Chapter 1

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「ええ、もちろんよ。ありがとう、ロイ。よかった、やっぱりあなたはサマセットのロイド・クラインのままね。あなたがひどく変わってしまったのかと、心配していたのよ」

 ほっと安堵したような心からの笑顔を向けられたとき、ロイの中に今朝方から、……いや、彼女から離れて十年このかた、ずっと鬱積していたものが、ついに堰を切って溢れ出してくるのを感じた。
 彼の中で衝動と理性が激しくせめぎ合う。
 だめだ。やめろ、よすんだ!
 理性が頭の片隅に追いやられながら、そうわめいていたが、もう遅すぎた。彼の表情の変化に、パトリシアの顔から笑みが消え、訝しげな表情が浮かぶ。
 次の瞬間、ロイはパトリシアを椅子から引っ張り上げるように立ち上がらせた。右手が彼女の頭を後ろから押さえ、もう片方の手が顎を荒々しく持ち上げる。勢いで彼女の帽子が下に落ちてしまった。あっと思う間もなく、ロイの唇がパトリシアの口に覆い被さった。

 何が起こっているのか、パトリシアは咄嗟に飲み込めなかった。だが熱い唇が自らの柔らかな唇をそっと開かせ、舌が割り入ってくるのを感じると、怯んだように身を強張らせる。それに気付いても、もう止められない。ロイは飢えたように、彼女の口中を弄り始めた。

 ロイはいったい何をしているの? そしてわたしは何をしているの?
 やめさせなくちゃ。彼にこんなこと、絶対に許すわけにはいかないのに。
 ああ、だけど……。

 彼女があげたかぼそい声も、彼の口に吸い取られてしまう。しっかりと重ねられた唇の下で否応なく絡めとられ、今まで感じたこともない強い感覚の波に襲われて、パトリシアは思わず目をぎゅっと閉じてしまった。背筋にぞくぞくするような戦慄が走る。
 彼の執拗な求めに応じるように、ついに抵抗も忘れ、身体を反らせてキスを受け入れ始めたとき、彼の両手がゆっくりと動きはじめた。彼女の身体の線を検分しながら、背中から腰へと滑り下り、とうとうきつく抱き締められてしまう。
 その状態に耐え切れなくなって、パトリシアはロイの肩をこぶしで力いっぱい叩きはじめた。ロイがはっと我に返ったように、ようやく顔を上げる。

 二人は荒い息をつきながら、しばらく無言で見つめ合っていた。霞のかかったようなパトリシアの視界が次第にはっきりとしてくる。ロイの眼は彼女を貫き通しそうなほど鋭く、まるで煮えたぎるようだった。
 抱きすくめていた腕が緩んだ拍子に、彼女はいそいで身体を振りほどくと、彼の頬を打とうと手を振り上げた。

 だがその手は虚しく空を切った。再び難なくその手を掴まえたロイに、彼女は弱々しい抗議の声をあげた。

「放してちょうだい……。こんなことをするなんてひどすぎるわ。わたし、婚約しているのよ」


 その瞬間、パトリシアの手を掴むロイの手に、痛いほど力がこもった。
 彼の目の中に抑え切れない激情が荒れ狂っているのが見える。パトリシアは必死になって、もう一度同じ文句を繰り返した。

「わたしは、婚約しているの」

 この言葉は彼女にとって、突然心に切り込んできたロイの攻撃の刃を押し返すための、精いっぱいの盾だった。案の定、ロイは火傷でもしたかのようにさっと手を引っ込めた。
 彼の顔が青ざめ、引きつったような気がした。

 もう一度焼けつくような眼を彼女に向けて、彼は自分のデスクへと歩み去ってしまった。背を向けていても、乱暴に引き出しを開け閉めしながら、何やら悪態をつく声が聞こえてくる。

 パトリシアはまだ足が震えて、立っていられるのが不思議なくらいだった。恐る恐る指先で唇に触れてみる。今の乱暴なキスで少し腫れてしまっているのは、鏡を見なくても分かった。髪もきっとひどい有り様になっているだろう。さっき掴まれた腕が、ひりひりと痛んだ。あざになっていたらどうしよう。
 まともに考えることもできないまま、しばらくぼんやりとその場に立ち尽くしていた。そんな彼女の耳に、背後から意外な言葉が聞こえてきた。

「ミス・ニコルズ、お帰りなら、さっきのドアからどうぞ。そしてもう二度と、ここにはお出でにならないことですね」

 その声からは旧知の親しみは跡形もなく消え、丁重だがまったく感情のこもらない、そっけないものに変わっていた。
 さっと振り向いてロイを見返す。いや、睨み付けたと言った方が正しいだろう。ロイはパトリシアの顔――興奮にばら色に染まった頬と、少し腫れて開きかけた赤い唇、怒りにきらきら輝く瞳――を見るなり、また口を閉ざしてしまった。

 まったく何てことだ! 前後の見境もなくいきなり襲いかかるような――実際、今のはそうとしか言いようがない――真似をするなんて。
 思わず髪をかきむしりたくなった。今となっては取り返しもつかないし、言い訳の言葉もない。しかも彼女は、さっきよりもっときれいで……まるで開きかけた花のように生き生きと息づいていて……。
 そんなことを考えている自分を、もう一度心の中で罵る。今すぐ彼女に謝り、乱れた髪を撫で付けて、きれいに整えてやりたかった。そしてもう一度ありったけの思いを込めて、優しくキスしてやれたら……。

 だがそのどれも、できるはずがなかった。代わりに彼は、ゆっくりと腰を屈めて、床に落ちた帽子を拾い上げ、彼女に差し出した。それを受け取りながら、パトリシアは感情を抑えた声で言った。

「なぜ……? わたし、帰るって言ったかしら」

 また沈黙があった。ややあって、ロイはもう一度意外そうに問いかけた。

「じゃあ……、どうするつもりかな? 依頼は取り消さないのかい? 僕は、もちろんどちらでも構わないが。もしまだ……僕に依頼する意志があるのなら……、申し訳ないが、今日は時間があまりないんでね。すぐお宅へ伺わなければならないよ。午後は別の依頼人が来るので」

 彼の口調はひどく冷淡でよそよそしかった。それで傷ついたし、だんだんと腹が立ってきた。ロイはまるで、たった今、何もなかったかのように振る舞っている。全くどうということもなかったように!

 時間がなくなったのは、いったい誰のせいなの?

 そう痛烈な一言を投げつけてやりたかったが、レディとしての体面上、さっきの野蛮な行為など忘れた方がいいとわかっていた。とは言え確かに、彼が言う通り、今すぐきびすを返してここから立ち去ってしまうべきだろう。

 だが、なぜかそうしたいと思えない。

 パトリシアは強いて無表情に肯いた。しっかりしなければと自分に言い聞かせる。たった今、彼との間に起こったことがどうであれ、何より父を捜すことが急務だったし、誰かに手伝ってもらわなければならないのなら、ロイに頼みたいという気持に変わりはなかった。

「わかったわ。行きましょう」

 帽子を頭にどうにか止め直し、襟と手首に毛皮のついたウールのコートを身を守るように再びしっかり着込んだ。心の中はまだパニック状態だったが、それを無表情という仮面の下に包み隠す術だけは、ロイ同様しっかりと身についている。
 二人は無言のまま、ウェスコット弁護士事務所から外へ出た。


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16/12/23