Chapter 14
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その時二人の背後で、金属と陶磁器を床に巻き散らしたらしき派手な音が響き渡った。
はっとして立ち上がったロイが、キッチンへ続く居間の入り口に駆け寄ると、そこには母親が真っ青な顔でぶるぶる震えながら立っていた。
今朝磨いたばかりの床の上に、盆や割れたティポット、カップ、皿、それにパイと紅茶とミルクが散乱し惨憺たる有様だった。
だがそんなことはどうでもいいとばかりに、彼女は両手で息子の二の腕に掴みかかると、自分よりはるかに背が高く頑丈な息子を揺さぶるように、ヒステリックな声を張り上げた。
「ほ、本気で言ってるの? お前まであたしを置いて、たった一人置いて、フランスくんだりまで行ってしまうつもりかい? お前まで! 何てことだろう、やっとあたしの所に帰ってきたばかりだというのに……。ええ、ええ、お前がいつそれを言い出すかと気が気じゃなかったよ……」
「落ち着いてくれよ、母さん……。相談もせずいきなり驚かせてすまなかった。いつ切り出したらいいか、ずっと迷ってたんだ。それに何も明日すぐって訳じゃなし……、そんなに興奮すると身体によくない……」
母の肩を押さえ、何とか落ち着かせようと懸命になるロイに、さらに興奮した彼女が激しく言い募った。
「許しませんよ、母さんは許しません! トロントとは違うんだよ。戦地がどんな有様なのか、お前まだ聞いていないのかい? 毎日毎日泥まみれ、ほこりまみれでしらみの湧くような塹壕に這いつくばって、風呂にだって入れやしない。それに危険なことったら! 頭上に砲弾が飛び交ってる中で、みんな命からがら生きてる有様なんだよ。おおいやだ! いったい何のための戦争なの? あたしらには関係なんかありゃしないよ。ドイツは銃砲一発で何十人も殺しちまうそうじゃないか。ホリーの息子が、来たことを激しく後悔してるって手紙を寄越したことも、お前は知らないだろう?」
「まあまあ、ネッタ、そう興奮してはいかん。まずは落ち着くんだ。お前さんの気持もわかるが、こればかりは……」
「あんたは黙っててちょうだい! この子はあたしに残されたたった一人の息子なんだ。あたしの目が黒いうちは、戦争になんか決してやるもんか! ええ、絶対に行かせやしませんとも……。あ、ああっ!」
「母さん!!」
激した口調でまくし立てていたクライン夫人が、突然一声叫んで胸元を押さえた。苦しそうに息をあえがせ、胸をかきむしりながらよろめいて、前のめりに倒れかける。ぎょっとして抱きとめた息子の腕の中で、彼女は気を失っていた。驚いて寝室に運び込みながら、ロイは後方でおろおろしているハリス氏に向かって声を荒げた。
「医者を! 長老、村のドクターをすぐに呼んできてください!」
*** ***
「ロイ、小母さんの具合はいかが? ミセス・ハリスから話を聞いたときは本当に驚いたわ。栄養になるものをと思って、鶏肉のたっぷり入ったおかゆを作ってきたのよ」
「ああ、デイジー……、いつもすまないな。助かるよ、本当に」
母の寝室のベッド脇について、寝込んでしまった青白い顔を見守っていたロイが、デイジーの声に、弱々しい笑みを浮かべて振り返った。
「眠っていらっしゃるのね。それじゃ目が覚めてから食べられるように、ここに置いておくわ」
「……ありがとう」
「どうして急にこんなことになったのかしら。先生は何とおっしゃって?」
「……心因性ショックによる心臓発作だそうだ。もともと心臓がかなり弱っていたらしい。しばらく薬を飲ませながら様子を見るように言われたよ。興奮させるような話は厳禁だ、とね。僕が悪かったんだ……。ずっと考えていた事とはいえ、お袋にすれば、何の前触れもなく聞かされたも同然だったんだから」
その口調には強い後悔が滲んでいた。見るからに気落ちしているロイを慰めようと、デイジーは彼の肩に手を置き、優しく言った。
「あなたが悪いわけじゃないでしょう? それにずっと考えていたことって?」
「いや、別に……何でもないんだ。とにかく……、お袋がいるときに軽率にするべき話じゃなかったよ」
ロイはふいに立ち上がると、デイジーから離れて部屋の隅にあるストーブに身をかがめた。
薪に火がつく音とともに、掻き起こされたオレンジ色の炎が、彼の端正な横顔に映る。
「寒くなってきたから、少し部屋を暖めないと……。君もまだ日があるうちにお帰り、デイジー」
ああ、また壁ができてしまった。この人は、どうしてもある線から先には、わたしを入れようとしない。まるでそうと決意でもしているみたいに……。
どうしてなの? 思わず問いかけたくなるのをぐっとこらえた。時間はまだいくらでもあるわ。
「じゃ、わたしはもう行くけど……、たっぷりあるからあなたも食べて元気出してね。また明日来るわ」
それ以上うるさく言うのはやめて優しく声をかけると、デイジーは静かに寝室を後にした。
途方に暮れた目をしたロイはいつもより少し頼りなく見え、少年時代のロイド・クラインを強く思い出させた。こんな時に不謹慎極まりないが、デイジーは密かに喜んでいた。これで更に足しげくこの家に来る口実ができる。
その夜更け……。
ロイはランプの灯りの下で、トロントへの手紙を書いていた。
書きながら、数年来の様々な思い出が胸をよぎり、ペンを持つ手がきしむ。
そして、幾度も数行書きかけては、握りつぶすことを繰り返しているもう一通の手紙……。
とうとうあきらめたようにペンを投げ出すと、彼は低い呻き声を上げてテーブルに突っ伏してしまった。
*** ***
「辞表……? どういうことでしょう?」
さっと顔を曇らせたパトリシアに、ウェスコット弁護士は手紙を取り上げ、読むように勧めた。受け取って開く彼女の手が激しく震える。
便箋の一枚には、ウェスコット弁護士への挨拶と世話になった感謝の気持、更に係争中の事件を中途にしてしまったことへの深い謝罪の言葉が丁重に、もう一枚には、母親の体調の急な悪化と、世の情勢の変化によりトロントにいつ戻れるかわからなくなったこと、などがロイらしい淡々とした筆致で記されていた。そして、最後はこう結ばれていた。
『……先生からお受けした数多くの教えと恩恵に対し、このような形でしかお返しできない不義理をどうぞお許し下さい。
いつの日か時代が平穏を取り戻し、もう一度お目にかかれることがあれば、そのときこそは……。
貴事務所のさらなる発展と、ウェスコット先生、御家族の皆様のご健康を、最果ての島よりいつも祈っております。
心からの感謝と敬愛をこめて…… ロイド・クライン 』
「なんてことかしら。ロイのお母様が、こんな……」
読み終えたパトリシアはすっかり青ざめていた。心臓がバクバクと打ち始める。
もうトロントには帰らない、という文面を幾度も読み返すうちに目まいがしてきた。
『いつの日か時代が平穏を取り戻したとき、もう一度お目にかかれることがあれば』……ですって?
この意味をどう受け取ればいいの? いいえ、知りたくない。思わず拒否するように目をぎゅっとつぶってしまった。
ウェスコットが何度目かのため息とともに呟く。
「まったくうまくいかんものだ……。しかも今の世の中は……」
「ロイは……やっぱり、フランス行きを考えているんでしょうか?」
ぱっと目を見開いた途端、彼女自身何より恐れていることが口から飛び出していた。つい口調まで激しくなる。
「いや……、確か奴は母一人子一人だ。お身内のご容態がよくないのであれば、当分はどこにも行けんでしょう。それにしても相変わらず……愛想のない奴だ!」
まったく、と呆れたように笑ったウェスコット弁護士も、落胆を隠せない面持ちだった。座りなさいとパトリシアに椅子を勧め、ポットに残っていたコーヒーを自ら注いで彼女の前に置いた。
沈黙が続く。パイプに火をつけ何事か思案するようにしばらく煙を吐いていたウェスコットが、だしぬけに声を上げた。
「おお、そうだ! 忘れておった。そういえばあなたも、同じプリンスエドワード島のご出身でしたな!」
ふいに思い出したように立ち上がると、驚いて頷くパトリシアに微笑みかけた。
「もし御家の事情が許せばだが……。どうだろう、あなたが島に行って奴から詳しい事情を聞いてきてくれると助かるのだが。あいつには色々と貸しもある。急に辞めると言われても困りますのでな。この辞職願は保留にしておくと、お伝えいただけると実にありがたい。いや、わしの使いと言うことで、経費は事務所から出しますのでな」
パトリシアの顔がぱっと輝いた。たちまち頬を幾筋もの涙が伝いはじめる。
「はい、行きます、わたし……。どんなことをしてでも。是非行かせてくだ……」
こらえきれず、両手で顔を覆って泣き出したパトリシアの背中を、節くれだった手が励ますように幾度も優しく叩いてくれた。
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17/08/05