Chapter 10

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「ロイ……?」

 目の前に彼の日焼けした裸の上半身があった。一層戸惑ってロイの顔を見上げると、ブルーの瞳が少し照れくさそうな、それでいて真剣な色をたたえてじっと見下ろしている。

「酷いな……」
 やがて、彼は唸るように言った。
「人がやっとの思いで口にしたプロポーズなのに、聞こえなかった振りをするつもりかい?」
「だって……、自分の耳が信じられなかったんですもの」
 間近にある彼の身体を意識しすぎて、ささやくような声しか出せない。
「それじゃ、もう一度言わないといけないのかな?」
「……本気なの? まじめに言ってくれたの?」
「これ以上本気にはなれないってくらい本気で、しかも大まじめさ」

 途端にパトリシアの中で強い歓喜が花火のように音を立てて上がった。気がつくと、くすくすと泣き笑いを漏らしながらロイの肩に両手を伸ばし、包帯を巻いた首筋に顔を寄せていた。包帯と彼の精悍な顔に残る殴られた傷の一つにそっと口づけし、再び彼の顔をまっすぐ見つめて、今度はきっぱりと答える。

「するわ」
「えっ?」
「答えはイエスよ。もちろんだわ、ロイ」
「ちょ、ちょっと待った! もっと、じっくりと考えなくていいのかい、パトリシアお嬢さん?」
 こみ上げる嬉しさを無理やり押し戻すように、ロイは眉間に皺を寄せると、わざと皮肉な表情を作って彼女を見やる。
「自分がどんな男と結婚するって言っているのか、もっと時間をかけてよくよく考えてから、承諾したほうがいいんじゃないのか?」
 今度は彼女が食ってかかる番だった。
「あら、おかしなことを言うのね、ロイド・クライン。たった今、結婚を申し込んでおいて、それはどういう意味? あなたに決まってるじゃないの」
「そう、僕さ。名も無い貧乏農家の出身で、トロントのウェスコット法律事務所に勤める駆け出し弁護士。住まいは築四十年は経ったと思われるウエストバレー地区のコンウェイ邸、しかも二間しかない下宿部屋。貯蓄もさほど多くない上、田舎には年老いた母を残してる。ぜいたくなんかさせてやれないし、君が苦労するのは目に見えてるんだからな」
「あなたったら……」
 目頭にまた涙がこみ上げてきた。さっきから泣いてばかり。いつからこんなに泣き虫になってしまったのだろう。すすり上げながら、わざと怒った振りをする。
「馬鹿ね、今までそんなことを気にしてたの?」
「愛する女性に結婚を申し込むにあたっては、かなり重要な条件じゃないか。違うかい?」
 口元にどうにか微笑を浮かべていても、彼の声もかすれ、少し震えていた。情熱に翳ったブルーの瞳が、紛れもない激しい喜びに輝き始めている。
「いいえ、違うわ。一番大切なのは、結婚する相手本人よ。それはこの数日でわたしが身にしみて学んだことだわ。そんなのはもちろん平気。あなたがいてくれたら、わたしはそれだけでいいの」
「……本当に?」
「いい加減にしてちょうだい! あなたを愛してるって何度も言ってるじゃない。いったいどうしたら信じてくれ……」

 最後まで言うことはできなかった。ぽろぽろと涙をこぼしながら、怒ったように懸命に訴えるパトリシアを見ていたロイが、たまらないというように彼女の顔を、自分の方にぐいと引き寄せたからだ。次の瞬間、もう一度激しく二人の唇が重なっていた。
 今度のキスは今までのどのキスとも違っていた。ためらいも迷いも、もうどこにも感じられない。彼は今、心の底からわたしを求めている!

 夢中で舌を絡ませ合い、さっき以上に激しくなっていくキスにのめりこんでいった。背中に彼の両腕が回り、力いっぱい抱きしめられたとき、彼女の方も夢中で身体を押し付けていった。心臓が破れてしまうのではないかと思うほど高鳴っている。
 彼の身体も高まりに震え、心臓が自分と同じくらい激しい音を立てているのが感じられた。

 ロイがようやく顔を離したとき、パトリシアはもう、興奮のるつぼに呑み込まれる直前だった。
 だが、それでもまだロイの身体を気遣う思いが、意識の片隅で押し寄せる波を僅かに堰止めていた。優しく、けれど強い意志を感じさせる彼の手が、前に回って彼女のブラウスのボタンをはずし始めたとき、パトリシアは躊躇して、弱々しく手で彼を止めようとした。

「こんなことをしちゃ……、あなたの身体に触るわ、ロイ」
 だが、ロイは彼女の手を退けた。
「やめろと言っても、もう止まらないよ。今度はもう……だめだ。君は僕のものだ、パトリシア。たった今、君自身がそう言ってくれた」

 パトリシアの黒い目をじっと見つめ、彼女と、そして自分自身にさえも言い聞かせるように断固とした口調でこう告げると、彼女の頬に残るあざにそっとキスした。彼女はあきらめたように抗うのをやめた。
 それでも、彼の手が実際に衣服を取り除けはじめると、思わず目を閉じてしまう。ランプの光の中で、露にされていく裸身を両手で隠さずにいることも、かなり強い意志と努力が必要だった。
 とうとう彼女の身を覆っていた全ての布が取り去られ、ベッドの上に横たえられたとき、むき出しの背中に、洗いざらしのシーツの感触を感じた。もともと何も身に付けていなかったロイは、ただもどかしげに自身を覆っていたシーツを跳ね除けると、彼女に覆いかぶさるように身体を重ねてきた。
 生まれて初めて、全身で愛する男の緊張した肉体の重みと高まりを受け止めながら、否応なく身体が熱くほてり、融け出してくるような気がする。

「パトリシア、目を開いて」

 耳元でこう促され、おそるおそる堅く閉ざしていた瞳を開くと、ロイがたぎるような眼差しで、彼女の顔を覗き込んでいた。それは、今まさに自分に課していた戒めの鎖を解き放とうとする男の目そのものだった。
 脈が一気に跳ね上がる。思わず、頭をそらしたとき、彼の唇が露になった白い喉元に押し当てられた。
 そこからきめ細かな彼女の白い肌を賞賛しつつ、ゆっくりと時間をかけて味わい尽くすように、手と唇で彼女の全身をくまなく辿っていく。彼の指先と舌と歯が身体の敏感な箇所を探り当てるたびに、彼女ははっとして、こらえきれず小さな声を上げた。
 彼の動きは繊細で、それでいて、限りなく力強かった。優しく激しく彼女の上に自身の所有の徴を刻み込んでいく。
「ロイ、ロイ!」
 やがて彼女の唇が完全に降伏したというように、彼の名を繰り返し叫んだ。身体の内側で歓喜がさざなみのように沸き立ち、見る間に、大波となって容赦なく襲いかかってくる。何度も何度もその波に洗われているうちに、意識さえも時空の彼方にさらわれてしまいそうになる。

 もう耐えられない、と思ったとき、彼がゆっくりと身を沈めてきた。すぐに未知の痛みに貫かれるのを感じ、彼女はあえいで身体をこわばらせた。ひるんだように、大きく目を見開いて見上げると、彼女の表情に全神経を注ぐように一心に見つめているロイと目が合った。
 その瞬間、彼は唇を一文字に引き結び、すまないというように目を細めた。動きを止め、労わるようになだめるように、もう一度唇が重ねられる。
 それでも、彼はやめなかった。ゆっくりと細心の注意を払いながら、ついに自身の全てを収めきったとき、ロイは肩で大きく息をつきながら、汗ばんだ彼女の白い身体に覆いかぶさってきた。完全に一つになった二人は、これ以上できないというほど、お互いをきつく抱き締め合った。

 やがて、彼がリズムを刻んで動きはじめる。肉体の奏でる未知のハーモニーの中、とうとう目もくらむような頂きが近づいてきた。
 二人はともに螺旋を描きながら頂点まで登りつめ、そこから彼方の虚空へと、ゆるやかに弧を描くように落ちていった……。


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17/04/29