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 Chapter  20


「先生がお元気になられてからの、お兄様のお変わりようったら……。まったく目を見張るほどね」
 マーガレットがローズの部屋でお茶を飲みながら、半ばあきれたように首をすくめた。

 ローズが子爵に抱えられてサーフォーク家に戻った日から、ひと月が過ぎ、今、ようやくすべてが順調に流れ始めていた。彼女もベッドから出て、邸内を歩くことを許可されるようになった。もっとも子爵は必要以上に過保護になって、フォークとナイフ以上に重いものは持たせないような有り様だったが。

「ここに戻って下さってよかったわ。先生がいなくなってからのお兄様、本当に見ていられなかったんですもの。あんまり痛々しくて」
 マーガレットに真顔で言われて、ローズは思わず赤面した。二人の結婚を心から喜んでくれているこの少女や子爵家の執事、使用人達を見て、はじめてローズはそうしてもいいのだと思えるようになり始めていた。
 あんなに意地を張らなければよかったのかもしれない。もちろん、まだ問題がすべてなくなったわけではない。ウィルソン夫人やその他子爵家親族達の気持は、頑なですぐには変わりそうもなく、未だに一度も訪ねてこなかった。
 だが、少なくともローズの中に、彼らに立ち向かうだけの気構えができている。それが一番肝心なことに違いない。


 その時ノックの音がして、外出から帰ってきたばかりの子爵がドアを開いた。
 マーガレットが兄を見るなり、「噂をすれば、ね」と、くすくす笑い出したので、むっとしたように帽子を脱いで室内に入ってくると、妹の耳をやさしく引っ張った。
「いつまでこんな所で油を売っているつもりだい? 家庭教師の先生が君を待っているよ。早く部屋に行きなさい」
「あたし、やっぱりミス・ガードナーはあまり好きになれないわ。堅苦しくて取り澄ましたオールドミスそのものですもの。先生の方がずっとよかったのに。お元気になったら、もう一度教えてくださらない?」
「だめだね。第一ミス・レスターはもう君の先生じゃない。お義姉様になるんだろう?」
 マーガレットは兄の言葉を聞いて、嬉しそうに肯きながら笑った。ローズはまた赤くなり、慌ててたしなめるように言う。
「レディがそんなふうにおっしゃるものではありません。でもわたしでよかったら、いつでもまたお教えしますわ」

 妹をようやく部屋から追い出すと、子爵は顔をしかめて側に来た。
「二人でまた何か、よからぬことでも言っていたんだろうね」
 ローズが少し恥かしそうに彼を見た。いつまでたっても変わらない、彼女の少しはにかんだ表情に、思わず鼓動が早くなったが、彼はわざと渋い顔で続けた。
「あれも最近すっかり生意気になってきて。そろそろ寄宿学校へ送ることを、真剣に考えるべきかもしれないな」
「まあ、そんな」
 心配そうな表情になったローズの顎を片手で持ちあげ、身を屈めてそっと額にキスする。彼女の顔には生気が蘇り、瞳からも悲しみの色がようやく薄らぎつつあった。

「結構だ。だいぶ元気になってきたようだね」
「ええ、あの……、そう言えば家庭教師のことで思い出したんですが」
「何を?」
「エルマー様のことです。いつまでもお休みをいただいていていいのかしら。そろそろわたしもあちらに戻った方が……」

 ジェイムズは大袈裟にため息をつくと、髪をかきあげた。やれやれ、まったく彼女ときたら。

「エルマー夫人には別の家庭教師を探してもらうさ。君はもう二度とどこにも行かないよ。ここが君の家だと言ったろう?」
「でも……」
「今日メイフィールドの教会に告示を出した。二週間後に向こうで式をあげる。君の伯父さん達にも来てもらうといいね」
 ローズがびくっと身体を強張らせるのを見て、眉をひそめる。

「何か問題でもあるかい?」
「式って、結婚式……ですの?」
「葬式にはならないと思うがね」
 皮肉に眉をあげるジェイムズの言葉に、ローズは微笑んだ。だがまだ、ためらいがその瞳に揺れるのが見て取れる。今度こそすべて話して、何がなんでも納得させなければならない。

 彼はローズの手を取って椅子から立ち上がらせると、そのまま、窓辺のカウチに導いた。
 隣に座ろうとする彼女の腰を掴んで自分の膝に乗せると、ローズは少しためらった後、彼の首に手を回してきた。こらえきれず、ジェイムズは彼女の顔を引き寄せ、唇を重ねた。キスはすぐに濃密になり、舌を絡ませ幾度も味わう。
 そのまましばし、再びお互いを取り戻した喜びに浸った。
 ローズは彼の激しいキスに陶然となっていたが、やがてちょっと震えると、彼の首筋に顔を埋めた。彼女の甘い香りに下腹部が熱くなるのを感じる。やはりこの姿勢では身が持たない。あと二週間の辛抱だ。彼はしぶしぶ抱擁をといて、隣に身体をずらし、彼女の顔をあげさせた。

「それでローズマリー、結婚してくれるんだろう? 今度こそ間違いなく」
 彼女を見る彼の目は真剣で、視線が痛いくらいだった。まさかまた聞けると思っていなかった彼のプロポーズの言葉に、胸がいっぱいになり涙が出そうになる。
「まだ何か引っかかっているのかい?」
「本当にわたしなんかで……いいんでしょうか?」
 恐る恐る問いかけると、ジェイムズは驚いたように彼女を見た。
「君でいいかだって? 君と出会って以来、わたしには君しかいないのに。君のためにあんなに苦労したのに、まだ信じてもらえないのかな」
「でもわたしには、あなたに差しあげられるものも何一つありません。あなたのお祖母様が貴族の結婚には家柄や財産が……、それに、ご親戚の方々にも何と言われるか」
「親族なんか放っておけばいいさ。今度は何も手出しはさせない。わたしがサーフォーク家の当主なのだし、君はその伴侶になるんだ。祖母はもういない。今はもう誰にも文句など言えはしないよ。それにしても」
 ジェイムズは大袈裟にため息をついた。
「君がわたしに何をくれるのか、君はまだ分かっていないんだな」
「……?」
「わたしはずっと孤独だった。もちろん両親はいたし、友人も、それに恋人もいた。だが心底安らげる時はなかったような気がする。少年時代は寂しく満たされない子供だった。若くてとても向こう見ずだったな。金には不自由しなかったから、ずいぶん遊んでもきたよ。純真な君に話したら、嫌われてしまうかもしれないがね。だけどどこか違う、自分の求めるものがみつからなかった」

 当時を思い起こすように少し沈黙した後、彼女の目を見つめながら話続けた。

「父が亡くなった時、一人息子だったわたしに爵位と家督が回ってきた。そしてその時初めてサーフォーク家の現状が、思っていたよりもずっと厳しいことを知ったんだ。父はそちらの方の才覚は余りなかったようでね。あのレイクサイド・ガーデンのヴィラも人手にわたる寸前になっていた。ショックだったよ。だからそれからいろいろ学ばなければならなかった。どうしたら傾きかけたサーフォーク家を立て直せるのか。祖母はプライドが高い人だ。誰にも相談できることじゃなかった」
「それで、ご自分で一生懸命、工場の経営を学ばれたんですのね」
 おや、と言う顔をした彼に、ローズは微笑みかけた。
「誰かに何か聞いたのかい?」 

 こう問い返す彼の顔を愛情込めて見つめる。そんな苦労をしてきたなんて、子爵がさっきよりずっと身近に感じられる。彼のことではまだ知らないことが、あまりにも多いようだ。

「それで何とか立て直すのに七年もかかった。君に出会ったのは、ようやく我が家の経済状態が完全に回復したころだった。あのころはまだ忙しかったな。マギーが教育を必要とする歳になったのに気付いて、家庭教師を雇おうと思った。そこへ君がやってきたんだ。君を一目見た途端、ある絵を思い出した。柔らかな金髪の微笑むマドンナの絵だ。こんな人が現実にいるのかと驚いたよ。それから君のことを知れば知るほど、どんどん君に引かれていくのに気付いて、最初は身分違いだと何とか自分に歯止めをかけようとしたんだ。君は何も知らなかったようだがね。だが君と一緒にいたい気持がどうにも押さえ切れなくなって、とうとう君をメイフィールドへ連れて行ってしまった。マーガレットのことを口実にしてね」
「まあ!」
「あとは君も知っての通りさ。君といるととても安らいで自然な気持になれる。貴族社会で鎧のように身にまとった虚飾を脱いだ、本当の自分に戻してくれるんだ。ローズマリー、君を心から愛している。君なしでは、もう生きていけそうもないくらいだ。お願いだ。これ以上待たせないで欲しい」

 切羽詰まった声にも真剣そのものの眼差しにも、子爵の真摯な思いは溢れていた。ローズはしばらくの間、言葉もなく彼を見つめていた。

「わたしもあなたを愛しています。あなたと結婚しますわ」

 ようやく声が出せた。脅えるくらいの喜びに息が詰まりそうな気がした。子爵は声をあげてもう一度、きつく彼女を抱きしめた。
「あと二週間。そうしたら君は完全にわたしのものだ」

 力強い腕の中で、ローズは彼の胸に顔を押しつけたまま、身体を震わせていた。


 六月の爽やかな風のもと、メイフィールド村の古い教会堂に立って、サーフォーク子爵は、牧師と書記とともに、支度を整えてこちらに近づいてくる美しい花嫁を見守っていた。

 誇らしげな正装のミッチェル伯父に手をとられたローズは、幸福そうに輝いて見えた。淡いグリーンの絹の衣装を細い身体に柔らかくまとい、髪はカールさせて結いあげ、レースのベールのついた帽子を被っている。背筋を伸ばし顔をあげたその姿は気品に溢れ、貴族の奥方にふさわしいものだった。
 祭壇の前に立って不滅の誓いを繰り返し、牧師が死が二人を分かつ時まで結びつける。やがて子爵が不動の誓いを込めて花嫁に口づけした。

 すべてが終わって二人が振り向いた時、マーガレットや伯父夫婦、パトリック、皆の暖かい祝福に迎えられる。しっかりと腕を取り自分を支えてくれるジェイムズの笑顔を見て、ローズは再び溢れてくる涙を抑えることができなかった。
 城館にはメイベル・リー夫人が、村の婦人達の先頭に立ってこしらえあげた豪華な料理を並べた、午餐会の準備が万端整っていた。新しいサーフォーク子爵夫人を見ようと、領民や近隣の客達が集まってきて、祝辞を述べる。
 傍らで自分を守るように絶えず注がれている子爵の、愛情こもった眼差しに励まされながら、ローズは素朴な村人達との交流を楽しんだ。


 やがて、賑やかだった披露の宴も終わり、夜の帳が下りた。

 メイドが、湯浴みを済ませた彼女の金髪をきれいに解きほぐし、細かい刺繍を施した白いサテンのガウンを着せ掛けてから、お辞儀をして下がっていく。
 今では二人の寝室となった広い主人の間に、ローズは一人取り残された。壁のランプの淡い灯りの下、部屋にある大きな天蓋付きのベッドを見ていると、我知らず頬が火照ってくる。
 落ち着くために鏡の前に座って、なおもブラシで髪をくしけずっていると、ドアが開いて子爵が入ってきた。

 彼はローズの緊張した気配を、敏感に察したようだった。傍らに立つと彼女の手からそっとブラシを取りあげ、その金糸のような髪を一房手に巻きつけた。

「少しは伸びたようだね。わたしは君のこの髪が好きなんだ。もう当分切らないで欲しいな」
 そして彼女の手を取り、椅子から立ち上がらせると、腕の中で回転させて自分の方を向かせた。
「晴れてレディ・サーフォークになって、ご感想は?」
「思ったよりも、怖くなかったですわ。皆さんとても優しくしてくださって……。こんなわたしでも、どうにかやっていけるかもしれませんわね」
「もちろんだとも。わたしが以前からそう言ってるじゃないか」

 ジェイムズが、そっとローズの手を取り口づける。彼女の表情が強張るのを感じて、優しく胸に引き寄せると、顔を手で包み込むようにしながら、顔中にキスの雨を降り注いだ。
 すでに彼女を求める高まりが、どうしようもないほど膨らんでいたが、ぐっとこらえて顔をあげ、再び問いかける。
「身体はもうすっかり大丈夫かい? 君を傷つけないか?」
「ええ、もう大丈夫だと、お医者様が……」

 はにかみながらローズが小さく答えるや、彼の腕に再び力が入り、身体がぴったりと押しつけられた。高まる甘い期待に、ローズの身体が再び震え出す。ジェイムズはそれに気付いて微笑を浮かべた。
  「震えてるのかい? もう怖がることもないだろうに」
 そう言いながら、自分の鼓動も割れるように鳴っているのを感じる。それでもまだ、じらすように彼女の唇から侵入し、ゆっくりと時間をかけて彼女の感覚を煽るように刺激し、濃密なキスを幾度も幾度も重ねていった。
 薄いガウンの布越しに彼女の身体の細い線がしなやかに動くと、否応なく身体が反応し始める。閉じかけたローズの瞳に点り始めた艶めいた光に、もうそれ以上抑えきれなくなり、子爵はついに彼女を抱きあげると、二人のベッドに彼女を横たえた。

 見つめ合う二人の瞳の中に、瞬間様々な思いが去来した。
 ここまで来るために、数々の痛みを乗り越えなければならなかった。だがそれを越えなければ、二人がこれほど固く結ばれることはなかったかもしれない。
 ずいぶん多くの時間を費やした。だが、確かにそれだけのことはあったようだ。

 ローズの目から銀の雫が一筋、伝い落ちた。
 子爵は指先で優しくそれをぬぐい去り、再び熱く激しいキスで彼女を満たし始めた。


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12/04/26
次回、5年後のエピローグへと続きます。
本編、あと一話で完結です〜。