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 Chapter  17 



「お掛けなさいな。そんな顔をして、どうなさったの?」 

 レディ・アンナは優雅に微笑むと、彼女にも椅子に座るように促した。ローズは勧められるまま、エルマー家サロンのカウチに腰を下ろした。
 この方がどうして自分の名など知っているのだろう……。それに話がしたいと言われるなんて。
 意外な成り行きに、何がどうなっているのかまったくわからず、ただとまどっていた。
 だが今目の前にいるのは紛れもなく、あのクリスマス・パーティの日、子爵家で見たレディ・アンナその人だった。
 彼女はローズをしばらくつぶさに見ていたが、やがてにっこりと微笑んだ。

「わたくしをご存知かしら?」
 ローズは何とか肯いた。自分がきっと馬鹿みたいに見えるに違いないと思った。
「あなたには一度是非、お目にかかりたいと思っていましたのよ。でもジェイムズもずいぶん控え目におっしゃったものね。こんなに美しい方だとは聞いていなかったわ」
 アンナの言葉に、ローズは思い切って問いかけた。
「……どうしてわたしのことなど、ご存知でいらっしゃるんでしょう?」
「もちろん、ジェイムズから聞いたに決まっているでしょうに」
「……?」
 まったく訳が分からない。それが顔に出ていたに違いない。アンナはくすくすと笑い出した。

「アンナ、あなたもお人が悪い方ね。それならそうと、もっと早くおっしゃって下さればよろしいのに」
 エルマー夫人が、微笑みながらたしなめるようにアンナに言う。
「でも、この方がお宅にいらっしゃると、どうして分かったかしら?」
 まるで二人とも、何か事情を知っているような口振りだ。ローズ一人訳が分からず完全に困惑していた。その様を見て、ようやくアンナもまじめな顔になった。
「シャーロット、申し訳ないけれど少しはずして下さらないかしら。わたくし、ミス・レスターと二人きりで、お話したいと思うの」
「わかりましたわ。ではどうぞごゆっくり」

 そう言って、エルマー夫人が出ていくと、二人は優美なサロンのテーブルを挟んで静かに向かい合った。部屋には午後の陽射しが穏やかに差し込んでいる。


 アンナはエルマー夫人が出ていったのを確かめてから、ローズに向き直ると開口一番、非難めいた口調でこう言った。
「あなたがサーフォーク子爵のご婚約者ですわね。どうしてジェイムズとまだご結婚なさらないの? その上家庭教師だなんて、レディ・サーフォークにふさわしいとは言えないんじゃなくて?」
「………」
 ローズは何も答えることができず、ただ目を見張った。
「ジェイムズとご婚約なさったのはもうずいぶん前でしょう?」
「どうして……それを、ご存知でいらっしゃいますの?」
 訳が分からず、こう聞き返したローズを前に、レディ・アンナは小さくため息をついた。

「おととしのクリスマスの夜、サーフォーク邸でクリスマスパーティがありましたわね。その後わたくしはあの人を連れて、父に会いに行きましたのよ。それはご存知かしら?」

『あの後アンナを送って、侯爵邸まで行かなければならなかった。……しかも侯爵からは、やっかいな話を持ち出され、すぐに屋敷に戻ることもできなかった……』
 そういえば、あの時子爵がそんなことを言っていたと思い出し、彼女は小さく肯いた。
「父は彼の気持を、早くはっきり知りたかったの。あのころわたくしと彼の間に結婚の話があったことは……」
「存じておりました」
 今度はローズもはっきりと答えた。アンナも肯いて、真剣な顔で続けた。
「父の前であの人ははっきり答えたわ。とても勇気が必要だったと思うけれど」

そう言って、アンナはその夜のことをローズに語り始めた。



「ほう、この縁談を断るというのかね」

 ダンバード侯爵は、目の前に座る若きサーフォーク子爵の意外な返事に耳を疑い、思わず問い返した。侯爵の隣でアンナも息を呑んでいた。
 クリスマスの夜更け、侯爵家のサロンには侯爵と、今ここに戻ったばかりのアンナ、そしてアンナを送ってきた正装のサーフォーク子爵が、座っていた。

「はい」
「なぜかね? わしは、老レディ・サーフォークから内々に受諾のお返事をいただいておるのだぞ。君は爵位こそ子爵だが、進取の才があり見込みがあると、常々思っていたのだ。わしとしても、君が娘の婿になってくれればこんなに嬉しいことはない」
「……侯爵、お気持は大変ありがたく思います」 
 子爵は、口元にかすかに微笑を浮かべて答えた。
「ですがレディ・アンナはわたくしなどにはもったいない方です。もっと優れた紳士がお似合いでしょう」
「だが、娘も君を気に入っておる。嫁に行ってもいいと、わしにも申したほどだ」
 彼はしばらく黙っていたが、やがて覚悟を決めたように目をあげて、侯爵をまっすぐに見た。
「実は……。わたくしには結婚を誓った相手がおります。理由があって今まで公には発表を控えておりましたが。来年の五月に結婚いたします」
 二人は更に驚いて、顔を見合わせた。
「わしの娘との結婚を断り、娘の名誉を傷つけてまでも、かね。そもそも、この話を打診してきたのは、老レディ・サーフォークではなかったのかな」
 侯爵の眼差しが険悪になり、怒りの色が濃くなった。ジェイムズはふいに立ち上がり、胸に手を当て侯爵に正式な礼をした。そして静かに口を開く。
「ダンバード侯爵閣下。大変なご無礼を申しあげまして、本当にお詫びの言葉もございません。ですが、それは祖母の一存でしたことで、わたしの意志ではなかったのです」
「それで済むと思っておるのか」
「お怒りは、どのようにもお受けいたします」

 そしてアンナの方を向き、彼は再び丁重に詫びた。アンナは腹立たしさと屈辱感で一瞬言葉を失っていたが、やがてつんとそっぽをむいたまま怒って問いかけた。
「その方はわたくしよりも、よほど素晴らしい方のようね。いったいどちらのご令嬢なのかしら?」

 今度は子爵も、自嘲するようにわずかに唇を歪めた。
「いや、名もない下級役人と女教師の娘にすぎません。貴族ですらないのですから」
「何と言った? 気が狂ったとしか思えんな。それでは君は、そんな平民の娘を次のレディ・サーフォークにすえるつもりなのかね」
 驚いて鋭く問い返す侯爵を、彼は動じることなく、まっすぐに見かえした。
「熟慮の上でのことです」
「これはこれは……、冗談にもほどがあるというものだ」
「いいえ、冗談ではございません」
「ジェイムズ。君は愚か者の青二才ではないと思っていたが……」侯爵は呆れたように首を振った。「わしの見込み違いだったのか? そんなことをすれば、言うまでもなく君の家門全体が、ロンドン社交界の笑い者となり、のけ者にされるぞ。第一そんな娘に、サーフォーク家を取り仕切ることなど、できるはずもないではないか」
「もちろん、そのようなことは覚悟の上です。彼女を知らない間は悪く言う者達も出てくるでしょう。だが、彼女はしんが強い人です。また飲み込みも非常に早い。早晩彼らを上手に裁くこつをつかんでくれると信じています。それまでは、わたしが精いっぱい手助けし、かばっていくしかないと思っております」
「王家とも遠縁にあたる我が愛娘よりも、そんな娘を選ぶとはな。サーフォーク子爵家もまったく末だの。これでは、大事な娘を任せるわけにはいくまい」
 侯爵が辛辣な口調の中に煌かせたユーモアの響きを感じ、ジェイムズはようやく小さく息をついた。自分でも気付かぬうちに息を詰めていたのだ。再び微笑して答える。
「そうかもしれません」

「……本当に本気なのね。その方は今どちらに?」
 熱意のこもった彼の言葉を聞くうち、アンナは次第に感動し始め思わず振り返った。
 もともとジェイムズとは幼友達なので、彼の性格はよく知っている。彼がこれほど熱心になった時には、どんな障害があっても克服し、必ず見事に成し遂げてしまうということも。怒りはもう解けていた。アンナに向けられた子爵の顔に、滅多にない優しい笑顔が浮かんだ。
「我が屋敷に。彼女は妹の家庭教師でしてね」
「お名前を教えてくださるわね? 今度お伺いしたら是非、紹介して頂かなくてはなりませんもの」
「これ、娘や」
 侯爵が困ったような、半ばあきれたような顔でたしなめる。彼女は父の方を向いて微笑んだ。
「いいのよ、お父様。ジェイムズは本気ですわ。わたくしは別にこの方に恋しているわけではないのですもの。それはご存知でしょう? ですから大丈夫、この無礼は許して差しあげるわ。どうぞお父様も認めてあげてくださいな」
 そう言い置いて、アンナは再び子爵の方を振り返った。
「その幸運な方のお名前は、何とおっしゃるの? その内にきっと会わせてくださるわね」
「ローズマリー・レスターといいます。あなたがいろいろお教え下されば、彼女もより早く社交界に馴染めることでしょう」

 子爵はこう言うと、アンナにもう一度微笑みかけ、手を取って口づけした。



 ローズの大きく見開かれたブラウンの瞳から、知らず知らずのうちに涙が伝い落ちた。そして、それを拭うことさえ忘れていた。

 あの晩、まさかそんなことがあったとは!  それなのに自分はその同じ時刻に、老レディ・サーフォークとウィルソン夫人の言葉に一言も反論できず、あっさりと彼の元を去ってしまったのだ。
 ジェイムズが侯爵からの申し入れを断ることは、一歩間違えれば子爵家の名誉が失墜し、社交界での信用をも喪失する大変な事態を招いたはずだ。もっと言葉を濁してごまかし、言い逃れることもできただろう。あるいは??おそらくは老子爵夫人が考えたように??自分のことなどその場で切り捨て、アンナを選ぶこともできたはずなのだ。その方がどれくらい子爵家の利益になっただろう。
 にもかかわらず、彼は隠し立て一つせず、堂々と誠心誠意を持ってダンバード侯爵に対峙することで、この二人を味方につけ、社交界では例を見ない二人の関係を、勝ち取ってくれたも同然だったのだ。

 それに引き換え自分はどうだっただろう……。
 初めてのパーティで上流社会のきらびやかさに目眩を感じ、完全に自分に自信を失くしてしまったのは事実だった。もはや自分を誤魔化すことはできなかった。あの夜、せめて自分にもう少しだけ勇気があったら……。いくら事情が何も分からなかったとしても、その日まで自分のために彼がしてくれたことを思い、彼を信じ、彼が自分に会いに来るまで屋敷に踏みとどまっていられたら。

 だがそれができなかったばかりではない。それにもまして、今度の拒絶は更に酷かったのではないだろうか。ローズは痛みを抑えるかのように胸に手を当てた。一年も費やして彼がこんな自分を探し出し、もう一度手を差し伸べてくれたのに、そしてこれ以上ないほど心を開いてくれていたのに、その手を自分はあんなにも手酷く振り払ってしまった。
 もう今更、遅すぎる。挽回の余地はないのだ……。

 アンナはローズの涙と、その茶色の目に浮かんだ激しい苦悶の色を見て、同情したように表情を和らげた。そして話を変えた。
「ねえ、ご存じかしら? ジェイムズは二十三歳で爵位を継いだのよ。彼のお母様は彼が二十歳の時、マーガレットを出産なさってから亡くなり、それから三年後に今度はお父様が、急にお倒れになって、そのまま意識がお戻りにならなかった。すべてを受け継いだ時、ジェイムズはまだとても若かったから、きっと重荷に感じたと思うわ。幼い妹の父親代わりになり、引き継いだ爵位とともに責任も受け継ぎ、わたくし達が毎日楽しく過ごすことしか考えていない時に、工場の経営のことを一生懸命に学んでいたの。普通は人任せにしてしまうのに。そうしながら今までずうっと来ているのよ」
 ローズは思わず呟いた。
「あなたとご結婚されていたら、あの方も今ごろずっとお幸せになっていらっしゃったでしょうに」
 辛くてたまらなかった。なぜ、ジェイムズはこんなに素晴らしい方を断ったのだろう? なぜ、自分などのためにそこまでしたの? 自分には何もないのに。本当に彼に与えられるものなど何一つ持っていないのに。
「でも彼はそうしなかったのよ。そしてわたくしはゲイリックと出会い結婚して、とても幸せになったわ。だから彼も早くそうなってくれたらいいと願っているの。今のジェイムズは、まるで……」
 ローズがぎくりとしたように、身体を強張らせるのを見て、アンナは口を閉ざしてしまった。
「立ち入り過ぎたようね」
 こう呟くなり、手もとのベルを取りあげメイドを呼ぶと、エルマー夫人に話が終わったことを告げるようにと言った。
「あなたにお会いできて本当によかった。早くジェイムズとお幸せになられることを、祈っていますわ」


 ローズはお辞儀をすると静かにサロンを辞した。頭の中で今の話がぐるぐると回っていた。夕刻まで自室にぼんやりと座っていたが、そのうちあることを思い出して、居ても立ってもいられなくなった。部屋を駆け出し、小走りにエルマー夫人の部屋の前まで行くと、ドアをノックする。返事を受けて入っていくと夫人が驚いたようだった。
「まあ、ミス・レスター、真っ青じゃないの。そんなに血相を変えていったいどうしたの?」
 ローズは礼儀も忘れ、いきなりエルマー夫人に問いかけた。
「奥様、奥様も何かご存じなのでしょうか。サーフォーク子爵様のことで」 
「まあ、何かと思ったら、そのこと」
 夫人は微笑んで、彼女を部屋のカウチに座らせた。
「口止めされていましたけどね。あなたを雇う時に推薦してくださったのは、サーフォーク子爵なのです。あなたに差しあげたドレスも、実はあの方からのお差し入れなのよ。いつもパーティなどでお会いする時には、決まってあなたのことを聞かれているわ。とても気にかけていらっしゃるのは、すぐわかりましたよ。あら、どうなさったの。ご気分でもお悪いの?」
「いいえ、何でもありません。大変失礼いたしました」
 突然の吐き気に見舞われたローズは、いそいで部屋を出た。エルマー夫人が廊下まで出てきて、いぶかしげに見ていたが、それに構う心のゆとりもなかった。
 急に走ったりしたせいだ。たまにつわりでこういうふうになる。胸がむかむかした。ショックも重なっていたに違いない。
 もうこれ以上は何を聞いても驚かないと思っていたのに……。まさか、彼が自分を推薦してくれたなんて! 何ということだろう。それではあの新聞の広告を彼も見たのだ。道理で異例に早く決まったわけだ。

 吐き気をこらえて、足を引きずるように部屋に戻ると、衣服を脱いだ。まだ手持ちの衣服を着ることはできたが、最近少し出てきたお腹を目立たせないようにするため、コルセットを普段もつけていた。それをはずすと、少し楽になった。
 ローズはゆったりした寝間着に着替えてベッドに横になったが、とても眠れなかった。押さえ切れない涙が、また溢れてくる。無意識のうちに腹部を撫でながら、彼への愛に胸がいっぱいになった。壁にかかったドレスをじっと見つめる。

 彼に会いたくてたまらなかった。だが、今更どうすることができると言うのだろう。口に出してしまった言葉はもう取り消せない。
 彼への思いを胸の奥深く秘めたまま、これからこの子と二人で生きて行こう……。

「ジェイムズ、愛しているわ」

 ローズは瞼を閉じると夜の闇に向かって、そう囁きかけた。


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patipati
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12/04/23