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Chapter 0

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 一九〇四年。

 カナダのサマセット村はいつものように遅い初夏を迎えていた。

 村を横切りゆるやかに流れる川は、今日も青い青い北の空を鮮やかに映している。川面で小船をあやつる髭の老人が、ゆっくりと仕掛けを引き上げた。小さな魚がかかっている。川辺には花が咲き、その向こうに緑の絨毯を敷き詰めたようななだらかな丘が、さらに遠く針葉樹の森は黒い塊りのように見えていた。
 丘を少し歩くと横手に赤茶色の畑が見える。よく耕された農地に、麦の穂が今年の収穫を約束するように、青く繁りはじめていた。農地を過ぎると白い塗り壁のこぎれいな家々が立ち並ぶ集落になる。
 ここは州都シャーロットタウンから遠くない、のどかな絵の様なサマセット村だ。

 今、麦畑の小道を、雨も降っていないのにずぶ濡れの木綿ドレスに、髪を乱した少女が、顔をくしゃくしゃにしながら懸命に走っていた。
 後を振り返り、これまた濡れねずみで追いかけてくる背の高い少年の姿を認めると、顔をしかめてまた足を速める。
 しかし、二人の足の差は明らかで、すぐに褐色の髪の少年に追いつかれてしまった。

 少年がやっと腕を捕えた時、少女は怒っているのと走ったせいで息が切れ、口も利けないほどだった。少年は小脇に二人分の勉強道具を抱えたまま、あらがってなおも振り解こうとする少女のもう一方の手をかわしながら、青い瞳を陰らせて困ったようにため息をつく。

「悪かったよ、パトリシア。もう泣くなってば」
「泣かずにいられると思う? 今日はあたしの人生最悪の日よ。下ろしたての服が完全に台無しになってしまったんですもの。それもロイ、あなたのせいよ! あなたなんか信用して舟に乗ったあたしが馬鹿だったわ!」
「だから謝ってるだろ? 僕だって、あの舟が漏るとは知らなかったんだ。君に川くだりを見せたかったから、親方から一生懸命操舵の仕方を習ったのに……」
 ロイと呼ばれた少年は、途方に暮れたように呟きながら整った顔を心持ち歪めた。だが掴んでいる濡れた腕が震え出したことに気付き、さっと口元を引き締める。
「このままじゃ風邪を引いちまう。俺の家へ行こう。その方が近いよ」
「けっこうよ! あなたの世話になんかなりたくないわ! 家に帰ればいいんだから」
 言うなり、パトリシアは震えながらも気丈に歩き出そうとした。ロイは抱えていた勉強道具を道の脇に放り出し背後から近づくと、まだ華奢な身体をひょいと両腕で抱え上げてしまった。

「ちょっと! 何するのよ、降ろしてってば!」
 パトリシアは驚いた様に声を上げ、次に真っ赤になった。手足をばたつかせて抵抗を始めたが、そんな抗議もどこ吹く顔、そのままずんずん歩いていく。
「ほら、病気になったら元も子もないだろ。じっとしてろって。動くと君を落っことしちまう」

 やがてパトリシアは観念したようにおとなしくなった。自分を抱える腕の筋肉が固く引き締まり男らしく盛り上がっている。以前は細くて血色もあまりいいとは言えなかったのに。
 ロイもだんだんと大人の男の人になっていくのかしら……。
 彼女はそっと身体の力を抜き、ロイの胸に頭を預けてみた。走ったせいか、心臓の鼓動が少し早くなっている。耳をシャツに押し当ててリズミカルに響く音を聞いているうちに、濡れた身体が熱くほてってくるのを感じた。小さな好奇心が、ふいにとまどいに変る。

 ロイもまた、鼻をくすぐる髪の甘い匂いに、次第に顔から全身に至るまで強張り出すのを感じていた。懸命に何もない振りを装い足を速める。
 ようやく森の傍の小さな家に辿り着いた。ドアを外からがんがん叩くと、ロイの母親が仰天した表情で二人を出迎える。十二歳になる妹も、目を丸くして二人を交互に見た。
 事情を聞くなり母は、てきぱきと湯を沸かし二人を着替えさせると、熱いスープを飲ませてくれた。


*** ***


 村の集落から少し離れた森の近くに、ニコルズ家の『森屋敷』がどっしりと古風な佇まいを見せていた。
 パトリシアはこのサマセット村で最も裕福な地主、ニコルズ氏の娘だった。氏はシャーロットタウンはもとより、トロントにまで知り合いが多く、夫人もシャーロットタウンの良家の出だったから、夫妻は村の住民との行き来はほとんどない。
 立派な『森屋敷のお嬢様』を、少女達はひそかな憧れと小さな嫉妬心をもって眺めていた。そんなことも本人は何も知らなかったのか、あるいは気づいてもあまり気にしなかったのかもしれない。いつもきれいな模様の布地で仕立てた膝丈のドレスに、ぱりっとしたエプロンをつけ、自慢の黒髪は肩で切り揃えて、髪によく映えるつば付きの帽子を被って学校に通っていた。
 一方、彼、ロイド・クラインはといえば、幼い頃から着古してつぎの当たったお下がりズボンをサスペンダーで留めて、これまた古靴ばかり履いていた。両親は正直な働き者だったが、暮らし向きはお世辞にも豊かとは言えなかった。
 それでも、仲間達と元気に森や野原を駆け回り、この辺りのことなら知らないことはない腕白少年だった。
 そんなロイも十一歳で村の学校へ通い始めると、誰よりも熱心に勉強するようになった。勉学はとても楽しかった。将来、学資金を貯めて大学へ行き、自分で人生を切り開くことが彼の最大の夢になった。

 ロイが、いつも輝いているパトリシアの黒い瞳に惹かれ始めたのは、いつだったか……。
 記憶にあるのは十三歳頃のことだ。ロイは学校で、いつも目の端に彼女の姿を捉えている自分に気づいた。パトリシアの存在は知らないうちに心の中に、他の誰も代わることのできないほど大きな位置を占め始めていた。
 よく変る愛らしい表情と少しきかん気な性格を示す瞳が、ロイの中にしっかりと根を下ろし、どうしても抜けなくなってしまっていた。
 だが『森屋敷のお嬢様』が自分の中にそんな感情を引き起こすという事実は、全く手に負えなかった。なんだか悲しくなり、無性に腹が立ってきたりもする。
 ある日、学校帰りの午後の小道で待ち伏せしてみた。パトリシアが友達といつものようにそこを通りかかった時、ロイは大きなどろ玉を投げつけた。
 不運にもその泥玉は命中し、パトリシアの糊の利いたエプロンは完全に台無しになった。
 彼女はショックのあまり、信じられない、と言うように瞳を見開いて呆然とロイを見ていた。おそらく彼の顔も引きつっていたに違いない。
 次の瞬間、その目から大粒の涙が溢れ出した。泣きながら走り去っていく姿を見ながら、ロイの心は激しい自己嫌悪でいっぱいになってしまった。
 プライドと自己嫌悪が格闘した末、ロイは次に会った時、帽子を脱いでパトリシアに頭を下げて謝罪した。しばらくじっと黙っていたパトリシアも、結局は許してくれた。
 そして、二人は親しい友達になっていった……。


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16/12/02