Chapter 1

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 苦学の末、ついに大学に入った喜びもあまり長くは続かなかった。
 ディビス教授の約束通り、トロントの大学で学んでいた彼の元に、突然父と妹が腸チフスにかかった、という恐ろしい知らせが届いたのは、二年目のクリスマスが近いある日のことだった。
 ロイは大急ぎで家に帰った。だが熱心な看護のかいもなく、二人ともこの世を去ってしまった。
 突然家族の半分を失った母親は、すっかり動転し取り乱してしまった。悲しみをこらえ懸命に慰める息子の言葉も、母の耳には聞こえないようだった。
 その時パトリシアがどうやって葬儀に来ることができたのか、よくわからない。だが、彼女はやってきた。

 青ざめた顔に悲しみをたたえた喪服姿のパトリシアは、すでに若い貴婦人になっていた。葬儀が終ってからも、悲嘆に暮れるロイの母親に付き添って家まで来てくれたパトリシアは、寝込んでしまった母を慰め、眠るまでずっと手を握っていてくれた。
 その優しい心遣いはとても嬉しかったが、彼の心中はまだ複雑だった。
 まるで二人の間に見えない壁でもあるように、結局その夜、言葉さえ必要以上には交さなかった。彼女はクリスマスのために、こちらに戻って来ただけだと言った。
 やがて迎えが来ると、ロイはやや堅苦しく感謝の言葉を述べ、パトリシアは森屋敷に帰っていった。

 実際、ロイはその時、大学を休学するか、最悪あきらめねばならないと覚悟したほどだった。だが村人達の慰めと励ましのお陰もあって、徐々に元気を取り戻した母は、村に戻ろうかと問う息子の言葉に反対し、学業を続けさせてくれたのだ。
 今、ロイはここトロントから月々仕送りをし、母は一人住み慣れたサマセット村の家で暮らしている。
 そして、その後パトリシアがどこでどうしているのか、知る術はなかった。


*** ***


 煉瓦や石造りの建造物が立ち並ぶ目抜き通りを歩いていたロイは、事務所のある建物を三ブロックも行き過ぎてしまったことに気づき、舌打ちした。
「やれやれ、まったく今朝はろくなことがないな。なんだって、こんなことばかりやっているんだ? しっかりしろよ」
 感傷にふけりながら歩いているからだ。気持が緩んでいる証拠だぞ。そう自分を叱責し、事務所のドアを開くと、いつもドア近くに座っている若いタイピスト、マーシーが顔を上げた。
「おはようございます。ロイ、ずいぶん遅かったのね。ボスがお冠よ」
 にっこり笑いかけると奥のドアを目で示す。ロイは顔をしかめて頷いた。
「……だろうな。マーシー、悪いけどあとで今日の僕の予定、確認しておいてくれるかい?」
 答えながら、ドアを開く。途端にウェスコット弁護士のよく通る声が飛んで来た。

「おーや、ようやくお出ましか。雇い主より遅いとは全くもってけしからん奴だ。今日の遅刻は覚えておけよ、給料からしっかり引いてやるからな。しかも麗しきご婦人の依頼人だというのに、もう既に二十分以上お待たせしておるじゃないかね」

 ちょっと頭を下げただけで雇い主の皮肉は聞き流しながら、奥のデスクに向って歩いていたロイは、最後の言葉を聞いてぴたりと立ち止まった。振り返ると、旧式のストーブの傍に置かれた来客用肘掛け椅子に、ウェスコット氏と向かい合わせに座った婦人の、長いスカートの裾と、頭に被った濃い緑のつば付き帽子が見えた。
 別に慌てるわけでもなく、いつものように帽子とコートを脱いで壁の帽子かけにかけると、座っている婦人の傍らにきた。心持ち身を屈めながら、とっておきの笑顔と声で、丁寧に挨拶の言葉をかける。

「レディ、これは朝からお待たせしまして、大変失礼いたしました。わたしはこの事務所所属の弁護士、ロイド・クラインと申します。どうぞ、お見知り……」
 彼が名乗った瞬間、俯きかげんだった女性の顔がさっと上がった。止め飾りのついた帽子の下から、見覚えのある――どころか、彼がまさに今しがた、意識の中から追い払おうと躍起になっていた、大きな黒い瞳が、彼をまっすぐに見上げている。
 ロイは青い目を見開いた。気取った挨拶文句など、跡形もなく消え失せてしまった。呆然と口を半開きにしたまま、しばらくの間、言葉もなく彼女を見つめていた。
 やがて、ごくりと唾を飲み込み、喉から声を絞り出す。

「まさか……。パトリシアかい? 驚いたな。君が、こんなところで何をしているんだ?」
 彼の運の悪い朝は、どうやら決定的になったようだった。

 パトリシアの目にも、強い驚きの色が浮かんでいた。
 それでも彼女はあくまで優雅に立ち上がり、呆然と突っ立っているロイに向き直った。何か心配事でもあるような思いつめた表情がほころび、口元に嬉しそうな笑みが浮かぶ。
「まぁ、本当にサマセットのロイド・クラインなのね? 驚いたわ。まさかこんなところで会えるなんて。それに今では弁護士なの? あのロイがなんて立派になったのかしら!」

 彼女の頬に赤みが差し、かつて一緒に丘の道を走ったパットを彷彿とさせる、生き生きとした活気を帯びた。差し出された右手をロイはまだ信じられないというように見つめていた。
 長い間、この手を忘れようと思ってきた。もうこの黒い瞳を見ることもないだろうと……。

 だが、どういう運命の悪戯か、パトリシアは昔のまま、いや、あの頃以上に豊かな魅力を備えて、今目の前に立っていた。かつては肩に流していた黒髪も、きっちり編み込んで形のよい頭の後ろにまとめている。

 握手か? いいとも、上等だ。

 皮肉な思いで、彼は差し出された手をそっと握り返した。手のひらは記憶にあったとおり華奢でほっそりしていたが、少し冷たくて、強く握ると壊れてしまいそうだ。いそいで手を離し、急に狂ったように打ちはじめた鼓動を悟られまいと、かすれ声で問いかけた。
「驚いたのはこっちだよ。何年ぶりかな。君こそ元気にしてたかい? いつこっちに出てきたの? それとももうずっと、トロントに住んでいるのかい?」

 そのとき背後で、ウェスコット氏が大きく咳払いをした。
「いやはや、因縁とは実に奇なるものですな。ミス・ニコルズ、うちのロイド・クラインとお知り合いだったようで」
 好奇心満々で問いかける上司に、ロイはちらりと苛立たしそうな視線を向けたが、パトリシアは微笑んで快活に答える。
「ええ、この人とは故郷が一緒なんです。プリンス・エドワード・アイランドの小さな村で、子供の頃よく一緒に遊んだものですわ。トロントにいるという噂は聞いていましたけれど、まさかこちらだったなんて」
「プリンス・エドワード・アイランド! あそこは良い所ですぞ。いまだに古き良き時代の面影がそのまま残っているような土地だ。 こういう都会に来ると、田舎の空気が恋しくなるときがありますからな。だがロイド、君もあそこの出身だったのかね? わしはてっきりノヴァスコシアだとばかり思っていたよ」

 上の空で返事をしながら、ロイの視線は相変らずパトリシアに釘付けになっていた。ほっそりした身体の曲線を包む白いブラウスと上品な深緑のテーラーカラーのビロードの上着、そしてくるぶしまでの長い黒のスカート。今の彼女はどこから見ても、立派な上流家庭のレディだ。
 急に、胸に奇妙な痛みが走った。

 ロイの複雑な胸中とは裏腹に、パトリシアは昔を懐かしむように視線を虚空にさまよわせていたが、再び笑顔で彼を見た。
 目が合った途端、視線を逸らせてぶっきらぼうに訊ねる。
「で……、君のような人が今日はいったい何の用があってここに?」


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16/12/16