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 Chapter  8

1870年   夏


 その日は比較的暑い日だった。ローズは大きな木のトランクを下げて、手紙にあるサーフォーク子爵邸を探していた。
 彼女の手持ちの服で一番上等の、濃い緑のクレープのドレスには汗がにじんでいた。先ほどからもう二十分ばかりも、この通りを行ったり来たりしているのだ。
「やっぱりここだと思うんだけど、もし違っていたら、どうしょう。でも……」
 思い切って石段を上がると、重厚な扉のノッカーを叩くと人が出てくるのを待った。開けてくれたのは、予想通りの執事で、こちらが名乗ると、
「ミス・レスターですね。お待ちしておりました」と、通してくれた。
 二階まで突き抜けた玄関ホールに、窓から明るい日差しが差し込んでいる。今日からここで教えるのだわ。ローズはどきどきした。

 イギリス中流階級の婦人は、一般的に家庭重視であり、お金のために働くことは卑しいことだとされていた。そうした中で唯一、世間から認められていたのが、この良家の子女の家庭教師という職だった。そのため競争率がとても高く、広告を出してもなかなか決まらないことが多かったのだ。
 執事が二階から戻ってきて、「旦那様がお待ちでございます。こちらへどうぞ」と言われた時、ローズは心の準備ができていなかったので、内心驚いた。
 だが顔には出さず、執事に続いて階段を上がっていった。そこはどうやら主人の書斎らしかった。執事が「ミス・レスターでございます」と言いながら、ドアの中に彼女を案内して出ていくと、窓の前にこちら向きに置かれた大きな机に向かって、何か書き物をしていた男が顔をあげた。

 年は三十を少し越えているだろうか。少しカールしたやや長めの黒髪に、目は濃いブルー、彼女が初めて見るような精悍で男らしい、整った顔立ちをしている。襟元を少しゆるめた白いシャツからは、日に焼けた浅黒い肌が覗いている。
 長い指にペンをもって、手紙を書いている最中らしかった。
 この方が、サーフォーク子爵様……?
 もっと年配の紳士を想像していたローズは意外に思った。子爵も何かに驚いたようにじっとこちらを凝視していたが、やがて儀礼的に立ち上がって彼女に椅子を勧めた。そして自分はもう一度机に向かうと、低いソフトな声で言った。
「実は今すぐ仕あげたい手紙がありましてね。失礼だが少々お待ちいただこう」
 そして再び手元に目を落とす。
 ローズは肯いて勧められた椅子に腰を下ろすと、そっと書斎を観察し始めた。壁には彼の父親らしき人物の肖像画がかけられ、蒐集に何代もかけたと思われる革表紙の本が書棚いっぱいに並んでいる。
 その中に以前から読みたくてたまらなかった本をみつけ、彼女の目が輝いた。ふいに声がかかった時、驚いて飛び上がりそうになった。

「何か見つかりましたか」
 子爵は手を休めて椅子にもたれ、面白そうにローズを見ていた。ローズは我にもなく真っ赤になってうつむいた。ああ、これではまるで世間慣れしていない小娘そのものではないか。自分を蹴飛ばしたい思いだ。
「あなたはどうやら書物がお好きなようだが、興味あるものでもあったのかな」
 唇を湿して勇気を奮い、彼女は顔をあげて子爵に言った。
「本の中には、今まで知らなかった新しい世界がありますわ。新しい思考と出会い、それを考え消化する中でたえず新しい発見をしていくのは、とても楽しく有意義なことだとは思われませんか?」
子爵はおもしろそうに、にやっと笑い、机の上に置かれた水の入ったグラスを取りあげて口に運んだ。生意気だと思われたかもしれない。ローズはしまったと思ったが、後の祭りだった。だが子爵は、それには答えず話を変えた。
「失礼だが、あなたは今お幾つですか」
「まもなく二十になります」若すぎるだろうかと心配になる。
「ほう、それで何が教えられます?」
「読み書き、数学、フランス語、ドイツ語、ピアノ、刺繍といったことです。家庭教師協会からの紹介状にあるとおりです。必要な条件は満たしていると思いますが」
 少し強気になってこう付け加える。何か思うように見ていた彼がふいに椅子から立ち上がり、机上のベルを鳴らした。答えてやってきたメイドに妹を呼ぶよう命じる。
「そうでしたね。まあ、いいでしょう。合格です。では妹のマーガレットを紹介しよう」
 ローズがほっとしていると扉が開き、十歳くらいの人形のような少女が部屋に駆け込んで来た。



「お兄さま、お呼びですって?」
 子爵が優しい笑顔で迎え、飛びついてきた妹にキスしてやる。そして立ちあがったローズを振り返って言った。
「いい子だ。さあ、君の新しい先生を紹介するよ。ミス・ローズマリー・レスターだ。明日からしっかり学ぶんだよ。がんばったらご褒美をあげよう」
 そう紹介され、ローズはマーガレットに膝を折って会釈した。小さなマーガレットは兄からローズに視線を移し、また少し恥ずかしそうに兄の顔を見あげ、彼女にこう挨拶した。
「はじめまして。どうぞよろしく」
 どうやら手におえないわがままっ子や、ひねくれっ子ではなさそうだ。ローズは嬉しくなって初めての生徒に明るく微笑みかけた。
「どうぞよろしくお願いします。マーガレット様」
 マーガレットが去ったドアを見ながら、子爵はローズに言うともなしに言った。
「母が妹を産んで半年後に亡くなってね。あれは母を知らずに育っている。だから寂しがり屋なんだが、わがままではない。素直ないい子でね。わたしも忙しくてなかなかかまってやれない。あの子を頼みますよ」
 そうだったの。とにかく精いっぱいがんばってみよう。彼女は決心して、子爵を見返した。二人の目が合い、子爵が微笑む。
「わかりました。一生懸命努めますわ」
 彼女がそう返事した時、彼が握手するように手を出した。ローズがおずおずと手を差し伸べると、子爵はその手を取って強く握った。
 執事からここを使うようにと案内された部屋は、ローズがはじめて見るような立派な部屋だった。高い天涯付きの寝台に、窓にはレースの美しいカーテンがかかっている。疲れていたローズは、夕食後早々と部屋に引きあげた。
 いよいよ新しいスタートだわ。マーガレット様と仲よくやっていけるといいけれど……。
 そんなことを考えながら、いつのまにか眠りについていた。



 翌日から子爵家での生活が始まった。ローズは午前中と午後、二時間ずつマーガレットを教え、それ以外の空いた時間は本を読んだり、ピアノを弾いたりしてゆっくりと過ごした。
 子爵が自分の書斎の本を読む許可を与えてくれたので、時間を見つけて、ローズはそれらを読んでいった。
 屋敷には大勢使用人がいて、それを束ねているのが執事のブライスだった。夕食は彼女一人のときも多かったが、ごく希に子爵が一人で屋敷にいるような時には、呼ばれて子爵やマーガレットとともに食卓につくこともあった。緊張するが、食事があまりに素晴らしくていつも驚くのだった。
 そういう時は、子爵に借りた書物の感想を聞かれたり、今日あったことをマーガレットが報告したりする。日々はたちまち過ぎていった。
 子爵はたいそう忙しいらしく、いつも出かけてばかりいるとマーガレットがこぼしている。二十歳年齢の離れたこの兄を、父親のように慕っているのに、あまりにも接する時間が少ないのが、ローズにもだんだんわかってきた。たまに屋敷にいる時でも来客が多く、子爵一人でいることなど滅多にないようだった。だが、ついに機会が訪れた。

 ある時、ローズは廊下ですれ違った子爵に会釈し、思い切って声をかけた。
「すみませんが、少しお願いがあります」
 そのまま行き過ぎようとしていた子爵が、驚いたように振り返る。
「ミス・レスター、これは珍しい。わたしのことなど目にも止まらないのではないかと、悲観しかけていたところだったが」
 冗談めかした彼の口元に、皮肉な微笑が浮かんだ。ローズが何のことか分からずにいると、彼は書斎に来るように声をかける。
「たまにはお茶でも一緒にどうだい?」
 ローズは心臓が一つ飛ばして打ったような気がしたが、何とか澄まして彼についていった。二人は書斎の椅子に向かい合って座った。
「あなたがここに来てまもなく一か月だ。どうだい、マギーは良い生徒かな」
「はい、学ぶ意欲もお持ちですし、飲み込みもお早いですわ。ただ集中力が少し。あのお歳で、一回二時間のお勉強は少し負担が大きいかと思いますの。子爵様のお許しがいただけましたら、しばらくの間は一時間にしてさしあげたいのですが」
 彼は少し考えていたが、「まあいいでしょう。ではそうしてください」と言った。そして、「何かわたしに頼みがあるようだったが? そのことかい?」
 その時メイドがお茶を運んできたので、話が途切れた。ローズはどういうふうに切り出そうかとあれこれ思案していた。お茶が入り再び二人になると、思い切って率直に話してみることにした。
「マーガレット様は、とてもお寂しいんです。お父様もお母様もいらっしゃらず、たった一人の肉親であるあなた様もいつもお忙しくて、誰も御自分に関心を持ってくれる人がいない、そんなふうに感じておいでです」
 子爵の青藍の目が細められるのを見て、ローズは少し微笑み口調を和らげた。
「わたしごときが差し出た口をと、お怒りにならないでください。ただ、兄上であるあなた様にマーガレット様のお気持を、知っておいていただきたかったんです。本当に一人ぼっちでずうっと辛抱してこられたのですもの」
「貴族の子弟というのは、大抵幼い時にはそんなものでね」
 彼はローズの言葉に対しやや厳しい声でこう言うなり、残りのお茶を飲み干した。
「たとえ両親がいても、大概外出しているか、サロンで人と話している。子供は母に会いたくて行っても、追い払われてしまう。そうこうするうちに、何か期待するのもやめてしまうんだ。そしていつの間にか自分もそんな大人になってしまっている」
 子爵は言葉を切って、目を見張っているローズを見た。
「君のご両親はいい方達だったらしいね」
「はい、わたしの家はごく普通の下級官吏の家庭でしたから。わたしも母を手伝っていろいろやりましたわ。スプーン磨きとかパイを焼くとか。父はコーンウォール出身で、夕食をとりながらよく故郷の話をしてくれました。二人とも亡くなる前の話ですけれど」
「昔、そういうのに憧れたな」
 彼はほとんど聞こえないような声でつぶやくと、話は終わったというように立ちあがった。
「わかった。考えておこう」それだけ言うと、彼はさっさと書斎から出ていってしまった。
  一人書斎から出ながら、ローズは泣きたいような気分になった。どうしてあんな厚かましいことを言ってしまったのだろう。彼らを取り巻く環境が、自分達と違うのは当然ではないか。お前の知ったことではないと言われても当たり前なのだ。
 ローズはそれから、なお一層めだたないように行動するようになった。たまに子爵と廊下などで出会ってもうつむいてお辞儀をするだけで、目さえ合わせることなく通り過ぎていた。



 いつのまにか街路樹が黄色く変わり、秋になっていた。
 ある日、午後の授業を終えて本や石版を抱え、自室に引き取ろうとしたローズを、廊下で子爵が呼び止めた。
「今終わったのかい? 少し話があるんだが、いいかな」
 主人に話があると言われては、いいも悪いもないではないか。そんなことを思いつつ、ローズは子爵とともにサロンのテーブルに、落着かなく向かい合った。子爵の雰囲気はこの前と違い、ざっくばらんなくだけた感じだった。今日は一日屋敷にいたのか、白い開襟シャツに、黒のズボンという軽装だ。
 彼は椅子の背に片腕をかけて足を組み、ローズをしばらくじっと見ていた。何もかも見透されてしまいそうな青藍の瞳に会うと、ローズは脅えに似た気持すら覚えた。急に自分の紺色ハイネックの質素な服装が恥ずかしくなり、うつむいてしまう。いつも彼が同伴している令嬢達の美しいドレスと比べている自分を、ばかばかしいと心の内で叱りつける。その時子爵が口を開いた。
「明日から一週間、マーガレットとメイフィールドの城に出かけることにしたんだ。それで君も一緒に来てくれるだろうね?」
 ローズが何のことか分からずにいると、彼はふっと笑顔になった。
「君に言われたことを、まったく考えていなかったわけじゃないさ。マギーも勉強をがんばってやっているようだし、約束どおりご褒美をあげなくてはね。それで、君にも世話係りと言うか、話し相手として来てもらいたいんだ」
「ですが、わたしドレスの着付けとかそういうことはあまり……」
 得意ではないと言おうとすると、子爵はおかしそうに笑い出した。
「いや、べつにマギーの侍女を君にやってもらうつもりはないよ、ミス・レスター。君も一生懸命やってくれているから、一週間の休暇だと思ってくれてもいい。僅かな期間だが田舎の荘園でのんびりしないか。この国の秋は短い。じきに長い灰色の冬がやってくるのだからね」


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12/04/13