NEXT ・ BACK


 Chapter  19


 夜半過ぎに馬車が戻った時、サーフォーク邸は一転して大騒ぎになった。

 流産の痛みが始まり、時折うめき声とともに苦しげに身をよじるローズを、両腕に包み込むように抱きかかえると、子爵は素早く邸内に運び込んだ。
 彼女の部屋は既に何か月も前から準備されていた。その新しいサテンのシーツを掛けた天蓋付きの寝台に彼女をようやく横たえた時には、ジェイムズの顔もローズに劣らず青ざめていた。
 子爵家のお抱え医師が叩き起こされ、熟練した助産婦、看護婦を連れて大急ぎで駆けつけてきた。

 メイドのドロシーがベッドの傍らで医師の指示を待って控えている。ブライス執事の手配でエルマー家にメッセンジャーが送られた。ミス・レスターは事故に遭い、当分の間子爵家で預かるという言付けだった。
 マーガレットは兄に抱えられたローズの姿を見て、思わず悲鳴をあげて駆け寄ってきたが、兄の緊張しきった顔を見るなり、脅えたように黙りこんで自室に引っ込んでしまった。誰も眠るどころではない。


 長い時間が過ぎた。

 医師から部屋を出た方がよいと強く言われ、子爵はしぶしぶ隣室に引き取っていた。そこでも、痛みにうめく彼女の声が切れ切れに聞こえてくる。
 子爵はそのたびにはっとしたように立ち上がり、いらいらと室内を歩き回った。まだ終わらないのだろうか。彼は心の中でひたすら祈り続けていた。
 医師が、看護婦達とともに彼女の命を守るために最善を尽くしている。長い長い、もう明けないかと思うほど長い夜だった。

 あの最後の日に、何としても手を離すべきではなかったのだ。そしてその後も。
 求婚を断られた紳士らしく、つまらない騎士道精神などを発揮して、彼女から遠ざかってしまったことが、どんなに悔やんでも悔やみきれなかった。
 彼女はやはり身ごもっていた。ああ、なぜ一言も知らせてこなかった? いや、わかっている。自分に負担を負わせまいとしてのことなのだと、容易に察しがついた。彼女はそういう性格なのだ。それも腹立たしかった。
 だが今更後悔しても、もうどうにもならない。自分のせいで愛する女性に途方もなく深い傷を負わせ、あげくに命まで危うくしている。そして彼女の胎内に芽生えていた小さな命が、今失われてしまった。
 ことによったらその子供は、サーフォーク家の後継となったかもしれないものを。そう考えた時、子爵の口から、我知らず苦いうめき声が漏れた。

 彼女も彼女だ。そんな身体で、エルマー夫人にさえ感づかせないように、普段通りに振る舞っていたと言うのか? いったいどれほど無理をしていたのだろう。
 そう思うとまったくやりきれず、彼はぶち破りそうなほど激しく、拳をテーブルに叩きつけた。



 下腹部が焼けるように痛い。身体の中で渦を巻いて何かが外へ出て行こうとしている。
 かけがえのないものが、自分から容赦なく引き離される感覚に、ローズは絶望的に身をもがいた。

 だめ、行かないで! 行っては嫌! わたしはまた一人ぼっちになってしまう……。
 痛い。この引きつれるような声を出しているのは、わたしなの? ああ、痛い。もう何もわからない。


「ローズマリー」
 心配そうに自分を呼ぶ深みのある低い声。なつかしいあの人の声だ。これは夢ね、そう、いつか見たような夢。
「ローズマリー……」
 もう一度名前を呼ばれて、ゆっくりと目を開いた。大きな窓にかかるカーテンの隙間から、明るい昼間の光が差し込んでいる。  ローズのぼんやりした視界に、覗き込んでいる懐かしい顔が映った。誰よりも見たかった人の顔だ。
 だが、その顔は青ざめてやつれ、顎にはひげがうっすらと伸びていた。ダークブルーの瞳には苦悶の影がくっきりと焼きつき、いつものサーフォーク子爵からは想像もできないくらい、服装も髪も乱れている。
 いったい何があったのだろう?
 ローズはそっと手を伸ばし、愛しい男性の頬に力なく指先を這わせた。彼の手がその手を捕らえ、一瞬震えるのを感じた時、手のひらに彼の唇が強く押し当てられた。

「気分は?」 
「ここは、どこですの?」
「サーフォーク邸の君の部屋だ」
「サーフォーク邸……」
 まだ理解できていないように、ローズはぼんやりと繰り返した。
「警察から連絡を受けてね。病院から意識がない君をここへ運び込んだ。覚えているかい?  再会してから、君を担ぎこむのはこれで二度目だよ。もうこれっきりにして欲しいね」

 辺りの明るさに目が慣れてきた。幾度か目をしばたかせると意識がようやくはっきりし始める。そして下腹に鈍い痛みが残っているのに気付き、ローズははっとしたようにかすれた悲鳴をあげた。
「わたしの赤ちゃんが!」
「しっ、落ち着くんだ、愛しい人」
 ジェイムズの目にも強い痛みが宿っていたが、その声はとても穏やかだった。思わず身を起こそうとしたローズを優しく押しとどめ、柔らかな枕に頭をそっと戻す。
「君はコヴェント・ガーデンの通りに、全身を強く打って倒れていたそうだ」
 そうだった。記憶が戻ってくる。男達に追われ往来に飛び出して馬車に……。
「君に大した怪我がなかったのは奇跡だった。だが、赤ん坊は……、助からなかったよ。そして君まで失うわけには絶対に行かなかった」

 彼の言葉がローズの脳裏に届くまでに少し時間がかかった。やがてその茶色の目から堰を切ったように涙が溢れ出す。彼の苦しげな表情を見て、思わず顔を背けようとした。だが、再び力強い手に押しとどめられる。彼の瞳も濡れているようだ。そう思った時、彼女は暖かなぬくもりに包まれた。
 ベッドに上半身覆い被さるようにして、ジェイムズは長い間、嗚咽をもらすローズをしっかりと抱き寄せていた。彼女の髪を撫でて幾度も名前を呼びながら、その悲しみを包み込み、慰め癒すように抱き締める。
 やがて彼の手が、そっとローズの顔を包み込んで彼の方を向かせると、最初は指先で、次に唇で彼女の頬の涙をすくいとった。
 彼の眼差しがローズの瞳を射ぬいた。その瞬間、彼の唇がローズの唇に優しく重なった。悲しみを拭い去り、もう二度と離さないと言うように、繰り返し繰り返し角度を変えながら次第に熱を帯びていく。その口づけを受けながら、ローズの胸には長い放浪の果て疲れ切った旅人が、ようやく安息の地に帰りついたような、深い安堵感が広がっていった。

「もう決してどこにも行かせないよ。君のいるべき場所はここなんだ」
 キスの合間にほんの少しだけ顔をあげ、彼は囁くように言った。



 それから三日間、子爵は何も聞かずに看病した。着替えや身体を拭くのはドロシーに任せたが、それ以外は彼がついていて、細かいことまで面倒を見てくれた。
 四日目の朝遅く、ローズは深い眠りから目覚めた。まだ全身に虚脱感があった。空っぽの下腹部を無意識に撫でてみる。自分があんな無茶をしなければ子供は今も生きていられたのに……。そう思うとまた涙が溢れてくる。

 その時部屋の扉が開き、ジェイムズが入ってきた。
「おはよう。今朝の調子はどうだい?」
 彼女はいそいで横を向いて涙を隠したが、彼は気付いてしまったようだ。ベッド脇の椅子に腰掛けて、ジェイムズは辛そうに目を細め、優しく彼女の髪に手を触れた。
「もう、泣かないでくれ。お願いだ」
「ごめんなさい。あなたにまで嫌な思いをさせてしまって……」
 ローズの他人行儀な言葉に、また沸き起こる苛立ちを何とか押し殺すと、もう大丈夫だろうかと迷いながら、子爵はずっと気になっていたことを問いかけた。

「あの日、コヴェント・ガーデンなんかで、いったい何をしていたんだ?」
 できるなら答えたくなかった。馬鹿なことをと、笑われるに決まっている。
「………」
「話してくれないか。なぜこんなことになったのか、いきさつを知りたいんだ」
 彼の目は真剣で、妥協を許さないように見えた。ローズは簡単に説明しようと思った。
「少し、見物に行きたかっただけです」
「嘘だ。もっと他に理由があるはずだ。そうでなければ、君のような人が好んで、あんな下町の通りを歩くはずがない」
「……お腹が目立ってくる前に、落ち着き先と、させてもらえる仕事を探したかったんです。妊婦でもできるような。それであちこち見て歩いていたら、男の人が二人追いかけてきて、逃げたんですけど」
「何という!」

 観念したように目を閉じて、押し出すように呟かれたローズの言葉に、ジェイムズはしばらく絶句した。
 それでは彼女はこの事実を誰にも知らせないまま、下町の中に消えようとしていたのだ。彼はショックと憤りを抑えようと懸命に努力しなければならなかった。やがてローズの手を取ると、ざらついた声を出した。

「無茶だ! それはあまりにも無鉄砲すぎる。なぜ言ってくれなかった? 子供ができたことを。わたしが嫌がるとでも思ったのか?」
「………」
「君に途方もない負担を負わせてしまった。あの日、君から離れるべきじゃなかった。少なくとも君の身体の状態を確認するまでは離れるべきではなかったのに……。許してほしい」
 その言葉に、ローズは驚いて彼を見つめた。彼の口調にも表情にも自責の念が溢れている。ローズはまた胸が痛んだ。
「あなたのせいではありませんわ。どうしてそんなふうにお考えになるのか」
「こうなる可能性があると分かっていたのに、身を引いてしまったのだから。君にもう会えないと言われた時、わたしは完全に絶望してしまったんだ。わたしとの結婚が、レディ・サーフォークになるということが、君にとってそれほど負担なのかとね。それに君の出した広告を見て、わたしはてっきり、君は妊娠しなかったものと思い込んでしまった」
「でも、サーフォーク家にとっても、あなたにとっても、不名誉この上ない話ですもの。あなたにそんな思いをさせるなんて、絶対に嫌……」
「まだ、わからないのか! 君を祭壇の前に連れて行くためなら、多少の不名誉なんか喜んで被ったさ。だいたい、ああなった後で君がわたしとの結婚を断ったこと自体、本来考えられないことだったのに。だが、それにしても……」
 思わず深いため息をつく。
「わたしがどんなにその知らせを待ち詫びていたかなんて、君は考えて見てもくれなかったんだろうな」
 ローズの目が大きく見開かれ、思わず言葉が飛び出した。
「だって、あなたは……」
「何だい?」
「もう、わたしに関心がなくなったとばかり、思っていましたわ……。わたしが本当に愚かで、あなたのことが何も見えていなかったから、とうとうあなたにあきれられて、愛想を尽かされてしまったんだと」
「何てことを!」
 彼は心底驚いたように、そして怒ったように口を継いだ。
「君に会えなかったこの四か月間、わたしは、まったく死んだようだったのに」

 その時ふいにジェイムズは言葉を切って、彼女をまじまじと見た。彼の厳しかった顔がゆっくりとほころび、突然暗い雲間から日光が差し込んだように、微笑がその苦痛に満ちた表情に明るさを投げかけた。彼はローズの言葉の持つ意味に、その心の変化に気付いたのだ。

 ノックの音とともに、医師が診察にやってきたことを執事が告げた。ローズは目に涙を浮かべて彼を見つめた。離れたくない。まだ伝えなければならないことがたくさんある。
 そう言おうとした時、子爵は立ち上がり、口元に微笑をたたえて彼女を見下ろした。

「今はもう十分だ。君は何も考えずに休息を取らなくてはいけない。診察が終わったら食事を運ばせよう。食べたらもう一度ぐっすり眠るんだよ。君が元気になったら、話なんかその後毎日、一生できるさ」

 そして医師を部屋に招じ入れた。


NEXT ・ BACK ・ TOP ・ HOME


-----------------------------------------------

12/04/25