Chapter 12

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「何とおっしゃったんですか? 失礼ですが、聞き違えたようです」
「わしらの下で仕事をせんかね、と言ったんだよ、クライン君」

 今度こそ唖然として黙り込んだロイを見ながら、葉巻を手にホイットリーはそう繰り返した。
 ついに我慢も限界に達し、ロイは相手を激しく睨みつけた。目に強い憤りが燃える。

「お断りします。もうたくさんだ! 僕には最初から何の関係もない話です。ラトランドも鉄道債も、あなた達も! 一切関係ありませんし、今後とも関わりたくありません!」
「それなら、最初からそうすべきだったな。残念だがクライン君、君が余計な手を出したばかりに関係ができてしまったようだ。この話を断るなら君はトロントにはいられなくなるぞ。だが、調べによれば君はなかなか優秀な弁護士のようだ。その才能をわしらのために使ってみんかね? 給料も今より余程いいはずだ。君にとっても悪い話ではあるまい?」
「それで? 不公平なあくどい条件を提示して、さらに権力ずくで相手を囲い込んで追い込む片棒を担げとおっしゃるわけですか? これがあんた達の汚いやり口ってわけだ。こうやって、ミスター・ニコルズも抱き込んだんですね? もしわたしが断ったらどうします? わたしもどこかに人知れず連れていかれるんですか?」
「何、君にはそんな面倒な真似はせんよ。もっと手っ取り早く追い出すだけだ。おお、そうそう。君を庇いだてするなら、あの何とかいう頑固親父も一緒にな。今はどうやら部外者と看做しているがね」

 ウェスコットにまで類が及ぶぞ、と暗に脅され、彼は押し黙った。しばらく考えを巡らせていたが、ようやくまた口を開く。
「パット、いえ、ミス・ニコルズのことは……」
「パトリシアかね? そうそう、あれの話もしておかねばならんな。姪は予定通りアーノルドと結婚させる。そのために今まで充分なレディ教育を受けさせてきたのだからな。これほどはねっ返りだとは思わなかったが、まぁそれも面白かろう。今はアーノルドも大分感情的になっとるようだが、それは若い者の常だ。君が姪と数日間行動を共にしていることは……、警察とうちの使用人連中しか知らん。姪の名誉の問題にこれ以上触れることはわしとしても避けたい。他言は一切無用だよ。もちろんわかっておるだろうがね」
 ロイは歯を食いしばった。まだ言うつもりか、このくそ親父め!
「彼女自身、アーノルド氏との結婚を拒否しています。それは難しいと思われますが」
「させるさ」
 ふん、とホイットリーは鼻を鳴らした。
「何、女など昔からぜいたくな暮らしに弱いものと相場は決まっておるよ。この屋敷の女主人の一人になるのは、あれにとって悪いことではあるまい?」
 もうたくさんだ! 一瞬目を閉じ、沸き立つ腹の内をどうにか静めようとしたが無駄だった。ロイは軽蔑し切ったように乱暴に椅子を蹴って立ち上がった。
「これ以上あなたとお話しすることはありません。お暇(いとま)します」
「どこへ行くつもりかね?」
 ホイットリーの眼が意地悪く光った。
「故郷に。プリンスエドワード島に帰ります。もう金輪際、二度とあなた方にお目にかかることはないでしょう」

 ロイはその意味が伝わるように力をこめて告げると、鞄を手に一度も振り向かず書斎から出て行った。ホイットリーも強いて止めなかった。


 伯父とロイが書斎の中に消えた後も、パトリシアは緊張したままただじっと廊下に立ち尽くしていた。やがて、扉が開きロイが出てきた。ドアを乱暴に叩きつけた後、少し離れたところに青ざめて立つパトリシアを見つける。
 ゆっくりと歩み寄ってくるロイの顔を見返すことができず、つい目を伏せてしまった。様々な思いが胸の中でせめぎあい、言葉にならない渦を巻いている……。

 ふと、パトリシアの頬に指先が羽のように触れた。零れた涙をぬぐってくれているのだと気が付き、ようやく目を開くと、見つめるロイの眼差しは凪いだ海のように優しく、哀しいほど澄んでいた。
「パット、お別れだ……」
 びくっと目を見開いた彼女に、ロイは少し躊躇するように切り出した。
「急な話だけど……、僕はプリンス・エドワード島に帰ることにしたんだ……。明日の夜汽車で行くよ。……パット、君には幸せになってほしい。どこにいても君の幸運を心から祈っているから……」
 ロイの青い目に、自分の顔が映っていた。まるで彼女のすべてを瞳に焼き付けようとするように、彼はその細い姿を捉えていた。最後に彼の唇が愛していると動いたような気がしたが、それは言葉にはならなかった。
 やがて思いを断ち切るように目を閉じると、まだ呆然としているパトリシアの傍らを通り過ぎ、屋敷の階段を静かに降りて行った。

 何て言ったの、今? 『お別れ』ですって……? プリンスエドワード島に帰る、ですって……?
 本当に? 本当に行ってしまうつもりなの? わたしを一人置いて?

 混乱した頭の中を、今のロイの言葉だけが鳴り響いていた。
 嫌よ! そんなの絶対に嫌!

 やがてパトリシアはうめき声を上げて、夢中でロイを追って駆けだした。
 もつれそうになる足を懸命に動かし、使用人達の目も構わず必死になって屋敷の重い玄関扉を開くと、ロイはもう石段の下まで降りて、通りすがりの馬車を停めようとしているところだった。

「ローイ!」
 夢中で絞り出すように叫んだ声が、どうやら届いたようだ。彼が驚いたように振り向いて、扉から続く石段を駆け降りてくる彼女を見つめている。
 パトリシアが彼に向かって闇雲に身を投げかけた次の瞬間、ロイの力強い腕が彼女をしっかりと抱きとめていた。絶対に離すまいとするように、パトリシアはロイの背に腕を回し、夢中でしがみついた。同じくらいの激しさで、ロイの腕が彼女を抱き締めた。
 どちらからともなく荒々しく唇が重なり、お互いの唇がお互いを焼き尽くすようにむさぼる。
「行かないで……」
 激しいキスの合間に、彼女の喉から声にならない声が漏れたとき、頭上からニコルズ氏の険しい声が飛んできた。
「パトリシア!」
 ロイがはっとしたように顔を上げる。

 パトリシアの目はまだ覚めない悪夢に大きく見開かれたままだった。彼が自分の前からいなくなるなんて、考えられない……。
 ロイは彼女を抱き締める腕にもう一度ぐっと力を込めたが、そのままゆっくりと腕を下ろし身体を離した。ブルーの瞳も愛情と苦悶に引き裂かれるように揺れ動いている。

「できることならパット、このまま君も連れて行ってしまいたいよ。だけど……、今の僕にはもう何も残っていないんだ。こうするしかないんだよ」
 目を上げて、石段をいそいで走り降りてきたニコルズの険しい視線を受け止めたとき、ロイはもういつもの落ち着きを取り戻していた。
「ミスター・ニコルズ、お願いします。どうぞパトリシア自身の幸せをまず第一に考えてあげてください。僕はサマセット村に帰ります。もう二度と、あなた方に関わることはないでしょう」
 それから、ただ呆然と見つめるばかりの彼女に僅かに微笑みかけた。
「さようなら、パトリシア」

 折りしも向こうからやって来た乗合馬車を停めると、彼は闇雲に扉を開き乗り込んだ。
 上着のポケットから探り出した硬貨を支払うと、乗り合わせた数人の客達を掻き分け車の隅にようやく腰を落ち着けた。目を閉じて窓の堅い木枠に額を押し当てる。
 体中がばらばらになりそうな苦痛に、ロイの精悍な顔がゆがんだ。大声でわめき出したいのを、歯を食いしばってじっとこらえていた。


*** ***


 あくる日の午後までに、ロイは少ない衣服や荷物を大きな木のトランクに詰め込めるだけ詰め込むと、残りは皆古道具屋に売り払った。突然のことに不満たらたらのコンウェイ老未亡人に何とか説明を済ませると、住み慣れた下宿を引き払った。
 夕闇迫る中、彼は夜行列車のプラットホームの雑踏に立っていた。見送りに来たウェスコット弁護士やマーシー・トレントンと、言葉少なに握手を交わす。
 マーシーはハンカチを手にずっとしゃくりあげるばかりだった。
 ウェスコットが慰める様にマーシーの肩を叩き、片目を閉じて冗談ぽく言った。
「これだけのことがあった後だ。しばらく故郷で骨休めするのもよかろうさ。だがな、お前の山のようなツケは忘れとらんからな。落ち着いたらいつでも戻って来い。またこき使ってやるぞ。おお、それから忘れずに手紙をよこせよ、いいな?」
「ありがとうございます。本当にお世話になりました」
 ロイは微笑んでうなずくと、旅行カバンを手に煙を上げ始めた汽車に乗り込んだ。

 動き出した車窓から見える二人の姿が、みるみるうちに遠ざかって行く。不意に視界が滲んでぼやけはじめた。
 ロイはいそいで薄汚れた汽車の天井を見上げると、幾度も瞬きを繰り返した。


〜 《ある夜明け前》 第一部 トロント編 完結 〜


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17/06/11
二度目のあとがきなど、ダイアリーにて