Chapter 13

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 澄んだ川のせせらぎが、小さな奔流となってクライン家の菜園に注いでいる。
 今年はとりわけよく実ったと、先頃、十年ぶりに畑に興味を示した息子と共に夏野菜を収穫して回りながら、クライン夫人は満足げに言っていた。

 今、太陽は中天高く、午後の日差しが緑の葉を生き生きと輝かせている。その菜園を一人で黙々と耕すロイの惜しげもなくさらした上半身にも、汗の粒が光っていた。
 やがて、彼は手にした鍬を一旦置くと口元を皮肉に歪め手の甲で額の汗をぬぐった。古びていた家屋の修繕が全て終わったあと、家の裏手に作られた畑をもっと広げようと彼はここ数日奮闘していた。
 母がこれまで一人で手塩に掛けて切り盛りしてきた菜園には、今日の食卓を飾る野菜が今も色艶よく実っているが、それほどの面積はない。これを広げて市場に出せる分も作れば少し収入の足しになるだろう。

 日がな一日、過ぎ行く夏を惜しむように労働し汗を流すことは、今の彼にとって最上の鎮痛剤になっていた。


『オーストリア、セルビアに宣戦を布告す』

 休憩がてら、先ほど母親が町の郵便局から取ってきてくれた新聞を広げるなり、ロイは一面トップの大見出しに目を見張った。
 トロントにいた頃よりたっぷり一日遅れの情報だが、僻地の島ではこれで精一杯だ。ディリー・ニュース紙は前代未聞の大嵐に見舞われ始めたヨーロッパ情勢を連日詳細に報じていた。
 さらに深刻なのは、その風雲がヨーロッパ諸国を覆い尽くすだけでは飽き足らず、大西洋を一足跳びに越えてここカナダ上空まで、見る見るうちに垂れ込めはじめたことだった。

『オーストリアの砲艦がセルビアの都市ベオグラードへの砲撃をついに開始した。オーストリア=ハンガリー帝国の背後には、ドイツ帝国の強大な軍事力が控えている。ドイツのモルトケ宰相の次の動きを、今全世界が固唾を呑んで見守っている。ベルギーのアルベール国王はドイツに重大な懸念を表明している。フランスも同様である。万が一フランスにドイツの砲弾が向くことあらば、イギリスも動かずにはいないであろう。それが意味するところは明白である』

 ああ、畜生!! まったく、なんてことになってきたんだ!
 ロイは読んでいた新聞をいまいましげに放り投げると、再び鍬を手に赤土畑に向かった。
 こんなことばかり考えながら日々を過ごすことになると、いったい誰が予測しただろうか。
 今は何も考えたくなかった。できれば何もかも忘れてしまいたいくらいだ。
 銃剣の音を高らかに響かせながら、確実に迫りつつある禍々しい戦争の予感も……

 そして『彼女』のことさえも……。

 ロイは力任せに手にした鍬を振り上げ、深く大地に突き立てた。

 忘れるだと? パトリシアのことを、か?

 それこそ不可能だった。それは今始まりつつある未曾有の大戦争を、世界が回避できそうにないのと同じくらい確かなことだ。
 初恋の淡い残像を追いかけていた十年の比ではない。今やパトリシアの全てが――その唇の甘さ、黒髪の匂い、白い肌の滑らかさと柔らかな乳房の味わい、そして自分を包み込むクリームのような感触までの一切が――あまりにも鮮烈に彼の全細胞に刻み込まれてしまっている。


 ふいに、脳裏を掠めたあの一夜の記憶に心臓をわし掴みにされ、ロイは思わず手を止めた。呼吸が荒くなり、歯を食いしばってきつく目を閉じる。
 高ぶった気持をどうにか静めようと、彼は大きく深呼吸した。
 途方に暮れ振り仰いだ目に、トロントよりも遥かに青く澄んだ空が映った。


 行かないで……。

 最後に自分を呼んだ彼女の声が、今も耳に残って離れない。
 うつろに見開いた大きな黒い瞳。信じられないと言わんばかりに必死で追いかけてきたパトリシア……。
 すがりつく手を、いともあっさり振り解いてしまったのは、他ならぬ自分のこの手なのだ。
 だが……。

 どうすればよかった? あのとき……。
 いっそ、さらってくればよかったのか?
 いや、それこそ不可能だ。今のこの有様を見ろ。
 こんな暮らしが、彼女にふさわしいはずはない……。

 答えも出ないまま、せめぎあう後悔と虚しさにもまれ次第に疲れ果ててくる。いいかげんにしろと自分を叱責しながら、彼は頭を振ってため息をついた。もはや取り返しのつかない過去と、日毎に希望が失われていくような不透明な未来との狭間に立って、この数週間いたずらに精神を消耗させるばかりだった。
 もうなるようになってしまえ……。そんな倦怠感に取り憑かれそうになるほどだ。


「ローイ! 差し入れを持って来たわよ。今日はチキンとすもものタルトなの」
 そのとき、小橋の方から聞きなれた女の声がして、彼は物思いから引き戻された。
 半ばほっとして声のした方を振り返る。こざっぱりしたモスリンのドレスを着て、いつものようにバスケットを下げて丸木橋を渡ってくるのは、古い学校友達のデイジー・ミラーだった。
 ロイが帰ってきてから、ほとんど毎日のようにここに顔を出している。彼女のたわいもない村の噂話を聞いているのは、退屈だったが気は紛れた。
「やあ、デイジー。もうそんな時間かい?」
 そう言いながら、彼は小川の水でばしゃばしゃ派手に顔と手を洗うと、木の枝に掛けておいたシャツを掴み、頬を染めて横を向いたデイジーの前で、別に慌てるふうもなくそれを羽織った。

「小母さんに聞いたら、菜園にいるって教えてくださったの……。少し休憩しない? 毎日随分頑張るのね」
 結い上げた金髪に日避けの麦わら帽を載せ、バスケットを手に軽やかに笑いかけている。そんなデイジーをロイは少しの間黙って眺めていたが、ゆっくりとメイプルの木陰に広げた敷物のところに戻ってきた。
「母さんは? お茶なら一緒に来ればよかったのに……」
「も、もちろんお誘いしたの。でも片付けたい用事があるから二人で先にって……、その……おっしゃって……」
「ふうん?」
「さ、お好きなだけ召し上がれ。今日も張り切って作ったのよ」
 顔がほてるのを隠すように彼女はいそいでバスケットを開くと、お茶が入った水筒とこんがりローストしたチキンの足、そして焼きたてのタルトを取り出した。
 ロイが健康な食欲を見せて鶏にかぶりついている間に、お茶を真鍮のコップに注いで差し出す。まるでちょっとしたピクニックのようだとニッコリする。
 いつものように、ひとしきり村の出来事などをしゃべっていたが、ことさら返事もないことに気付き、ロイに注意を向け直した。
 退屈だったかしら……。

 ロイは確かにこちらを見ていた。だが、その凪いだ湖を思わせるブルーの瞳はどこか遠くに向けられているようで、ここにはいない誰かを見ているような、そんな錯覚に陥るほどだ。あるいは何か深い物思いにでも耽っているのだろうか?
「退屈なんでしょ、わたしったら、弁護士さんにこんな馬鹿みたいな話ばっかりして……」
 反応を促すように語調を変えると、彼がはっと我に返ったように瞬きした。
「いや……、ぼんやりしてこっちこそ悪かった」
 大層すまなさそうに、ロイは大地に視線を落とした。
「だけど聞いてはいたよ。ここでじっとしていても、村の様子が手に取るようにわかる。君の人物描写力は大したものだな」

 ちらっと微笑んでこう答えたロイを、デイジーはさらに熱をこめて見返した。


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17/07/11