Chapter  3


 それから後のことは、ぼんやりとしか覚えていなかった。ローズはもうほとんど意識を失っていたからだ。
 夢見心地のうちに彼の腕の中で守られるように馬車にゆられて、再び丘を上り、キングスリーの屋敷に到着したように思われた。
 それにしても何てすてきな夢なのだろう。もう彼女には心配も不安もなかった。愛する人に保護され守られて、快い天蓋付きの寝台に横たわっている。まるで一年前に帰ったように。
 次には、医者らしき紳士が、自分を診察していた。額に置かれた冷たい布がひんやりして、火照りを覚ましてくれる。彼はどこだろう? 不安になってそっと、重いまぶたを開いてみる。
 ジェイムズは彼女の上にかがみ込むように座っていた。何か自分に話しかけながら、ハンカチで汗を拭ってくれているようだ。何を言っているのだろう? 胸が痛くなるような心配そうな声。もっとよく聞きたいのに、意識がまた遠のいてしまう……。
 時間の感覚がなくなったように、ふわふわと漂っていた。どれくらいこうしているのだろうか。目を覚ましたくない。目覚めれば、この幸福な夢はすっかりおしまいになり、自分はまた一人ぼっちで、孤独な寒いあの下宿で目を覚ますことになるのだから……。


 だが、ついに夢から覚める日がやってきた。目を開いた時ローズは自分がまだ夢の中にいると、錯覚しそうになった。彼女は美しいスミレ色のカーテンのついた、天蓋付きの豪華な寝台に一人横たわっていた。そして自分の部屋着ではなく、フランネルとレースの暖かく通気のいい白い寝巻きを着ている。部屋も広くて明るく、扉の横壁に肖像画が飾られ、磨きあげられた立派な調度品が置かれていた。まるで貴族の屋敷にいるようだった。
 ローズが、何が何だかわからずにいると、扉が開いて看護婦が水差しを持って入ってきた。ローズの目が覚めているのに気がつくと、
「まあ、お目覚めですか。子爵様がどんなにお喜びになることでしょう」
 と嬉しそうに声をかけた。二十そこそこ位の、明るい青い眼の女性だった。さっぱりした白い上衣を着ている。
「ここはどこでしょうか」
 ローズは弱々しい、小さな声で尋ねた。
「キングスリー様のお屋敷です。お隣が子爵様のお部屋ですわ。あなたのことをとてもご心配されて、ご用のある時以外はおそばにつきっきりでいらっしゃいましたよ」
 彼女は同情のこもった優しい声で答えた。
「閣下がこのお屋敷にあなたをお連れになった時、あなたはひどいお風邪をひかれて、衰弱していらしたんです。とても熱が高く、丸二日も意識がお戻りにならなくて」
「そんなに」
「今、子爵様はこの家の皆様とご昼食をとっておられます。じきお戻りになりますわ。ですが、急にお起きになったり、あれこれお話にならないように。まだお身体が回復していらっしゃいませんからね。それではあなたのお食事をお運びします」
 そう言って、若い看護婦は部屋から出ていった。それでは、あれはすべて夢ではなかったのだ。ローズは自分の記憶をたどり始めた。
 そうだ、あのパーティから帰ってきて下宿のベッドに倒れ込んだ。とにかく寒くて寒くて。その後のことは、はっきり覚えていない。誰かがやってきて……。

 しばらくして再び扉が開いた。今度はサーフォーク子爵その人だった。彼はつかつかとベッドに歩み寄ると、天蓋の柱の横に立ち、彼女の顔を覗き込んだ。
「目が覚めたんだな。気分はどうだい?」
 本物の彼を見て、一瞬言葉が出てこなかった。着ている衣服こそていねいに整えられているが、彼もずいぶん疲れ、やつれたように見えた。きれいに梳かされた黒髪も、いつもの艶を失っている。
 何を言えばいいのだろう。その時、さっきの看護婦の言葉を思い出した。
「ずいぶん、ご心配をおかけしたそうですね」
 ローズは無理に微笑んで見せた。彼はベッドに腰をかけ、彼女の右手を両手で包み込んだ。
「まったく、無茶をするものだ」
 彼の目に、痛みが走ったような気がした。子爵は、ローズをじっと見つめた。
「もしあのクリスマスの夜、わたしが君の下宿を訪ねなかったら、と思うと今でもぞっとするよ。あんなひどい環境で、君のような華奢な人が、そういつまでも耐えられると思っていたのか? もしわたしが行くのがもう二、三日遅かったら、今ごろどうなっていたと思う?」
 彼女の身を気遣ってか、話し方は比較的穏やかだったが、それだけにその言葉の裏にある傷ついた痛みが一層強く感じられ、ローズは辛くなった。
「今は、早く身体を治すことだ」
「子爵様……」
 ローズの目から溢れた涙が、頬を伝い枕に流れ落ちた。彼の目が細められ、握っていた手に力がこもったと思った瞬間、彼女の唇は彼に塞がれていた。
 最初、キスはいたわりのこもった優しいものだったが、次第に熱っぽさがその優しさに取って代わった。やがて彼の両手が彼女の頭を押さえ、舌がそっと彼女の唇を刺激し分け入ると、そのまま彼女の甘さを幾度も幾度も味わうようにまさぐっていく。ローズは驚くより、ただ夢中で彼の激しい口づけを受け入れていた。あまりにも長く離れていたお互いの渇きを癒すように、二人はいつまでも離れなかった。
「元気になったら、たっぷりお仕置きするよ」
 ようやく顔をあげた時、ジェイムズはかすれた声でこう言った.。少し息を切らし、微笑んでいる。ローズは彼の笑顔にどう応えていいかわからなかった。けれど、とまどいと同時に不思議な安心感が蘇ってくるのを感じる。もう一人ではない。今はこのまま、成り行きに任せてしまおうか。そんな思いが、彼女の胸を掠める。何も考えられなかった。
 その時、さっきの看護婦が、病人用の食事を持って入ってきた。子爵は上着を脱ぐと、ベッド脇に置かれた椅子の背にそれを無造作にかけた。そしてそのまま腰を下ろし、看護婦がローズの口にその薄いスープを幾さじか、流し込むのを見守っていた。
 食事が済むと、また眠りが押し寄せるのを感じた。重いまぶたの下から彼の方に目を向けると、まだ、こちらをじっと見つめている。彼女はそのまま再び眠りに落ちた。



 キングスリー家の長女、メアリーはこの三日間というもの、いらいらし通しだった。
 どんなに両親に、自分のことをそれとなく話題に乗せてくれるようにと頼み、彼女自身、子爵の興味を引こうと、懸命になったことだろう。事実それは食事中や娯楽の時間など、機会あるごとに実行された。
 しかし、当の子爵は実に礼儀正しく、相づちを打って見せはするが、心ここにあらずといった様子で、必要最低限の時間以外は、いつも適当な口実を設けて、部屋に引っ込んでしまうのだ。その上もっと腹が立つことに、メイドの話では、サーフォーク子爵ともあろう御方が、あのどこの馬の骨とも知れない女教師に、つきっきりだと言うではないか。
 彼が突然この屋敷に滞在する事が決まり、屋敷中てんやわんやの大騒ぎの中で、準備を整えて迎えた。メアリー自身も最近ロンドンから取り寄せたばかりの、最新流行のドレスを着け、精いっぱいおしゃれしてクリスマスパーティに望んだ。その苦労が報われたと思ったのも束の間、突然子爵は、名もない村の女教師をこの屋敷に連れてきたかと思うと、片時もそのそばを離れようとしないとは。

「お父様、いったいあの娘はなんなの?」
 ついに四日目、堪忍袋の尾が切れたメアリーは爆発した。昼食後、息子とチェスをしていたキングスリー氏は、片方の眉をあげて娘を眺めた。
「ローズマリー・レスターかい? あれはなかなか気立てのいい娘ではあるがね。器量も、そうさね、まったく悪くない。おお、このビショップは待っておくれ」
「あなたったら、よくそんなにのんびりしていらっしゃれること」
 メアリーの声を聞きつけて、部屋に入ってきた夫人が、厳しい表情で夫を見やった。
「わが娘の玉の輿を、もう少し真剣に考えていただかなくては」
「そうよね、お母様」
メアリーは甘えたように母親に擦り寄った。
「こんな田舎暮らしで、ロンドンの社交界にしょっちゅう出入りしているわけでもないわたくし達の娘が、どうやったらいいご縁談を見つけられますの。あの方は貴公子で独身。まったく千載一遇の機会だと言うのに、あなたったら、そんないい加減な態度で」
 キングスリー夫人の愚痴が続く。氏は口ヒゲをひねりながら、しばらくチェス盤を見つめながら何事か考えている様子だったが、
「それでは、そろそろ行動に出るか」とつぶやいた。
「行動ってお父様……」またチェスの話かと、メアリーが抗議の声をあげそうになるのを、目で抑えて、夫人は氏の次の言葉を待った。
「ナイトを仕掛けよう」
 そう言っておもむろに、白のナイトを動かした。今度はメアリーも何も言わなかった。



 その日も暮れるころ、子爵はいつものようにキングスリー家の人々と晩餐を取りに行き、部屋にはローズ一人きりだった。
 ぼんやりと壁の絵を眺めていると、ノックの音とともにキングスリー氏が姿を見せた。ローズが慌てて身を起こそうとするのを遮り、彼は慇懃に話し始めた。
「ああ、そのままで結構ですよ。御加減はいかがかな? ミス・レスター。だいぶん顔色もよくなってきたようだが」
「はい。お蔭様で、ずいぶん気分がよくなりました。突然このようなご迷惑をおかけして、申し訳ございません」
「いや、なんの、なんの。これくらいお安い御用ですよ。せっかくだし、ゆっくりしていらっしゃい。メアリーも閣下と仲よく楽しそうに過ごしていることだし」
「………」
 ローズの表情がたちまち固くなったのを見て、氏は内心ほくそえみながら、ゆったりと続けた。
「閣下はメアリーのことを、いたくお気に入られたらしい。まだ内輪だけの話だが、近々お申し込みがあるかもしれないのでね。いや、あなた一人に、黙っているのもどうかと思い言うのだが」
 と言うことは、内輪といいつつ屋敷中の者が既に知っているということなのだろうか。ローズは愕然とし、その後何を話したのかまるで覚えていなかった。氏が立ち去った後も、じっと寝台の天蓋を見つめていた。瞼の奥がひりひりする。これはまったく性懲りもない愚かな自分への、天罰なのだろう。


 ニューイヤーパーティがあるらしく、また屋敷が忙しく動き始めていた。ローズは、徐々に気分がよくなり、起きていられる時間も長くなってきた。
 この間、子爵はとても優しかった。高熱の後、まだ体力が戻らないローズが起き上がるのに手を貸し、時には看護婦の代わりに食事を手伝ってくれさえした。
 だがローズは、もはや必要以上に心を開くまいと、必死に壁を張り巡らせていた。彼の細やかな心遣いに心が痛む時も、負けまいと懸命になった。子爵がローズの頑なな態度に眉をひそめ、困惑しているのはわかっていたが、そうする以外方法はなかった。彼は以前より少し、キングスリー家の者といる時間が増えていたが、まだおおむね、ローズのそばに座って本を読んでくれたり、自室に引きとって、所用の手紙を書いたりして過ごしていた。
 それにしても彼はいつまでここにいるつもりなのだろう。ある日、ローズは思い切って枕元に来た子爵に尋ねてみた。
「ロンドンもお忙しいのでしょう? あなたがいらっしゃらなくては、工場も困ったことになりませんか」
 彼は椅子に腰を下ろすと、皮肉めいた微笑を浮かべて、彼女を見た。 
「いや、大丈夫だろう。工場長が、カバーしてくれているはずだ」
「いつまで、こちらにお泊りですか」
「もちろんこんな退屈な所からは、一日も早く引きあげたい。だから必要最低限の日数だけ、留まるつもりだよ」
「何の必要最低限でしょう?」
「わたしの花嫁となる人の準備が整うまでのね。わたしはその人をロンドンへ連れていくつもりだから。彼女には、こんな田舎は似合わない」

 ああ、やはり! 覚悟していたつもりだったが、あまり役には立たなかった。心臓を一突きにされるような衝撃が走り、ショックのあまり声も出せずしばらく目を閉じ、そっと呼吸を整える。
「おや、どうしたんだい?」 だが、彼は容赦しない。
「それでは、あの方は? あなたのご婚約者のお嬢様はどうなさったんです?」
 次に目を開いた時、思わず口から質問がついて出た。彼の目が不信そうに細められる。
「いったい何のことを言ってるんだ?」 子爵は短く問い返した。
「あなたのお祖母様、老レディ・サーフォークが、おっしゃっておられましたわ。去年のクリスマスの晩に、です。それにウィルソン夫人もご一緒に」
「ほう……」彼は、椅子を少し前にずらすと、彼女の方へ心持ち身を乗り出した。ようやく彼女が鎧のように固めている、固い防御の殻を破って、話す気になったのだろうか?
 これで彼女が突然失踪した原因がつかめるかもしれない。
「わたしの祖母や叔母が、あの晩君に何を言った?」
 ローズは再び黙り込んだ。しかし知りたい気持には克てなかった。あの方とのご縁組がどうなったのか、それを聞くだけだ。自分にそう言い訳をして、ローズは言葉を継いだ。
「あなたがダンバード侯爵家のお嬢様と、正式にご婚約なさったと」
「ダンバード侯爵だって? アンナのことか? わたしが彼女と婚約したと、祖母や叔母があの夜君に言ったのかい?」
 無言で頷くローズを見て、彼は心ない身内に対し、憤りがこみあげてくるのを感じた。
「それで君は、そのたわ言を信じたんだな。だから出ていったというわけか」
「わたしだって信じたくはなかったわ。でもあのクリスマスパーティでの様子を見てしまったから……」
 彼女は思わず声をあげて、彼を見つめた。痛々しい色が浮かんでいる茶色の瞳。その視線をしっかり捉えて、彼は辛抱強く言葉を継いだ。
「アンナはもう二か月も前に、ゲイリック伯爵と結婚したよ。確かにそんな話も一時あったかもしれないが、彼女はわたしには少しもったいないね。アンナとは古いつきあいだし、もちろん今でも良い友人だが」
 子爵は両手で、目をそらせようとするローズの顔を包み込んだ。僅かな表情の変化も見逃すまいとするかのように、鋭い目が見つめている。
「いったい君は何を考えていたんだ? わたしは君に結婚を申し込んだはずだよ。それなのに、どうしてその舌の根も乾かないうちに、アンナと婚約できる? なぜ君は、そんな馬鹿げた話を真に受けてしまったんだ? わたしはそれほど信用されていなかったというわけか。それで、その後行く当てはあったのか?」
「ええ、しばらくの間は」
「そうか! あそこか。あの時の!」 彼は手をはずすと大声でうなった。
「………」
 彼女は泣き出しそうだった。今のやり取りだけで疲れ切ってしまい、もう精神の糸が切れてしまいそうになっている。それでもまだ、彼の追及の手は緩みそうもない。
「最初は見間違いかと思った。しかしあれは、間違いなく君だった。わたしは追いかけたんだが……」 ため息をつく。「見事に逃げられてしまった」
「あなたには、もう二度とお会いしないつもりでしたから」 
「なぜだ?」
 ぐさりと刺されたような気がして、子爵の声は思わず高くなった。
「突然いなくなった数時間前まで、わたしは君のフィアンセだった。あの去年のクリスマス、君の瞳は一点の曇りもなく、わたしを見つめ受け入れていたはずだ。なぜその後、せめてわたしが戻ってくるまで待てなかった? いくら祖母がわたしの婚約話をでっちあげたとしても、わたしに確認しさえすれば、そんな嘘はすぐわかったはずだ」

 しまったと思った時にはしゃべりすぎていた。問題の核心に触れられそうになって、ローズはまた固く口を閉ざしてしまった。
 ジェイムズはつのる苛立ちから、彼女を揺さぶりそうになるのを懸命にこらえながら、黒髪を額にかきあげた。なぜ彼女は、こんなに頑固に口をつぐんでしまうのだろう。

 その時、背後でノックの音がした。子爵がドアを開くと、その家の執事がメッセンジャーボーイを伴い立っていた。
「子爵様に急なお使いが……」
 執事が切り出すと、彼はそれを遮り、「わかった、部屋の方で聞こう」と、彼の使っている部屋の扉を示した。
 二人が恭しくお辞儀して下がると、再び、彼女のベッドに近づいた。彼女の顔に浮かんだ苦悶と疲労の色に気付いたようだ。
「少し休みなさい。続きはまた後で話そう」
 そう言って子爵は手を伸ばし、枕の上で少し乱れたローズの髪を、整えるように二、三度撫でつけながら呟いた。
「こんなに短く切ってしまって……。あのシルクのような髪を」
 寂しげな呟きとともに彼女を残し、隣の部屋に入っていった。一人になったローズは、話しすぎたことを悔やんでいた。このままでは、遅かれ早かれ、彼に事の次第を見抜かれてしまうに違いない。



 メッセンジャーが持ってきた手紙は、サーフォーク邸の執事からのもので、かなりやっかいな内容だった。子爵はそれを読んでため息をついた。
 このソールズ村へ来た時には、こんなに滞在が長引くとは思わなかった。ローズを見つけたら有無を言わさず、すぐにロンドンへ連れて帰るつもりだった。だから長くても三、四日で帰れると考えて、事業も屋敷のことも、たくさんの招待状も、すべてそのままにしてきてしまったのだ。
 いや、彼女に会えると分かった途端、他のことは何も考えられなくなったというのが真実なのだが……。それが彼女の急病で、もう一週間以上もここに足止めを食っている。
 手紙には工場の取引先とのトラブルのことや、招待を受けた夜会で断ってはまずいものをどうするか、などが書かれていた。親族達も子爵が突然どこへ雲隠れしたのか、しつこく詮索しているようだ。
 『至急旦那様のお指図をいただきたく、お戻りいただければ幸いです』執事はそう結んでいた。
 やはり一度ロンドンへ帰らなければならないだろう。だが彼女を明日すぐ長旅に連れ出すのはまだ無理だ。ここへ預けて行かなければなるまい。

 彼にとって何より意外だったのは、ローズの頑なな態度だった。自分でも認めたくなかったが、そのことが身にしみてこたえていた。
 もちろん彼女が突然失踪した背後には、それなりの理由があったに違いないと想像していたが、それにしても一年ぶりに会った彼女から、こんなにも拒絶されるとは思ってもみなかった。
 拒絶か? いや、彼女もまだ自分を求めてくれているはずだ。彼女の眼差しは、彼女自身がどんなに否定しようと、言葉より雄弁に思いを表している。それは間違いない。
 だが以前の彼女のように、それを素直に表現することがなくなったのは事実だった。できればまだ、自分を避けたい様子がありありと窺える。そんな彼女をまた一人にするのは、何とも言えず不安だった。
「くそっ、こんな時に」
 彼は手にした手紙を机にたたきつけた。


 その翌朝、子爵は身支度を整え、ローズの部屋に入っていった。
 彼女はベッドの上に起き上がっていた。急用で十日間ほどどうしても、ロンドンに戻らねばならなくなったと伝えた時、彼女の顔がさっと青ざめた。
「大丈夫。君は何も考えずに、ここでゆっくりしていればいい。今度戻ってくるころには、君も元気になっているはずだ」
 彼は諭すように穏やかな声でこう言った。
「この家の者に、君の世話はしっかりと頼んである。君が心配することは何もない」
「ジェイムズ……」
 ローズは聞こえないほど小さな声で、彼の名を呼んだ。その頼りなく悲しそうな声に、子爵は近寄って彼女を抱きしめた。
 ほっそりした身体が腕の中ですがりついてくるのを感じる。このまま離したくない。だが……。しぶしぶ手を離すと、彼女の顔を覗き込んだ。彼の中にも昨夜の不安が甦ったが、強いて明るく声をかけた。
「いったいどうしたんだ? たった十日じゃないか。すぐに戻ってくるさ。それまで君はここを決して動くんじゃないよ」
 こう念を押すと、子爵は身をかがめた。そして思いを込めて、元気づけるように彼女にキスし、振り返りながら部屋を出ていった。
 やがて外で馬のいななきが聞こえ、馬車が出ていく重々しい轍の音が、丘の道に響いて遠ざかっていった。

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12/04/07