Chapter  4


 子爵がロンドンに戻った後、ローズの生活は単調な日々が続いた。
 看護婦が食事を運び、薬を飲ませ、彼女は回復してきていた。あまり動いていないため、体力はまだ元に戻らないが、昼間は起きていて読書などもできるようになった。
 だが、ローズの気持は沈んでいた。彼に会いたい、あの低いソフトな声が聞きたい、といつも切望している自分にあきれていた。子爵のことは、きれいにあきらめたはずだと、どんなに自分に言い聞かせても無駄だった。再び出会った彼の表情、しぐさ、声音、愛撫、そしてキス……。それらが彼女の心にくすぶっていた恋の熾火を、容赦なくかき乱し再び火をつけた。どんなに忘れようとしても追い払おうとしても、彼の面影は四六時中つきまとって離れなかった。

 だが彼は言っていた……。
『わたしの花嫁となる人の準備が整うまでのね。わたしはその人をロンドンへ連れていくつもりだから』
 この言葉が、彼女の心に抜けない棘のように、今も突き刺さっていた。抜こうともがけばもがくほど、ますます深く食いこみ、血が流れ出してくる。
 そう、彼には既に心に決めた花嫁がいる。今度戻ってくるのは、メアリーを迎えに来るためなのだ。こんなひどい話があるだろうか。なぜ彼は、今更こんな残酷なゲームを仕掛けてきたのだろう。
 一年前、裏切られたことへの腹いせかもしれない、とも考えた。あるいは、自分には結婚とは別の関係でも、求められているのだろうか。世間知らずの彼女だったが、上流社会ではしばしばそういう関係があることは、話に聞いていた。子爵がまだ自分に関心を寄せていることははっきり感じたが、一年前と同じ感情とは到底思えない。けれど、そんな関係は彼女が受けてきた厳格な教育とモラルが許さなかった。

 これからどうしたら生きていけるだろう。
 彼女は立ち上がって、窓の外に広がる冬枯れの木立を眺め、わびしく自問した。外はうっすら雪に覆われた気が滅入るような枯れ木の丘が続いている。その風景は、今の彼女の心模様をそのまま映し出しているかのように、殺伐として寂しかった。
 彼の面影を胸に秘めたままで、この先の長い人生をどうしたら一人ぼっちで過ごしていけるのか、今はまだまったく見当もつかない。



 その時、軽いノックとともに、キングスリー氏が、夫人とともに部屋に入ってきた。彼女は慌てて身じまいを正した。
 夫妻には、この村の学校で教えることになった際、何かと世話になり、お茶にも何度か呼ばれていた。しかしこんな厄介をかけるというのは、考えられないことだった。
 すでに十日も居候している。子爵の手前、表には出さなくても、内心は迷惑に感じているに違いない。
 キングスリー氏にうながされ、三人は暖炉の前に置かれた椅子に腰を下ろした。メイドがお茶を運んできた。

「具合はいかがかな」
 氏はていねいな口調で切り出した。
「はい、だいぶんよくなりました。もうそろそろ家に帰れると思いますわ」
 微笑みながら、ローズは答えた。
「それは結構だ。ところで、今日は他でもない、あなたに大事な話がありましてな。以前から、お話ししたかったのだが、なかなかその折がなくてね。今こうして当家においでになるのも、良い機会だ」
「何でしょうか」
 ローズの顔から笑みが消え、緊張した表情になった。学校をやめてくれとでも言うのだろうか?
「いや突然で驚かれるかもしれないが」
「……?」
「ここから十五マイルほどの所に、シークエンドという村があるのはご存知でしょう。ここよりは小さいが、住みやすい所ですよ。村人も気立てのいい者ばかりだし。そこの牧師館に近ごろ、新任牧師が赴任してきたのです。歳は確か二十八、九だったでしょう。まだ一人身なので、何かと不自由な暮らしをしていて、よき協力者となり、伴侶となれる若く聡明なお嬢さんを、探しておるのです。その辺の教養もない村娘に、牧師館のきりもりなんぞできはしない。その点ミス・レスター、あなたならちょうどよいのではないか、と家内も言うのですよ」
「それは、つまり……その方と結婚……というようなお話でしょうか」
「まあ、そういうことです。あなたは確か、二十一でしたな。いかがかな? 一つお会いになってみては? 信心厚い立派な牧師だと評判ですよ、彼は。顔立ちも悪くないし。おお、そうそう、名はマーク・ウォリスとか」
「ありがとうございます。ですが……」
 信じられない思いで、とっさに断ろうとした時、
「あら、まさか今すぐお断りされるんじゃありますまいね。まだ会ってもみないうちに。こんなぴったりのお話は、そうざらにはないんですよ」
 それまで黙っていた夫人が、横から強い調子で口を挟んだ。親切そうな口ぶりだが、厄介払いしたい様子がありありと覗える。キングスリー氏も畳みかけた。
「何、ここの学校なら大丈夫だ。もちろんあなたに行かれるのはとても残念だがね。それに向こうの村でも教師は必要だから、あなたくらい優秀なら生徒はすぐに集まる。牧師館内に学校を造るのもいいのではないかな? わしにできることがあれば何なりと協力しますぞ」
「……お気遣い、感謝いたします」
 ローズは頭の中で忙しく考えながら、ゆっくりと慎重に答えた。
「ですが……、少し考えさせていただけませんか。あまりに急なお話ですし」
「それはもちろんだとも」
 もっと何か言いたそうな夫人に目配せし、彼は立ちあがった。
「さっそくだが、明日の午後に、ウォリス牧師を午後のお茶に招待している。気分がよかったら、御一緒されるといい。こういう話は、じかに会ってみるのが一番よかろうて」
 キングスリー夫妻が部屋を立ち去った後、彼女は椅子に座ってじっと考えてみた。夫妻は大乗り気だ。この話を断っても、もうここで教師の仕事を続けていくのは難しいかもしれない。
 だが自分の結婚のことなど、考えてもみなかっただけに、すっかり驚き、何より気持が拒絶している。自分が結婚したい相手はただ一人だけ。でも、それが叶わないのなら、この先どうすればいいのだろう?
 一生一人で過ごすか。それとも、いずれ、誰か他の人と……? 予想もしていなかった時に、人生の一大選択肢を突きつけられた気分だった。

 だがやはり、どんなに考えて見ても、今すぐ自分が結婚するとは、まったく想像できなかった。ましてや、ジェイムズと再会したばかりの今は。
 だが、牧師館の手伝いや、学校が続けられると言う話には、興味を引かれていた。
 子爵様はどう思われるかしら。わたしのことをご心配下さっていたようだから、そうすれば、安心なさるかもしれないけど……。
 ローズの胸がずきりと痛んだ。



 その時再びノックがあった。今度はメアリーだった。
「お加減はいかがかしら?」
 メアリーはドアを閉めると、取り繕った笑顔を浮かべてローズに近づいた。着ている青緑のドレスが、メアリーの皮膚の色を引き立てている。
「ええ、お陰様で」
 珍しい。いったい何の用だろう。普段自分のことなど、しがない村の教師と見て、まったく無視している気位の高いメアリーなのに。
「少しお話がしたいのだけど、構わないわね?」
 嫌とは言わせないわよ、という傲慢な気持が、ありありと窺える言葉。少しむっとしたが顔には出さず、ローズは立ち上がって優雅に椅子を勧めた。
「もちろんですわ。お座りになってお茶でもいかが?」
 椅子に掛けるや否や、メアリーは口を開いた。
「あなた、サーフォーク子爵といったいどういう関係なの?」
 あからさまな質問をぶつけられて、ローズは一瞬返事に詰まった。手が震え、カップがカタカタと音を立てる。思わず頬が赤らむのを感じながらも、どうにか気を静めると、さっきメイドが暖炉にかけていったポットから、ゆっくりお茶を注いだ。よい香りがあたりに漂う。
 メアリーを見返すと、彼女は椅子から身を乗り出すようにして、返事を待っている。好奇心満々の様子だ。
「わたしは以前、サーフォーク家の家庭教師をしていたんです。あの方の妹さんの。それだけですわ」
 ローズはしいて淡々と言うと、ティーカップを差し出した。
「家庭教師ですって? 本当に『それだけ』なの?」
 手渡されたお茶を飲みながら、メアリーは疑わしそうに彼女を見た。いろいろ頭の中で考えを巡らせているようだ。
「ええ、もちろん」
「子爵って本当にお優しいのね。たかが家庭教師にあんなにまで……」
 メアリーは言いかけて、ふと話題を変えた。
「あなた、どのくらいサーフォーク家にいたの?」
「そう、半年くらいですわ」
「それじゃあ、あの方のことを少しはご存知? たとえば、どんな女性がお好きか、とか」
 目を丸くして、ローズはメアリーを見た。なんてはっきり物を言う人だろう。
「あら、びっくりさせてしまったかしら、ミス・レスター。ごめんなさいね」
 メアリーの口元にあでやかな笑みが浮かんだ。
「あたし、あの方に夢中なのよ。あんなすてきな方にお会いしたのは生まれて初めてよ。あの方のこと、もっといろいろ知りたいの。ロンドンに工場をお持ちなんでしょ? この間お父様と話していらっしゃるのを聞いたもの。お忙しいんですってね。それなのにどうしてわざわざこんな田舎に来られて、何日も留まっていらっしゃったのかしら?」
「……花嫁の準備が整うのを待っている、と、おっしゃっていましたわ」
 ローズが、やや投げやりな口調で言った。こんな話は早く切り上げかった。さっきの夫妻の提案を、よくよく考えて見なければならないのに、この上また、こんな話を聞かされてはたまらない。
「まあ、本当? 本当にそうおっしゃって? やっぱりそうだったのね」
 メアリーの口から嬉しそうな、勝ち誇った声が上がる。手を叩き、飛び上がらんばかりだ。
「あたしに何もお話にならないなんて、ひどい方だわ。突然話してびっくりさせる計画なのかしら。戻っていらしたら、質問攻めにしてしまうわ、きっと。そういうことなら、お母様にお話して支度しなくては」
 メアリーは生き生きとした顔で立ち上がった。聞きたかったことを聞いた、という満足げな様子があった。
「ロンドンの社交界ってすてきなパーティがしょっちゅうあるんでしょう? それにオペラ観劇も。ああ、あたしもついに行けるのね」
 なんて開放的な人だろう。わたしとは正反対だわ。ローズはうきうきしたメアリーを見てそう思った。なぜか憎めなかった。かすかに微笑んでうなずくローズに、メアリーはこうつけ加えた。
「そうそう、あなたにも、いいお話があるみたいね。お父様達が話していらっしゃったわ。明日が楽しみよね。それじゃ、あたしこれで失礼するわ」 

 メアリーが軽やかに出ていった後、ローズは更に複雑な気持で、暖炉の火を見つめていた。
 やはり、シークエンドへ行く方がよさそうだ。


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12/04/08