Chapter  7


 それから約一時間後に、二人を乗せた馬車はシークエンドの牧師館を後にし東へ向かった。
 子爵はウォリス牧師に挨拶している間も、ローズがまた逃げ出すのではないかと心配するように、その腰にしっかりと腕をかけたまま離さなかった。
 ローズは唇を噛んでいた。牧師はやっと納得できたという顔で、ローズに励ましの言葉を与えると、二人を祝福し送り出してくれた。

「わたしをどこへ連れていくつもりなの?」
 馬車が、街道三つ目の小さな町を通り過ぎた時、それまで黙って窓から外を見ていたローズが、子爵に厳しい目を向けた。
 話し合おうと言ったのは子爵なのに、彼はビロード張りの座席にくつろいで座ったまま、黙りこくってローズを見つめるばかりで、一向に口を開こうとしない。
 トランクまで持ってこられてしまっては、もうシークエンドに戻ることもできない。 これでは話し合った後、また一から職探しだと、ローズは内心ひどく落胆していた。
  馬車は更に東へ進んでいく。突然はっと気が付いて声を尖らせた。

「まさかロンドンへ連れていくつもりではないでしょうね」
「いや、残念ながら今からそこまでは無理だな。昨夜から走らせ通しで、御者も馬も疲れ切っている」
「話し合うとだけお約束したはずですわ。わたしロンドンに戻るなんて一言も言っていません!」
「わかっているさ……」
 彼の口から重いため息が漏れた。
「だからわたしの別荘に行こう。そこなら邪魔物に入られることもなく、思う存分話し合えるさ。君の気の済むまでね」
「まさか、メイフィールドに?」
 メイフィールド! その場所での思い出が突然よみがえって、ローズの声が震えた。子爵はそんな彼女に目を細めたが、落ち着き払ってこう答えた。
「いや、あそこも遠過ぎるな。今向かっているのは、ここから一番近いレイクサイド・ガーデンのヴィラだ。あと一時間ほどで着くよ」
「お話するのに、わざわざそんな遠くまで行く必要があるでしょうか」
 それには答えず、子爵は別のことを問いかけた。
「この一年、どうやって過ごしていた?」
「どうって……、村の子供達を学校で教えながら、下宿と学校を往復する日々でしたわ」
「あのひどい下宿でね。君が健康をひどく損ねなかったのが不思議なくらいだ。それに英語も満足に話せない無学無教養な農村の子供達を教えるなんて、優秀な君のことだ。さぞかし大した成果があがっただろうな」
 ローズがムッとするのを見ても、彼は苦々しい口調を変えなかった。
「あの子達が無学無教養のままなのは、教育の機会にあまりにも恵まれないまま来たからですわ。機会さえあれば、彼らだって」
「おやおや、やけに熱心に弁護するね。わが愛しの婚約者殿は」
 わたしをからかっていらっしゃるんだわ。あのキングスリー家のパーティの時といい、こんなに意地が悪い方だったかしら。
 ローズはつんとそっぽを向いたが、彼の指が伸びてきて、また正面を向かされてしまった。
「それで、彼らのことを考える合間に、少しぐらいはわたしのことも考えたかい?」
 その程度どころではないと言い返しそうになって、言葉に詰まる。黙り込んだ彼女を鋭い目が観察しているのがわかり、目を伏せてしまった。
「この一年の間、本当に何もなかったんだね?」
 しばらくして子爵が再び低い声で問いかけた。
「もちろんですわ。いったい何のことをおっしゃっているの」
 彼の声の調子にはどこかはっとさせるものがあった。ローズは思わず目を上げて、今日会ってから初めて子爵をじっくりと見た。そしてはっと胸が打たれた。
 こんなに疲れ切った彼を見るのは初めてだった。疲れなど知らない人だと思っていたのに、今の彼には、明らかに濃い疲労の色が浮かんでいた。目元に隈ができ、口元のしわが深くなっていることに気付いて心が乱れる。
「わたしなんかのために」
 ローズが幾分和らいだ口調で言いかけるのを遮るように、彼はローズの左手をとると、その華奢な指を貴族的な指先で一本一本丹念にたどっていった。
「君のこの手をもう一度取るために、丸一年もかかったんだ。ああ、まったく長かったな」
 深い嘆息と安堵の混じった呟きを耳にし、ローズは決意が脆く崩れそうになるのを感じた。慌てて震える手を引っ込めてしまった。



 その後、彼は再び無言で座席の背にもたれかかっていた。やがて果てしなく続く丘陵地帯の先に、木立に囲まれた小さな湖が見えてきた。
 レイクサイド・ガーデンは文字どおり湖の辺に立つ小さいが瀟洒な白亜のヴィラだった。こんな場合でなかったらローズも気に入って喜んだに違いない。
 正面玄関の横にある小さな戸が開き、管理人と思しき中年の夫婦が顔を出す。前触れもなく主人が到着したことが分かると、大急ぎで出てきて中央の扉を開いた。
 子爵は先に馬車を降りると、ローズの手を取り馬車を降りるのを手伝う。そして自ら必要な荷物を降ろすと御者を慰労し、馬をつないで来て休むようにと声をかけた。
 ヴィラの内装も外見に違わず美しかった。今流行の装飾が施され、その優美な曲線が中央の螺旋階段から壁の装飾、ガラス細工のランプシェードなど至る所に見られた。ローズはそれらを目にして、サーフォーク子爵家の富を改めて目の当たりにしたような気がした。そして取るに足らない小さな自分を再び厳しく戒めるのだった。
「まあまあ、旦那様。急なお出でで準備も何もございませんが、先にお風呂をお使いになられますか? それともお食事に?」
 側に来た中年の婦人が優しく問いかける。地味にひっつめた黒髪に同じく地味だが機能的なウールの衣服を着ている。子爵の表情がなごんだ。
「ありがとう、サラ。元気そうだね。実は朝から食事もろくに取っていないんだが。風呂に入った後、すぐ何か食べられるかい?」
「まあ、それはそれは、もちろんでございますとも、いそいで準備いたします。こちらのお嬢様は……」
 サラと呼ばれた婦人は、ローズの身なりを見て眉をひそめたようだった。それを見た子爵は、やや大袈裟にローズの肩を抱き寄せて、婦人に紹介した。
「こちらはミス・ローズマリー・レスターだ。わたしのフィアンセだからね。くれぐれも粗相のないように頼むよ」
 ローズが身体を固くしていると、婦人は驚きを隠し切れない様子で、品定めするように数秒間彼女をまじまじと見た。そして子爵に向かって、
「ご婚約なさったとは存じませんでした。それはおめでとうございます」
 と祝いを述べると、一つ会釈して台所に立っていった。子爵は馬車から下ろした大きな箱を抱えて戻ってくると、ローズについてくるように促し階段を上っていった。

「君はこの部屋を使うといい」
 そう言って案内されたのは、明らかにこの屋敷の女主人の部屋と分かるような、ローズが見たこともないほど立派な美しい部屋だった。
 レースのカーテンと天蓋付きの豪奢なベッド、しゃれた化粧テーブルと椅子、暖炉脇の皮ばりのどっしりしたカウチ。ローズが入るのをためらっていると、子爵が手を取って彼女を部屋の中へ引っ張り込んだ。

 すぐに男が薪と火種を持ってやってきた。暖炉で赤い火がパチパチと乾いた音を立てて燃え始める。
「着替えたら降りておいで。食事にしよう。浴槽もすぐ準備できる」
「こんな立派なお部屋ではなく、普通のお部屋で十分です」
 ローズが途方に暮れたように言うのを無視して、彼は「下で会おう」と言って部屋を出ていった。ローズは一人部屋の中央にとり残された。 


 いつの間にか夕刻になっていた。宵闇が迫る部屋に、凝った装飾のガラスのランプシェードが、気持のいい淡黄色の光を投げかけている。
 暖炉の薪がはぜる音が時折響く。着替えるといってもいったい何に……。そう思った矢先、彼が化粧テーブルに置いていった大きな箱が目に留まった。蓋を取るなり、感嘆のため息がこぼれる。
 中には美しいドレスが三枚と、下着やペチコート、コルセット、靴、靴下、留め飾りといった貴婦人が身支度を整える時に必要な装身具が一式そろっていた。驚きとともにローズはその中のドレスを手に取ってみる。襟と袖口に繊細なレース飾りがついている濃い緑のビロードのドレス、アイボリーのシンプルだが洗練されたデザインのサテンのドレス、そしてもう一つはラベンダー色の旅行用の衣装だった。
 貴婦人のドレスだわ。彼女は唇をかんだ。彼はこれを自分のためにロンドンから持ってきてくれたのだろうか。子爵の気遣いは身にしみて嬉しかったが、素直に喜べない複雑な気持だった。自分のトランクがあればと思ったが、まだ馬車の中だ。ローズはやむなくビロードのドレスを取り出した。
 まもなく準備された湯桶で沐浴し、身体の汚れを落とすと、気分は数段よくなった。ペチコートをつけ、恐る恐るドレスに手を通してみる。コルセットは省略してしまった。滑らかな金髪を櫛けずり、編み込んでドレスと同色のリボンでまとめた。鏡に映った緊張した面持ちの貴婦人を見て、これが本当に自分だろうかと首をかしげてしまう。
 少しはにかみながら階下へ降りていくと、待っていた子爵の目が輝いた。彼はローズを上から下まで眺めて満足げに微笑し、彼女の手を取って食事の席に案内した。
 出された料理は急ごしらえとは思えないほどおいしかったが、ローズにはそれをゆっくり味わう心のゆとりがなかった。子爵の方はくつろいで、ワインを飲みながら給仕をしている夫妻に最近の様子を聞いている。時々ローズの方に目を向けたが、何も話しかけようとはしなかった。ローズはお茶のお代わりを断って先に部屋へ引き取った。
 まるで夢を見ているような、現実味のない感じがする。だが、これは紛れもなく現実のことだ。
 ローズは炉辺にかがみ込んで、ぼんやりと軽快に踊る炎を眺めていた。背後で、ドアが開く音がして彼が入ってくるのが感じられた。



 子爵はしばらく閉めたドアによりかかって、ランプの光と暖炉の炎に照らし出されたローズの姿を眺めていた。今彼女が着ているグリーンのドレスは、彼女が初めてサーフォーク家に来た日を思い出して買ったものだ。
 そう、彼女と初めて出会ったあの日の午後……。あの瞬間から、運命は密やかに動きだしていたのだ。
 彼はゆっくりとローズの方に近づきながら声をかけた。
「そのドレス、やはりよく似合うね。見た途端、君にぴったりだろうと思ったんだ」
 ローズはそっと立ち上がると、ゆっくりと向き直った。
「ありがとうございます。でもこんな美しいドレスではなく、自分の服を着たいですわ。何か落着かなくて」
 戦意が薄れそうになってくるのを感じ、気を引き締める。
「すぐ慣れるさ。やれやれ、まったくひどい一日だったな」
 こう言いながら子爵は、窓辺に歩み寄った。
「ここは美しい館だろう? わたしの父が母のために建てたんだ。母もここが好きで、夏には幼かったわたしを連れて遊びに来たものだ。あの湖でボートに乗ったり釣りをしたりしてね。わたしの数少ない、家族の思い出がある場所さ」
 夕闇に沈む眼下の湖を眺めてつぶやくように言うと、彼はローズを振り返った。ローズは彼を見るまいと思いながらも、その強い視線に思わず釘付けになっていた。
「君をここに連れてきたかったんだ。まさかこんな形で実現するとは思わなかったがね」
 彼女の目に困惑の色が浮かんだ。
「子爵様、わたし……」
「またそんな呼び方をする。わたしの名はジェイムズだよ。忘れてしまったのかい?」
 揶揄するようにこう言いながら近づいて、ローズを抱き寄せようとしたが、ローズはまだ距離を取ったまま、首を横に振る。
「いったい、何が問題なんだ?」
 子爵がその頑なな態度に苛立ったように問いかける。だがローズは彼の顔を見て、ため息をついた。
「相当お疲れのご様子ですわ。どうか今夜はゆっくりお休みになって。明日お話いたしましょう」

 だが今度は彼もためらわなかった。さっと手を伸ばすと彼女の細い腰を捉えて引き寄せた。そしてもう片方の手でローズのあごを持ちあげ、抗議するかのように少し開かれたその唇に、そっと指先をはわせる。まるで壊れ物に触れるかのように、優しく繊細に。
 見開かれた彼女の瞳が間近にあった。その目を見た瞬間、ジェイムズはもうこれ以上耐えられないと思った。心臓を矢で射抜かれたような衝撃が走る。彼の唇が切羽詰まったように彼女の唇を覆い尽くした。
 繰り返し繰り返し、熱く長いキスが続いた。別離の間に味わった飢えと渇きをことごとく満たそうとするように、彼はローズを捕らえていつまでも離さなかった。
 やがてローズの手が彼の愛撫に応えるようにおずおずとあげられ、彼の胸を這い上った時、彼はキスを続けながらその手をつかんで、自分のはだけたシャツの襟元からのぞく、浅黒い肌に触れさせた。
 初めは驚いたように、それからためらいがちに、ローズが彼の肌に触れ、ゆっくりと手をシャツの中に滑り込ませてきた。細い指先のつたない愛撫は、どんなに熟練した技巧よりも彼を駆り立てた。彼の手が熱くローズの背筋を滑り降りる。
 ふいに、ジェイムズが顔をあげて、彼女の目を覗きこんだ。その目が問いかけていることは……。でも、まさかそんな……。
 ローズは全身から力が抜けていくような気がした。彼女の困惑を読み取ったのだろう。彼はふっと微笑んで、わかったと言うように頷いた。そのままジェイムズはローズをただじっと抱き締めていた。

 ようやくローズが呪縛からとかれたように身動きした時、ジェイムズはくぐもった声でささやきかけた。
「君にどれほど会いたかったかわかるかい? この一年の間、もう一度君をこの腕に抱きしめることばかり夢見て、見続けてきたんだ。君とこうしているのがまだ信じられない気がする」
「でも、お会いしてよかったのかどうか、わからないわ」
 ローズは彼を見あげて瞳を曇らせた。
「どういう意味だ? 君はそう思ってくれないのか?」
「だって、ご一緒できないとわかっているのに、こうしてあなたといても、後で辛くなるだけですもの……」
「まだそんなことを……。もちろんできるさ。無理にでも連れて帰るよ」
「いいえ! 最初から無理だったんですわ。子爵夫人、あなたのおばあ様がおっしゃられたことは、本当に手痛い真実でしたもの。状況は何も変わっていないわ」
 その激しい口調に驚いたように、彼が瞬きした。
「祖母が君にいったい何を言ったんだ?」

 子爵は彼女をカウチの所に引っ張って行くと、一緒に腰を下ろした。尋ねかけるようにただじっと見つめている。
 ローズは彼を見上げながら、一年半前、二人が初めて出会った日のことを思った。


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12/04/11
次章から、二人の出会い編です。