Chapter  2


 キングスリー家は、村の上手の丘にある、この村きっての名士の家だった。
 キングスリー氏は四十代半ばの、恰幅のいい温厚な紳士で、妻と二人の子供達とともに暮らしている。元はこの地方の領主の家柄で、今から百年以上も前に、当時の次男が財産の一部を譲り受け、丘の上に建つ、古いが豪壮なこの屋敷に定着したらしい。
 今日のパーティも、村人の中で比較的裕福な者達は、みな招かれているようだった。彼女が学校で教えている子供達の親も、何人か見うけられた。デントはまだ物思いに沈んでいるローズの手を取って、得意気にふんぞり返るように歩いていった。

 ローズはほとんど上の空のまま、パーティ会場に立っていた。さっきの予期せぬ突然の再会の衝撃に、全神経が痺れて正常に機能していないようだった。だがショックが徐々に静まってくると、今度は心からの喜びが、押さえようもなくこみあげてくる。彼にまた会えた! 彼の声がもう一度聞けた! その上まだ忘れられていなかっただけでなく、自分を探してくれていたなんて……。
 一年前、彼の屋敷から追われるように姿を消し、もう彼のことは考えまいと、あれほど夜ごと誓ったにもかかわらず、この身勝手な感情は何だろう、と我ながらあきれ返るが、自分に嘘はつけなかった。すすり泣きそうになって、今自分がどこにいるかを思い出し、慌てて抑え込んだ。早く一人になりたくて、衣服が会場にふさわしくないとか、踊れないなどと、幾度も言い訳したが、もうすでにワイングラスを片手に、ほろ酔いかげんになっているデントは、
「そのままでも十分お美しい。なに、気にしなさんな。あとでゆっくり手取り足取り教えて差しあげますとも」
 などと言いながら、彼女にべったりと張りついて、一向に帰してくれそうにない。この男と踊るなどとは、考えただけでも背筋が寒くなる。ローズは相手を遠ざけるため飲み物を頼み、デントが取りに行った隙にいそいでその場を離れた。

 ホールの反対側に来て、彼の姿が見えなくなったので少しほっとして、改めて辺りを見回した。小柄なミセス・ベルの姿はなかったが、ミセス・マージョリーがミス・ブラウンや、その他の招待客と、近くで何やら話をしている。みんな一張羅の晴れ着を着て、精いっぱい着飾っていた。
 キングスリー家の石造りの広間は、古い肖像画とゴブラン織りのタピストリーで飾られていた。左端にテーブルがセットされ、臨時の給仕として雇われた村の若者が幾人か、忙しく立ち働いて、クリスマスのご馳走を並べたり、切り分けたりしていた。大きなクリスマスツリーの下には、たくさんの贈り物の箱が置かれ、美しい飾りつけが煌いている。
 突然、一年前子爵家で開かれたクリスマスパーティの情景が胸に突きあげて、ローズは目を閉じてしまった。それはすべてがあまりにも幸せで輝いていた最後の瞬間の幻だった。長い金髪を結いあげ、未来の子爵夫人として恥かしくないようにと、彼から贈られたドレスや宝石で精いっぱい装いを凝らし、レースとリボンで着飾った自分がいた。優しく情熱的に、エスコートしてくれたサーフォーク子爵……。
 次に来るのが苦い敗北だとは、あの時はまだ知らなかった。
 そしてそのパーティの後呼び出され、老子爵夫人と面会することになったのだ。追憶が波のように襲い、彼女は思わず唇を噛みしめた。



 その時、キングスリー氏が壇上に上がって、挨拶を始めた。
「メリークリスマス。皆さん、本日はようこそおこしくださいました。年に一度の聖なる日を楽しんでいただきたいと思います。そこでまず、ただ今当屋敷に滞在しておられる高貴なお客様、サーフォーク子爵閣下を、皆様にご紹介したいと思います」
 おお、という声が上がり、拍手が起こった。こんな田舎に貴族が来るのは、実に珍しいことだったからだ。彼は悠然と椅子から立ち上がって一礼した。周囲の女性達の口から、ほうっとため息が漏れる。長めの黒髪をきれいに整え、黒の正装に身を包んだ彼は尚一層すばらしく、それだけに回りの田舎紳士達の中では浮いて見え、場違いな感じさえした。
 挨拶が終ると、ダンスが始まった。しきたり上、身分の高い者から踊る。子爵は近くにいたキングスリー家の長女、今年十九歳のメアリーに会釈して相手を申し込み、二人は優雅にワルツを踊り始めた。カールさせた黒髪を結いあげ、美しい青ビロードのドレスで着飾ったメアリーが頬を紅潮させ、嬉しそうに顔を輝かせて、子爵の顔をうっとりと見つめながら、彼のリードに身を委ねていた。そして徐々に踊りに加わる人が増えていった。

 オリバー・デントが、ようやくローズを探し当てた時には、少し気分が悪くなっていた。
「おやおや、それなら少し外の風にでもあたるのがいいでしょうな」
 彼女の言葉を聞いてデントは喜色もあらわにこう勧め、そのままテラスの方へ引っ張って行こうとする。
「本当に困りますわ。どうぞもうわたしのことは放っておいてください。家に帰りたいんです」
 無理に連れ出そうとする彼に腹が立って、ローズは取られた腕を、相手の手から引きぬこうともがきながら声を荒げた。これ以上何かしてきたら、引っかいてやろう。もう体裁を取り繕う余裕はない。
 その時、少し離れた所から声がした。
「そちらのレディは、どうやら嫌がっているようにお見受けするが」
 二人が驚いて声の方に目を向けると、黒いタキシード姿のサーフォーク子爵が、くつろいだ様子で、こちらを眺めていた。その顔には二人を面白がっているとも見える、皮肉な微笑が浮かんでいる。ローズが声も出せずに突っ立っていると、彼はゆっくりと近づいてきた。そしてデントにちらりと、だが思わずぞくっとするほど威嚇的な視線を投げたので、さしもの大男も気押されたように後ろへ下がった。子爵は微笑を浮かべてローズの前に立ち、優雅に彼女の手を取りあげた。
「レディ、どうぞ一曲お相手を」
 ていねいに会釈し、人々の注目をものともせずに、悠々とローズを踊りの中へ引き入れてしまった。すぐに音楽が始まった。
「ほら、皆が見ている。踊り方は覚えているだろう? ステップを踏んでごらん」
 耳元に暖かい息がかかり、彼女は我に返った。ホール全員の視線が自分達に集まっているのに気付くと、それ以上抵抗することもできず、仕方なく彼のリードに従い踊り始める。彼は口元にかすかな笑みを浮かべた。だが瞳は依然として冷たくローズを見据えている。
 ローズは力が抜けて、その場に崩れ落ちそうになるのを懸命にこらえていた。どうしてこんなことになってしまったのだろう? おまけに彼を見ているうちに、質問が我知らず口をついて出てしまった。
「……ご結婚なさったのでしょう?」
 途端に大失言に気付いて、舌を噛み切りたくなる。どちらにしても、自分にはもう一切関係ないことなのに。だが、彼は眉をあげると、ごくそっけない態度でこう答えただけだった。
「それは君の方が、よく知ってると思ったがね」
 彼女の目が見開かれるのを眺め、今度は子爵が何気なく尋ねる。
「それで、あれが君の今の恋人かい? 君もずいぶんと趣味が悪くなったものだ。いや、もとからそうだったのか?」
「まさかそんな……」

 ローズは今日一日で、あまりにも次々にショックに襲われて、もう限界に達していた。自分がヒステリーを起こして、わっと泣き崩れるのではないかと思った。ようやく最後の気力を振り絞って思いとどまり、肩を抱き寄せている彼から身体をできる限り離すと、黙って子爵をにらみつけた。
 青ざめた顔にわななく唇をきつく結び、大きな茶色の瞳を潤ませながら気丈に顔をあげている目の前の女性は、彼が恋した、まだ少女の面影を残した可憐なローズマリーと同じでありながら、何かが変わっていた。そう、彼女は成熟した。大人の女性になっていた。もっと何か皮肉な言葉をかけてやろうと思っていた声が、思わず子爵の舌先で引っかかって出なくなる。
 ジェイムズは今日改めて見る彼女の美しさに、衝撃を受けていた。一年前のクリスマスパーティで垣間見た、開きかけた白百合のつぼみが、今や艶やかな輝きを放ちながら、大きく花開いたようだった。何ということだろう。この一年、彼女がどんな生活をしてきたにせよ、彼女は少しも損なわれていなかった。いや、むしろ自分がまったく与り知らないこの一年が、彼女をさらに磨きあげ、成熟した一人の女に変えたように思われた。子爵は言い知れない苦々しさを覚えつつも、それを認めざるを得なかった。
 無言のまま目を細めて、彼もローズを見つめ返した。苦悩に揺れるブラウンの瞳に出会った時、恋人を失ったあの日から行き場を失ったまま、彼の心の奥底に積もりに積もっていた飢えにも似た激情が、堰を切ったように溢れ出すのを、どうにも止めることができなくなってしまった。長い間抑え込んでいた情熱が高まる。彼女を今すぐに、力いっぱいこの腕に抱きしめてしまいたい。
 そんな衝動に駆られそうになっている自分と激しく葛藤し、彼女に掛けた手が震え出すのを感じた。
 だめだ! まだいけない! 話さなければならないことがある。

 その時音楽が終った。それでもまだ、見つめ合って立っている二人の沈黙を破るかのように、メアリーの声がした。業を煮やして子爵を呼びに来たのだ。メアリーはローズを完全に無視し、滑るように二人の間に割り込んでくると、子爵の腕に両腕を絡ませ、甘えた仕草を見せた。
「さあ、閣下。酔狂はここらでおやめになって。お父様がお呼びですわ。早くこちらへいらっしゃいませ」
「今行きますから、あなたは先に行っていてください」
 ていねいに答えながら、ジェイムズは腕に絡みついてくるメアリーを見下ろし、仕方ないというように少し顔をしかめて微笑した。媚びるように彼を見つめるメアリーを見たローズは、また心臓が痛むような感覚に襲われ、いそいで腰を屈めて無言で一礼すると、さっと周囲の人に紛れ、外のテラスへと出ていった。
 寒い風の吹きぬける夕暮れのテラスには人影もない。足早に外へ続く階段を降りかけた時、子爵が追いついてきた。切羽詰まったような命令口調で「待ってくれ!」と呼び止められ、意志とは裏腹に思わず立ち止まってしまう。彼は再び近づくと、ローズのすぐ脇に立った。
「このパーティが終った後で、君とゆっくり話し合いたいんだ。それまでここにいてくれないか。今はお互いパーティを楽しもうじゃないか」
 ローズが身じろぎもせずに無言で目を見開いていると、彼はローズの前に片手を差し伸べた。
「さあ、わたしと一緒においで」 
 わたしを、からかっていらっしゃるんだわ。思わず彼の目を見る。その眼差しは少しおもしろがっているようにも見えたが、それでいてどきっとするような真剣さも感じられた。一瞬魔法にかかったように、彼女の中で一年前の出来事が重なって見えた。ローズは二人の間に漂い始めた親密さを打ち消すように、いそいで堅苦しく言った。
「わたしのような者とおいでになるなんて、とんでもないことですわ。ミス・キングスリーがお待ちでしょう? 子爵様、どうぞホールにお戻りください。わたしはこれで失礼します」
 彼が唇を引き締めたのがわかった。二人の間の空気が再び、よそよそしいものになった。ローズはそれきり一度も振り返ることなくテラスから庭に降り立ち、すでに宵のとばりが降り始めた中を、早足に歩き始めた。彼の視線が追いかけてくるのを、痛いほど背中に感じていた。



 屋敷の敷地内からようやく外に出ると、文字通り脱兎の如く、一目散に丘を駆け下り始めた。息を切らしながらも、必死に走りつづけ、ようやく街道沿いに出る。しばらくぼんやり歩いていると、そこへ荷馬車がやってきた。お屋敷の厨房に食糧を運んだばかりだと言う。ポケットを探り、わずかばかりの金を渡して下宿のあるバンリー家へ回ってくれないかと頼むと、心よく引きうけてくれたので荷台に崩れるように座り込んだ。まったく何という一日だったろう!
 ローズには、まだ今日の出来事が現実だと思えなかった。まるで悪い夢でも見ているようだ。その上マントを置いてきてしまったので、彼女は今着ている服一枚だけで、荷台の上で震えていた。冷たい風が身を切るように吹きつけ、汗が引いた後の寒さが増した。
 ようやく部屋にたどりついた時には、身体がすっかり冷え切っていた。火を起こそうにも簡易ストーブの薪も、もう残りいくらもない。せめて丘で枯れ枝でも拾ってくればよかったのに。ローズは舌打ちしたい気分で、最後の力を振り絞り、とにかく手持ちの中で一番暖かい部屋着に着替えた。ベッドに倒れこみ、毛布をしっかりと身体に巻きつける。今朝ここを出てから、もう何日も経ったような気がする。とてつもなく寒かった。ガタガタ震えながら、惨めさから涙が溢れてきた。そう、これが自分の今いる現実なのだ。それでは、今日起こったことは、いったい何だったのだろう。

 それでもいつのまにか、少し眠ったらしかった。部屋のドアを強く叩きながら、名前を呼ぶ声で目が覚めた。大家らしい。辺りは真っ暗だった。何とか起き上がろうとするが、全身が鉛のように重く身体を起こすことさえできない。頭ががんがん痛み悪寒が走る。どうやらかなり熱があるようだ。
 まさかクリスマスに、家賃の取り立てに来たわけでもないだろうに。もしそうだとしても、もう少し待ってもらうしかない。彼女は痛む頭でぼんやり考えながら、再び意識が薄らぐのを感じていた。もうこのまま、そっとしておいてほしい。出られなければ、あきらめて帰っていくに違いない。
 ところが、しばらくノックしていた音が、ふっつりやんだと思うと、外で話し声が聞こえた。今度は鍵を回す音がしてドアが開いた。

 ローズはベッドに横たわったまま、ぼんやりする焦点の合わない目を入ってきた人物に向けた。ついに頭がおかしくなったらしい。幻覚が見えるようだ。ランプを掲げた大家のミセス・バンリーの案内で、ジェイムズが部屋の戸口に姿を現したのだ。
「おや、いなさるじゃありませんか」
 そう言いながら、ミセス・バンリーは眉をひそめた。
「ミス・レスター、どうなさったんです? 具合でも悪いんですか」
 なかば朦朧としながらようやくしぼり出したのは、ひどくかすれた、返事とも言えないうめき声だった。
「実はこちらのお方が、どうしても先生にお会いになりたいとおっしゃいましてね」
 ミセス・バンリーが、後から入ってきた子爵を振り返って、決まり悪そうに説明し始めた。
「もう時間が遅いから、殿方には明日になさるのがよろしいですよと、何度も申しあげたんですが、たってのお頼みでしたんでね。それにしてもまあ、この部屋の寒いことったら。ストーブはどうなさったんです? おや、火がついていませんね」
 子爵は苦々しげに周囲を見回してから、ベッドの上のローズに目を向けた。厚ぼったい部屋着を着て、毛布から半分身を乗り出したまま横たわり、熱に浮かされたように、ぐったりして生気のない表情で二人を見あげている。そのぼんやり曇った目つきを見ると、彼が今ここに来たことがわかっているのか、さえ疑問だった。子爵は近づき、彼女の額に手を当てた。熱い。その上脈拍もずいぶん速くなっている。
「これはひどい……。肺炎にでもなったら」
 彼はうなるようにつぶやくと、ミセス・バンリーに向き直り、断固たる口調で告げた。
「この人は今すぐ、わたしの馬車でキングスリーの屋敷に連れて行きます。彼女には看護と、暖かい食べ物が必要だ。キングスリー家の者が面倒を見てくれるでしょう。荷物はあとで取りに来させます」
「何ですって?」

 驚くミセス・バンリーの声を無視して、彼はローズの上にかがみ込むと、毛布で彼女をくるみ込み、両腕にしっかりと抱きあげた。
 子爵は険しい表情で、抱きあげた彼女を見やり、彼女の抗議やか弱い抵抗はまったく無視して、「馬車に運ぶ」とだけ言うと、部屋を出てどんどん歩きだした。ローズが、大丈夫だから下ろしてくれと、どれほど息絶え絶えに頼んでも、まったく無駄だった。
 そのままジェイムズは狭く暗い階段を下りていくと、バンリー家の前に止められた重厚な作りの二頭立て馬車の前に姿を現した。御者が驚きを隠してうやうやしく戸を開き、子爵はそのまま、馬車に乗り込んだ。
 あっけに取られるバンリー一家を残し、馬車は二人を乗せて走り始めた。


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12/04/06