Chapter 1

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一九一四年  オンタリオ州 トロント市


 今日は厄日か……?

 ロイド・クラインは、住みはじめて二年目の下宿屋、コンウェイ邸の寒々しい廊下に佇み、モップを片手に大きなため息をついていた。
 今朝は、やることなすこと、すべてうまくいかない。

 まず朝の目覚めがすこぶる悪かった。起きてからも自分が今どこにいるのか、一瞬思い出せなかった。夕べそんなに深酒した訳でもなかったのに。
 ベッド脇の小テーブルから懐中時計を取りあげて見た瞬間、彼は目を疑った。いつもより一時間以上も寝過ごしている。今すぐ出なければ遅刻だ。
 慌ててベッドから飛び起きたが、今度は水差しの水がないことに気づく。これでは顔も洗えない。仕方なくガウンを引っかけ階段を駆け下り、邸内の昔風の台所まで汲みに行った。いっぱいに満たした水差しを手に、大急ぎで部屋の前まで戻ったところで、今度はそこを通りがかった隣人の飼い猫のしっぽを力いっぱい踏んずけた。
 この場合、災難だったのはその猫かもしれない。だが、ロイもよろめき、危うく水差しの水を頭からかぶる所だった。反射神経のおかげで頭とガウンは守ったものの、せっかくの水は半分床にこぼれ、モップで廊下の拭き掃除をする羽目になる。


 ようやくモップを道具入れに戻すと、ロイは寝室と居間だけのささやかな自室に戻った。簡易ストーブのすすで少し黒ずんだカーテンを引いて、開き窓をいっぱいに押し開けてみる。冷たい風が室内に吹きこみ身震いした。三月だというのに霙でも降り出しそうなどんよりした曇り空だ。
 彼は今トロント市の下町、ウエストバレー通りに面した古い邸の三階で下宿していた。食事はつかないが晴れた日には、陽光に煌く青い湖水が見える位置だ。
 窓を再び閉じると、壁にかかった鏡に向って手早く身支度を整える。しかし、どうやらまだその朝の不運は続いているらしく、いそいで淹れたコーヒーはこの上なくまずかった。
 既に八時半を回っている。ああ、もういい。たまの遅刻がなんだ? こんな朝っぱらから依頼人など一人も来ないさ。
 ロイはまずいコーヒーを片手に、昨夜から読もうと思い机にのせてあった新聞を手に取った。だが活字すらさっぱり頭に入ってこない。

 小声で悪態をつきながら、ロイは備え付けのクローゼットからシャツとスーツを取り出して着込むと、ネクタイを締め、さらにコートを取り出して肩に引っかけた。最後に帽子を被り、まだオンタリオ湖からの冷気が身に染みる三月の街へと歩き出す。
 どうせ遅れるなら、ゆっくり行こう。
 そう開き直って、勝手知ったる下町の通りを、弁護士の資格を取ったときから勤めているウェスコット事務所に向った。


 歩きながら、また今朝見た夢のことを思い出し、ため息をつく。
 そもそも諸悪の根元はあの夢だ。夢の中とは言え、久し振りに見たパトリシアの面影のせいで、さっきから心の古傷が疼いていた。おまけにまずいことに、深層意識の連鎖反応か、ロイの意識の海に、毎年この時期、湾の沖合から寄せて来る流氷のように、十年前の記憶が次々に浮き沈みしながら押し寄せていた。
 くそっ、今頃なんだ? こんなもの、もうとうの昔に記憶から消し去ったはずだ。またなぜ今朝に限って立ち戻ってきたのだろう。

 確かにあの初夏の苦い思い出は、彼の楽観的だった人生観に、現実の味をたっぷりと注いでくれた貴重な教訓だった。
 だが、駆け出し弁護士として多忙な現在、もう思い出すこともあまりなかったのに……。


*** ***


 くだんの事件からしばらく経つと、パトリシアは学校に来なくなった。
 シャーロットタウンから森屋敷に家庭教師が来た、という少女達の噂話を聞きながら、ロイは苦々しく思った。恐らくそんなところに違いない。
 だが、これでもうパトリシアの姿を毎日見なくてもすむ。少なくとも、余計な心の痛みからは解放されるだろう。自分はこれから人生を切り開くという大仕事を成さねばならない。やりきれない感情なんか持て余しているのは、あまりに非生産的だ。

 あの頃はそう思い込もうと、かなり苦心したものだった……。

 だが、そう悪いことばかりでもなかった。しばらく元気がなかったロイに、ついに幸運の女神が微笑んだのは、パトリシアに会えなくなって数か月後の夏だった。
 最後の夏期休暇中、学校教師のミス・ウィンターズに呼ばれたロイは、一緒にシャーロットタウンに行き、その街のホテルに滞在中の初老の紳士に会った。
 トロントから来たヘンリー・ディビス教授は、ミス・ウィンターズの恩師だという。いかつい眼鏡の下の鋭い眼に好奇心を浮かべ、昔の教え子と、彼女が伴ってきた田舎の少年を歓迎してくれた。
 すっかり緊張して、いつもの半分も話せずにいたロイに代わって、ミス・ ウィンターズが歯切れよく彼を紹介してくれた。
 この学生は苦学生だが、勉学には非常に熱心で優秀な若者です、と彼女が話す傍で、教授は彼をじっと眺めていた。先日ロイが書いた小論文を教授に見せたとき、話は思わぬ方へ進んで行った。
 しばらくその 論文を読んでいた教授が、彼に微笑みかけたのだ。
「わたしは今、トロントのキング大学で教便をとっている。君は将来法律を専攻してみる気はないかね? 学費のことは心配しなくても、君ならきっと大学の奨学金が取れるだろう。でき次第ではわたしが大学に推薦してもいい。ぜひトロントに来なさい」
 その瞬間、彼は目も眩むような興奮を感じた。幼少期の長い洞穴からようやく這い抜け、青い空に蝶の舞う花園を目の前にしたような気がした。考えるより早く、夢中で答えていた。
「はい、行きます」と。

 こうしてディビス教授の口添えで、時期は遅れたが、念願のノヴァスコシアで学べることになった。大学へ行くためにはまだ履修すべき学科が山ほどあったからだ。
 とんとん拍子に話は進み、ロイはかなり興奮しながら準備に追われた。

 そして、ロイがサマセット村を出発する日が来た。村の駅まで見送りに来た両親と妹、それに数人の友人達とともに、汽車を待っていると、驚いたことにパトリシアがそこに駆け込んできた。
 数か月ぶりに会う彼女は、屋敷に閉じこもっているせいか、少し痩せて顔色も優れなかった。
 パトリシアの姿を見た途端、ロイの胸が再びずきんと痛んだ。家族に囲まれている彼を見て、近づいてもいいのか迷っているように見えたので、ロイの方から歩み寄った。
「やあ、パトリシア。わざわざ見送りに来てくれたのかい?」
 何の感情もこもらない、そっけない声だった。いつも心のどこかで会いたいと思っていたのに、いざ本人を前にするとこうなってしまう。
「あなたが今日、ノヴァスコシアへ行くって弟が教えてくれたの」
 パトリシアは熱心に言い出した。
「おめでとう! あなたの夢がとうとう叶ったって、あたしとても嬉しかった。 どうしても、あなたにこれを渡したかったから、こっそり家を出てきちゃったの。あたしが作ったのよ」
 言いながらポケットから差し出したのは、水色のサテン地にレースの飾りが付いた、彼女の手のひらほどの大きさのポプリだった。
「……ありがとう」
 ロイは短く礼を言って受け取った。胸がじんわり熱くなる。
「元気だったかい?」
 パトリシアの目を見つめて問いかけると、彼女は目を伏せてしまった。

 出発を告げる汽笛が響いた。
 無言のまま最後にもう一度彼女を見つめ、ロイは家族の所へ走って戻った。
 荷物と共に乗り込むと、汽車は煙を上げながら、ゆっくりと走りだした。

 家族や友達に混じって、懸命に手を振るパトリシアが見える。
 それは次第に遠ざかり、やがて懐かしい村とともに見えなくなった。


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16/12/13
元の文がかなりくどかったので、がしがし削りました。
字数も減って、少しは読みやすくなったでしょうか…。
次から現在に入りますのでもう少しだけロイの回想にお付き合いください。