Chapter 17

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一九一五年 五月


 一八六三年、ジュネーブで創設された赤十字国際委員会は、本国スイスをはじめ、イギリスからヨーロッパ諸国、アメリカ・カナダに至るまで、民間の戦時救護組織として幅広く活動している。
 とりわけ、この大戦では甚大な被害を蒙っている戦闘地域への支援活動と、今や軍内部の救護班だけでは到底追いつかない負傷兵達の医療と介護に、重大な役割を果たしていた。

 カナダ赤十字会もまた、遠くヨーロッパで戦う勇敢な兵士達のため、可能な限りの援助の手を差し伸べるべく、心ある婦人達を中心に運営されていた。
 トロント支部でも十数名の婦人達が集い、今日も西部戦線に送る支援物資の取りまとめ作業が行われている。

 凍てつく冬の間にも、戦闘は断続的に続いた。早期解決の期待も虚しく戦況はさらに悪化の一途を辿っていた。
 春先にかけての攻防戦では、イギリス・フランス連合軍は死傷者二十四万人を出しながら、結局戦線を突破できずにいた。イギリス本国ではアスキス現内閣の政権担当能力を疑問視する声さえ出始める始末だった。

 それは、防衛ラインの一翼を担うカナダ軍とて例外ではなかった。僅か五百ヤードの陣地を巡り、前進と後退を繰り返す中、砲弾の欠乏と兵士の士気不足が叫ばれる日々が続く。
 正規軍としての訓練を受けたとは言え、開戦前には小銃の扱いすら知らなかった者ばかりが、最強の戦闘プロフェッショナルを誇る大隊の前に立っているのだ。文字通り、にわか仕込みの寄せ集めアマチュア部隊が精一杯応戦していた。カナダ軍指令官に、果たして職業軍人がいるのかどうかさえ定かでなかった。
 前線での苦境や攻勢の失敗、そして戦死傷者名簿が報じられるたび、人々は顔を強張らせて黙り込み、あるいは大騒ぎで神に祈る。


「『本通信社が新たに入手した電文によれば……』」
 その場にいた女達誰もが固唾を呑んで、新聞を手にした支部の代表者、ミルドレッド・ローガン夫人の声に聞き入っていた。その新聞は、一週間ほど前に戦争史上初、ドイツ軍の毒ガス攻撃に真っ向から直面する羽目になったカナダ軍が蒙った被害について、詳細に報じていた。
「『カナダ第一師団が潜んでいた森に、その攻撃に先立ち猛烈な十字砲火が浴びせられた。続いてドイツ軍はシリンダーから塩素ガスを散布し始めた。今回の毒ガス攻撃のため、敵は一六〇万トン、約五七〇〇本以上のガスボンベを装備し森一帯に散布したとの未確認情報が伝えられている。そのとき、森周辺の空気が黄緑色がかった、との証言もあった。その後砲撃が再開されると、我が軍はやむなく後退した……』」
「空気の色が黄緑だろうがピンクだろうが、そんな場所に突っ立っていないで、さっさと撤退するべきです! 司令官は一体何をしていたのかしら。五七〇〇本のガスボンベですって!! なんて野蛮で恐ろしいこと!」
 怒ったように厳しい声を張り上げたのは年配のショー夫人だった。だが、たちまち周囲から「しっ」と注意され、レースのハンカチを口に押し当て黙り込む。
「まだ、続くのよ。『……我が軍もロス式小銃と手榴弾で反撃するも、二十四日、今度はカナダ師団全体に対し猛烈なガス攻撃が敢行された。最新式ガスマスクを装備した敵に対し、我らが勇敢なカナダの諸君を防御したものは、各自が手にした泥だらけの濡れタオルのみであったという……』」
 数人の悲鳴があがった。ふらりと倒れ掛かかって抱きとめられたのは、勇敢な甥を戦線に送っている中年の婦人だった。
「おお神様! どうしてこんな蛮行をお許しになるのでしょう?」
 周りに同意を求めるように派手に手を広げて訴えたのは、若いキャサリン・クレイだった。我が方にも至急ガスマスクが必要、との声に、皆が激しく頷いた。ローガン夫人が押し殺した声で周囲を制する。
「もう少し続きがあるわ。そこのあなた、倒れるのは最後まで聞いてからになさって。ここからが一番肝心なところよ。『……この四十八時間での死者は、全カナダ軍の三分の一にも及んだと伝えられる。しかし、ドイツ兵が時間をおいて攻撃に移ったとき、カナダ師団の砲兵隊は榴霰弾と機関銃で初めて敵に有効な損害を与え、援軍が到着するまでの時間を持ちこたえた。ヨーロッパの戦場における彼らの活躍に、各国の新聞はカナダ人は侮り難い戦闘部隊、との評判を書き立て、カナダの首相に祝電が送られた、とのことである……』」

 そう言われても、素直に喜べる者は一人もいなかった。一同の間からは、落胆とも悲嘆とも形容しがたい呻きとため息が聞こえてくる。十字を切る者、抱き合って涙ぐんでいる女達もいた。

 カナダ第一師団の名誉ある記録を生々しく伝えた記事にざわめく人々の後方で、パトリシアは数人の婦人達とともに作業テーブルについて、じっと耳を傾けていた。
 何も口には出さなかったが、戦地に送るチョコレートと煙草の箱を数える手が、しばらく完全に止まっていた。ようやく最後のくだりが終わると、かたく唇を引き結び、再び目の前の小箱を取り上げる。

 イープルでの戦闘は今も続いている。部隊が絶えず武器と弾薬を欲しているように、敵の攻撃に日々晒されて消耗している大勢の男達は、清潔な包帯や薬、毛布、それからこうした一時の気晴らしとなる嗜好品を切実に必要としているのだ。
 騒いでもどうにもならない。今最もなすべきことは、今日の作業を早く終わらせて物資を現地に送ってしまうことだ……。


*** ***


 凍りついたような長い冬の間、パトリシアはさらに熱心に赤十字会の活動に従事してきた。
 若くて活動的、かつトロント随一のホイットリー家をバックに持った彼女は、どの婦人会でも大げさ過ぎるほどの歓迎を受けた。その立場を利用し、とにかく積極的に動いた。
 母親を説き伏せ、戦地への支援資金調達のため、チャリティコンサートを開いてみたりもした。そして主催者の一人として、慣れた年配の婦人達から、運営の仕方はもとよりチケットの割り当て方法や帳簿のつけ方、収支決算の出し方までを学んでいった。
 とにかく何もかも忘れて打ち込める事が必要だった。時節柄、口うるさい伯母達でさえ、皮肉を言いはしても赤十字会の仕事に頭から反対はできなかった。


 アーノルドに伴われ、プリンスエドワード島への家出からトロントに戻ったパトリシアは、ことさら弁明もしなかった。ただ両親に向かい「心配をかけてごめんなさい」と俯きがちに詫びただけだった。
 その後、目に見えて口数が減り、食欲も落ちてやつれていく娘を、父ニコルズは心配そうに眺めていた。そのおかげで、今は憑かれたように夜遅くまで帳簿を開いていても、眉を潜められる程度で、何も言われずに済んでいるようだ。

 アーノルドからは、この数か月のうちに、結婚式の具体的な話を幾度か持ちかけられていた。
 いつも「論外よ」と即座にはねつけ取り合わずにきたが、次第にいつまで拒否し続けられるか自信が持てなくなっていた。
 彼女自身、深い絶望感から「もうどうにでもなればいい」という投げやりな思いになりつつあったからだ。もしアーノルドやトーマス伯父が強引に二人の結婚式を進めようとすれば、今度こそ逆らい切れなかったかもしれない。

 だが、時は彼女に味方した。
 パトリシアに対し、不満を隠そうともしないアーノルドも、今年に入りさらに苦戦の連続、という戦争報告が増えるにつれ、むっつりと黙ってしまった。
 今は彼が望む贅を尽くした結婚式も、華やかな披露パーティも、時勢上好ましくないと判断せざるを得なかったからだ。三月を迎える頃には、式の話は再び水面下に鳴りを潜めていった。

 そして……、もっとも気がかりなロイの消息もまったく聞こえないまま、季節だけが巡り、いつしかカナダ全土が再び遅い春を迎えていた。


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17/09/21
どうもです〜、いよいよ第三部です。再開が遅くなりました。
ただ現状、執筆モチベーションがあまり高くないため、
のろのろ運転になるかもしれませんが、
十数年越しの完結目指し、頑張りたいと思います。
ラストまでお付き合いのほど、よろしくお願いいたしますね〜。