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 Chapter  18


 夏が近付く頃には、いよいよ手持ちの衣服がすべてきつくなってきた。ウエストを出せる限り出してみたが、服装も薄着になってきている。
 先日エルマー夫人の前で気分が悪くなって以来、更に注意深くして、コルセットもきつく締めてはいたが、夜、衣服を脱いで鏡の前で自分の姿を眺めては、絶望的な気持になっていた。
 これではもう妊婦であることが一目瞭然ではないか。


 ローズは、これからのことを真剣に考える時が来たと悟った。わたしは、どうするべきなの?
 子爵にこのことを打ち明けたらどうなるだろう? だが、そんな思いは素早く打ち消した。

 あの別れの日からもう数か月が過ぎていた。
 落ち着いて考えてみると、その間、自分がここにいるのを知っているにもかかわらず、彼が一度も訪ねてこない、という事実が物語っていることは明白だった。
 彼の関心はもう自分から遠のいたのだ。エルマー夫人に書いてくれた推薦状やドレスは、彼の最後の思いやりだったに違いない、という結論に達せざるをえなかった。
 それならば、今更子供がいますなどと、口が裂けても言うまいと思う。そんな重荷を負わせたくはなかった。

 やはり辞職しよう。
 できるなら追い出されるまでここをやめたくはなかったが、事を荒立てずに済ませるにはそうするしかない。
 もしエルマー夫妻に妊娠の事実を知られてしまったら、子爵の耳にも入るばかりか、推薦してくれた彼の信用までも失わせてしまうからだ。
 だがそのためには、まず自分の行き先を確保しなければならなかった。そして身重でもできる仕事を探さなければならない。

 ロンドン市内にある駅馬車の中継所には、地方から職を求めて出てきた下層階級の人々がよく使う掲示板があると言う。そこには求人広告も出ているらしい。以前ローズはその場所を見たことがあった。



 曇り空の午後、授業を終えたローズは身支度を整え、エルマー夫人から夕方までの外出許可をもらい屋敷を出た。
 閑静な貴族達の邸宅街のはずれで辻馬車を拾う。御者はローズが行き先を告げると、彼女の身なりをじろっと眺めて驚いたように言った。
「お嬢さん、そんな場所へあなたみたいな人がいったい何をしに行かれるんで? 悪いことは言いません。おやめになった方がようございますよ」
「用があるんです。行ってください」

 やや青ざめたがきっぱりと、彼女は言い切った。御者はローズが手渡した硬貨を数えてため息をつき、馬車を走らせ始めた。
 テムズ川を越えて、邸宅街から市街地へ入る。通りは人で溢れ、馬車が行き交い、大きな荷を積んだ荷車をロバがよたよた引いていく。
 大きな乗り合い馬車が、たくさんの人を乗せてゆっくり進んでいる。ローズは久し振りに目にするその喧騒に、思わず唾を飲み込んだ。
 遠からぬ先、自分もこの中に入って生活していかなければならないのだ。気後れしてはだめ。しっかりしなければ。

 コヴェント・ガーデンの付近を通りかかった時、ローズはふいに思い立って馬車を停めさせ、降り立った。
 ここにも何かありそうに見えたからだ。先に御者に告げた場所に比べると、遥かにましな場所だった。そこは青物市場と劇場が隣接する不思議な場所で、明るいうちと暗くなってからでは行き交う人も雰囲気もまったく変わる。
 午前中は荷車や労働者でごった返し、夜は上流階級の紳士淑女が着飾って観劇に訪れる場所だった。

 路上に立ってしばらくどちらへ行けばいいかと迷っていると、目の前に薄汚れた貧しい身なりの花売り娘がやってきた。黙ってローズに花を一束差し出す。買ってくれという意味だろう。
 ローズはポケットから一ペニー硬貨を取り出すと、娘に渡しながら尋ねた。
「この辺りに、お仕事を紹介してくれるような所はないかしら」
 娘は硬貨を素早く受け取ってしまい込みながら、心底びっくりしたように、ローズをまじまじと見た。
「何の話だい? あんたみたいなべっぴんのお嬢さんが、こんなところで仕事だって? 冗談はよしてよ、あたしは忙しいんだ」
 なまりの強いアクセントで早口に言うと、駆けていって次の客にまた花束を差し出している。
 ローズは小さな花束を手にため息をついて、また歩き出した。まずこの環境に慣れるのが先決のような気がしてきた。

 往来で男達が彼女を見ながらにやにや笑って口笛を吹く。知らん顔をしていそいで通り過ぎた。こんな格好で来たのも失敗だったかもしれない。もっとみすぼらしい服装で来るべきだった。
 しばらく市井の人々を眺めながら歩き回っているうち、ごみごみした裏通りへ来ていた。ふと前方にさっきの男達が二人、まだにやにや笑いながら、こちらに近寄ってくるのが見えた。

 ローズは、はっとして立ち止まった。彼らが何を考えているのか、直感でわかったからだ。
 二人が近づいてくる前に、いそいで身を翻し、元来た道を走り始めた。身体が重く、息が切れるがそんなことを言っていられない。ショールも、帽子も落ちてしまった。

 彼らが追いかけてくる。とうとうローズは声をあげて助けを求め、身体を半ば引きずるようにして表通りの見える所まできた。息が切れて気分が悪い。足がもつれよろめいた時、とうとう彼らに捕らえられてしまった。
 胸のブローチと手にしたポーチが引きむしられる。ローズは、とっさに捕まえている男の手に噛み付いた。男が叫んで手を離した隙に、狭い道から大通りへと走り出た。

 通りには馬車が走ってきていた。突然飛び出したローズに驚き、御者が大声をあげたのが聞こえる。
 馬がいななき棹立ちになった次の瞬間、身体に強い衝撃を受け、彼女の意識は暗闇にのみ込まれていった。



 その知らせがサーフォーク邸に届いたのは、その日の午後遅くだった。
 サーフォーク子爵はその時出かけていた。面白くもない会合に引っ張り出され、不機嫌な顔で屋敷に戻ってきた時には夜半も近かった。
 扉を開くとブライス執事が動揺を隠せない青い顔で出迎えた。普段めったに動じることのない執事のその様子を見て、思わず眉をひそめる。

「どうした? 何かあったのか?」
「旦那様、実は二時間ほど前に、エルマー邸からご連絡をいただきまして、その、ローズマリー様が……」

 その名を聞いた途端、子爵は喉がからからに乾くのを感じた。

「彼女に何かあったのか?」
声が思わずかすれる。
「午後からお出かけになったまま、まだお帰りにならないそうです」
「何だと? それはどういうことだ?」
「詳しいことは、わからないのですが」
「すぐ、エルマー邸に使いを出せ。もっと詳しく……」
 その時、再び玄関の扉を叩く音がして、二人ともぎくりとして振り返った。執事が注意深くドアを開けると、若い警官が立っている。

「夜分遅くに失礼いたします。こちらはサーフォーク子爵のお住まいですね」
「左様ですが、何かご用でしょうか」
 執事が動揺を押し隠し無表情に応対している。子爵はその後ろで息を殺した。

「実は今日の午後、コヴェント・ガーデンで馬車に跳ねられた女性を保護いたしました。金髪で茶色の瞳、年は二十前後と思われます」
 子爵は執事を押しのけるように前に進み出た。警官も彼に気付いて敬礼した。
「それで、なぜここに?」
 声が震えないようにするのが苦労だった。落ち着け。そんな特徴の娘なら他にもいくらでもいる。まさか、そんなことが……。
「身なりのいいレディなのですが、身元が分からないのです。只今現場近くの病院に収容されております。先ほど一瞬だけ意識を取り戻し、かろうじて閣下のお名前を申されましたので、もしやご縁のある方かと。看護婦が本人に名を尋ねましたところ、ローズマリーとだけ聞き取れたそうです」
「神よ!」
 ジェイムズは目の前が真っ暗になるほどの衝撃を受けた。一瞬心臓が止まりそうになる。
「どこの病院だ? すぐに行く。案内してくれ」

 その次の瞬間、彼は動き出していた。まだ外に出ていた子爵家の馬車に直ちに警官とともに乗り込むと、ガス灯の点る夜道を、できる限りのスピードでその病院に向かわせた。
 もたらされた知らせの衝撃に、胸が引き裂かれそうだった。
 彼女にもしものことがあったら……、自分も生きてはいられない。



 警官から酷い外傷はないと聞き、表面的にはどうにか落ち着きを保っていたにしても、心の中は嵐にもまれる木のように大揺れに揺れていた。

 病院に着くとすぐ病室に案内される。僅かなランプの灯だけの室内は、たいそう薄暗かった。御者が灯りを点し先に立つ。
 大部屋に幾つも並んだ寝台には、老若男女様々な患者が臥せっていたが、寝台を隔てる仕切りもなかった。染みだらけのシーツや、ベッド脇に無造作に置かれた洗面器や水差しの不潔さにぞっとしながら、子爵は目を凝らしてその中に金髪の若い女の姿を探した。
 御者の掲げるランプの光の中、一番隅のベッドの上に、広がる金髪と青ざめた顔が見えた。

 ローズマリー! 
 息を止めてジェイムズは、しばらくその枕元に立ち食い入るように、ぐったりと横たわる血の気のない顔を見つめた。
 痩せた……。一目で分かるくらいに。シーツから出た彼女の右手を片手でそっと取りあげ、親指で華奢な手の甲をゆっくりと愛撫した。
 その時背後で咳払いが聞こえ、はっとして振り返る。彼の青藍の瞳は燃えるようだった。
 やってきた医師に御者が子爵を紹介している。医師は一瞬驚いたように彼を見、それから取り繕うように丁重に会釈をした。
「どんな様子だ」
 再び彼女に視線を戻しながら、子爵は緊張した低い声で医師に尋ねた。
「全身を酷く打ちつけて脳震盪を起こしていました。ですが骨には異常有りませんし、すり傷の他には大きな外傷もございません。しかしながら……」
 口髭をひねり、医師は厳しい表情で続ける。
「このご婦人は、身ごもっておられます」

 子爵は目を閉じた。
 この衝撃に耐える覚悟はできていなかった。
 彼の震える手がまだ掴んでいた彼女の手を力いっぱい握り締める。
 思わず声をあげそうになるのを必死に歯を食いしばって、ようやく持ちこたえた。

「……それで、今、子供の状態は?」
 しばらくして、ようやくしぼりだすような声で、子爵は問いかけた。医師は重々しく首を振った。
「倒れた時に腹部も強打しておりまして、今出血とともに胎児が外へ流れ出しつつあります。ただ、もう五か月くらいでして、かなり大きな胎児ですので、母体にも負担が非常に大きく、危険です。これからできる限りの手は尽くしますが」
「それには及ばない。彼女を動かせるか?」
「はい。今のうちでしたらまだ。ですが処置でしたら、こちらでも」
「ここでか?」
 彼は苦々しく周囲を見回し、医師を睨みつけた。
「いや、動かせるなら、彼女はわたしの屋敷に連れていく。たった今、すぐにだ」

 彼は青ざめて身動きもせずに寝台に横たわるローズの側から、一瞬たりとも離れることはできなかった。




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patipati
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12/04/24