必死に馬を急がせながら、呻くように何度も彼女の名を呼び続けていた。
だが、同時に彼の目の前に、パトリシアが見慣れない貧相な家に幻滅し、ため息をついている姿がちらついた。途端に、のぼせた頭に冷水をかけられたような気分になる。
なるほど、そうかもしれない……。馬鹿だな、俺も。すぐに現実を忘れて、願っても仕方のない夢にしがみついてしまうのだ。
失望した彼女に、哀れみや軽蔑の眼を向けられたら、俺はいったいどうなってしまうだろう……。
ああ、いっそ粉々になってしまえばいい!
そうすれば、引きずっている愚かな未練を、今度こそ断ち切れる……。
どう考えようと、彼女に一目でも会いたいという思いは微動だにしなかった。
暮れて来た一本道をひたすら走ると、行く手に集落と村の広場が見えてくる。
遠目にも、行き交う人々の狭間に、停まった馬車と村には見かけない男女二人の姿が見えた。
思わず目を見開いて確認する。あの男は……、まさか……。
二人は腕を組んで、今まさに仲睦まじく馬車に乗りこもうとしていた。
その瞬間、ロイは考えるより先に叫んでいた。彼女の名前を、腹の底から声の限りに……。
*** ***
びくっと足を止めたパトリシアの隣で、アーノルドもまた予期していたように、嫌な笑みを浮かべて立ち止まった。
彼女は振り返ったきり、凍り付いたようにその場を動かない。声の主を確認するまでもなく、アーノルドにもやってきた男が誰かわかっていた。
彼女の肩をわざとらしく抱くと、自分のものだと主張するようにさらに引き寄せながら、ゆっくりと二人で振り返る。
興味深々で眺めている衆目をものともせず、ロイは馬の歩調を緩め、パトリシアとアーノルドの傍に来た。
射るような視線をパトリシアに向けながら、鞍から飛び降りる。どれだけ急いできたのか、彼も呼吸が乱れていた。
ロイはひたすらパトリシアだけを見つめていた。
自分を認めるなり帽子の下で蒼白になった美しい顔、もの問いたげに震える唇……。
誰の目にも判るほど震えながら、支えられてそれでも毅然と立つ彼女の全てを、ロイの目は焼き尽くすように捉えていた。
その眼差しに魅入られたようにパトリシアもまた、ロイが目の前に来るまで、まるで時間が止まったように動けなかった。先ほど流した涙にも関わらず、今、皮肉な微笑を浮かべてゆっくりと近付いてくる彼が、身内から発散させている強烈な男らしさに圧倒されている。
別れた頃より日焼けして、さらにたくましさを増した体躯と精悍さを増した顔立ち、少し伸びた髪……、彼の全てに眼が釘付けになり、離すことができない。
沈黙を破ったのはアーノルドの声だった。
「これはこれは……、どこの農夫かと思ったら、君だったのか。おおっと、失敬、すぐにはわからなかったよ。なんと言うか、厩の匂いが漂ってくるようだね。おっと、それ以上近寄らないでくれたまえ、匂いが移ると困るんだ」
わざとらしくポケットからハンカチを取り出し、目の前で振っている馬鹿げた恋敵を完全に無視し、ロイは彼女に一歩近付いた。
「パット……、久し振り……。さっき家まで来てくれたそうだね……。一言礼を言いたかったんだ……わざわざトロントから……来てくれたのかい?」
ロイの声はこもったように低く響いた。聞くなり愛おしさがこみ上げ、また涙が溢れそうになる。パトリシアは必死に瞬きした。懐かしげに細められた青い目を見るのは強烈な誘惑だった。たちまち肩を抱く婚約者の手を振り払い、彼に駆け寄って身を投げ出してしまいたくなる。
だがそのとき……、ロイの家で見た情景がよみがえってきた。粉々に砕かれた彼女の愛は次の瞬間、憎しみに近い感情へと変化していった。
今更、何をしに来たというの?
怒りとともに強烈なプライドが頭をもたげ、思いがけない言葉となって口から飛び出した。
「いいえ、御礼には及ばないわ。別にあなたに会いに来たわけじゃないもの。この島に来たから……、ついでにあなたの家にも立ち寄っただけのことよ。ネッタ小母様がご病気だと聞いてお見舞いに……。ここに来たのは最後にどうしても見ておきたかったから……。この人と結婚する前に、懐かしいプリンスエドワード島をね」
その瞬間、ロイが打たれたように全身を激しく強張らせたのがわかった。パトリシアは密かに冷たい満足感さえ覚えた。肩を抱くアーノルドの手にも力が篭る。いつの間にか、すっかり遠くなってしまった愛しい男性を見つめるパトリシアの瞳に、虚しいあきらめがよぎった。
もういいわ……。どうせかなわなかったのよ。
苦しい思いも、これで終わりにできるかもしれない。そう、何もかもすべて……。
彼女はアーノルドから離れると、ロイの前に進み出た。彼は、突然いっさいの感情を失ったように立ち尽くしている。強張った微笑を浮かべてどうにか口を開いたとき、彼女の声は冷静で、むしろ穏やかに響いた。
「以前いろいろなことがあったけれど、わたし達、これですっかりもとの昔馴染みのお友達に戻れるわ。あなたにもいい人ができたようで、本当によかったと思っているの。あの人と、どうかお幸せにね。それじゃ、ロイ、わたし達はこれで失礼するわ」
泣き出さずによく言えた、と自分を褒めてやりたいくらいだった。パトリシアは最後の別れの握手の手を差し伸べた。だが、彼はその手を黙って見下ろしたまま身動きもしない。
あきらめて手を引こうとしたとき、ロイが突然彼女の手首を掴み、ぐいと引き寄せた。
あっと思った瞬間、パトリシアはバランスを崩し、彼の腕の中に抱き締められていた。骨が砕けそうなほど抱き締められ、唇に彼の唇が覆いかぶさってくる。
唇から強引に割り込んできた彼の舌の感触は、懐かしく鮮烈だった。その口づけは、やりきれない怒りと思いの激しさをまざまざと伝えてくるようだ。彼の固い胸板に押し潰されそうになりながら、気が付くと夢中でそのキスを受け入れていた。
そしてパトリシアもまた、飢えたように応じずにはいられなかった。互いの舌が熱く絡み合う。震える手が彼の首筋を這い上がり、指が彼の髪に愛おしげに絡まる……。
始めたときと同じくらい唐突に彼は顔を上げ、突き離すように手を放した。
勢いでよろめいた彼女は、二歩後ずさり、荒い息をつきながら立っているのがやっと、という有様だった。怒ったアーノルドが激しく殴りかかった腕も逆に掴まれ、突き飛ばされてしまった。尻餅をつきながら、怒り狂っている声が、背後からぼんやり聞こえる。
ロイはアーノルドにちらりと軽蔑しきった目を向け、嘲笑するように顔をゆがめた。再びパトリシアを見たとき、彼の声はかすれていた。
「これが僕らの別れのキスさ、パトリシアお嬢さん。この男と結婚して、君が本当に幸せになれるといいけどね。君の幸運を祈るよ」
そのまま彼はくるりときびすを返した。
あるいは呆気に取られ、あるいは息を呑んで、あるいは面白い見世物を眺めるように、三人を遠巻きに見ていた村人達には目もくれず、彼は再び馬に乗ると、もはや振り向きもせず、もと来た道を走り去って行く。
遠ざかっていくロイの背中を、パトリシアはぼんやりと霞む目で見送った。
もうこれで何度目かしら。
いつもいつも、わたしは去っていく彼の後姿を黙って見送るしかできないのね……。
*** ***
アーノルドと御者に促されるまま機械的に馬車に座り、気が付けばとっぷりと日の暮れた夜道を、シャーロットタウンへ向けて走っていた。
空に明るい月が出ていた。目の前でロイに対し言いたい放題の悪態をついているアーノルドに嫌気が差し、ちらりと軽蔑するように眺める。
「頭が痛いの。お願いだから、もう黙ってちょうだい」
彼はふん、と言いながらようやく静かになった。やがて、思い出したように彼女をしげしげと見ながら、問いかける。
「さっき、君はあいつに『僕と結婚する』と言ったね。やっと、その気になったってことかい?」
「……まさか。結婚なんてしないわ。もう誰ともよ」
パトリシアは頭をシートに持たせかけ、投げやりに呟いた。心身ともに完全に疲れ果てていた。閉じた目から熱い涙がまた頬を伝い始める。思わず顔を背け、窓の外の月明かりに目を凝らす振りをした。
ふいに、唸るような北風が馬車の窓を叩いた。
それは、いつもより長く厳しい冬の訪れを、確かに告げる音だった……。
〜 《ある夜明け前》 第二部 サマセット村編 完結 〜