね」
「はい、奥様」
「ミス・レスター?」  その時連れ立っていた貴婦人の声がした。
「ええ、そう。先ごろ来られた娘の家庭教師ですの。ミス・ローズマリー・レスターですわ」
「まあ、ローズマリー・レスターとおっしゃって? ではあなたなの?」

 その驚きのこもった美しい声と自分に向けられた視線を感じ、ローズは顔をあげた。黒曜石のような黒い瞳と目が合う。
 目の前で自分をじっと見ているその貴婦人の顔には、確かに見覚えがあるような気がした。でもどこでだろう? 最近の記憶ではないようだけれど。
 その時、婦人はにこやかに微笑んで、ローズに指輪のはまった白い手を差し出した。

「初めてお目にかかるわね。あなたのお名前は存じておりますわ。わたくしはゲイリック伯爵夫人、アンナ・ダンバード・ミルトウェイです」

 その名を聞いた途端、ローズの顔からさっと血の気が引いた。彼女は返す言葉もなく、呆然とダンバード侯爵令嬢、現在のレディ・ゲイリック、アンナを見つめていた。


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patipati
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12/04/22