Chapter 17

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「パトリシア、ミスター・ウェスコットがおいでになったわ。あなたに何か御用だそうよ」

 ローガン夫人の声にはっとして顔を挙げると、ウェスコット弁護士が帽子を手に、女ばかりの作業室に入ってくるところだった。
 片手でゆっくりと、最近さらに薄くなってきた頭髪を撫でている。会うのは三か月ぶりくらいだった。
 パトリシアは少し決まり悪さを覚えた。あれほどしげく通っていたウェスコット事務所にも、あれ以来ばったりと足を運ばなくなっていたからだ。

 島での出来事を包み隠さず報告した後、驚きの目を見張っている弁護士に手厚く礼を述べて事務所を出た。その後、顔を出す回数が目に見えて減り、ごくたまに訪問しても自分からロイのことには触れようとしなかった。そのくせ、弁護士が何気なく話題に乗せると、全身で飢えたように聞き耳を立ててしまう。
 そんな自分に嫌気が差して、今年に入ってからは多忙を理由にまったく行かなくなっていた。ウェスコット自身が赤十字会の会員で、会に定期的に寄付をしていなければ、二度と顔を合わせる機会もなかったかもしれない。


「ウェスコット先生、お久し振りです。ようこそおいでくださいましたわ」
 パトリシアは作業机から立ち上がり、目の前に来た弁護士に心から握手の手を差し伸べた。
 たとえ、自分とロイの関係がどうなろうと、この気さくな老紳士のことはやはりとても好きだった。
 久しぶりに会う弁護士は、穏やかな中にもいつになく深刻な表情が見え隠れしていた。気のせいか、皺と白髪が前より増えたようだ。

「何、お構いなく。用件はすぐに済みますのでな」
 そう周りに手を振ってから、彼は静かにパトリシアに声をかけた。
「ミス・ニコルズ。今日こちらにいらっしゃってよかった。実はあなたにちょっとお話がありましてな。久し振りにお邪魔したんですよ」
 聞くなりぎくりとした。ウェスコットが自分に話があるとすれば、ロイのこと以外にはないはずだ。あの人が、とうとう村で結婚したとでも?

 たちまち全身を強張らせたパトリシアに、弁護士は意味深長に頷きかけた。そしてローガン夫人に断りを入れ、隣の静かな部屋へと彼女を促した。
 そこも作業室だったが、今は誰もいなかった。支援物資置き場も兼ねたその部屋に並んだ棚には、たくさんの薬ビンや、未裁断のシーツ兼包帯用の白い布が無造作に置かれている。

 ドアが閉まると、しばしぎこちない沈黙が流れた。


 コホンとひとつ咳払いをして、ウェスコットは社交辞令もすっ飛ばし唐突に切り出した。
「実は……、『今、ケベックにいる』ロイドの奴が、久し振りに、わしの事務所に手紙を寄越しましてな」
「ケベック?」
 聞くなり、上ずった声で話を遮った。セントローレンス湾に臨むカナダ本土最果ての州ケベック。そこには今、カナダ軍の軍事演習場があり、志願した男達が戦地に赴くための最も基礎的な訓練を受けている。

 その瞬間パトリシアの脳裏に、先ほど新聞が丁寧に描いて見せてくれたすさまじい戦闘シーンが駆け巡った。顔から血の気が引いていく。内心密かに最も恐れていたことが、とうとう現実になったようだ。
 さっと青ざめ、怯えたように黒い瞳を見開いた彼女の様子に、ウェスコットは目を細めた。おもむろにスーツのポケットに手を突っ込むと、少しよれて汚れた薄いグレーの封筒を取り出した。

「さよう。お察しの通り、奴はケベックの合同訓練キャンプ場におるそうです。実は今回、わしへの手紙と一緒に、あなた宛の手紙を同封してきましてな。一刻も早くお読みになりたいだろうと、さっそく届けに来たのですよ」
「う、嘘です!」
 今度こそ、パトリシアの身体は傍目にもわかるほど震え始めた。礼儀も慎みも忘れて、思わず大声を上げてしまう。完全に狼狽しきっていた。
 弁護士が、「まあ、落ち着きなさい」と言いながら、目の前にその手紙を差し出した。薄い封書から皺の刻まれた顔に視線を移すなり、彼女はいやいや、と言うように激しく頭を振って一歩後ずさった。
「どうして? 今さら……、今頃になって、どうしてあの人がわたしに手紙なんか寄越すんです?」
「『今』だから、かもしれませんな、ミス・ニコルズ。奴があなたに何と言ってきたかは知りませんが……」
 ウェスコットは宥めるような口調の中にも強い力を込めて、きっぱりと言った。
「わしに来た手紙を読んだ限り、これだけははっきりと言えますぞ。あれは今、完全に一人身です」
「でも、わたし……サマセット村で間違いなく聞いて……、この目ではっきり見たんです! あの時、確かに彼の家にはきれいな女の人がいて、あの人のことを何でもよく知っていて、とても親しそうに……」
「それはあの時にも聞いた。だが、例えば、重病に臥せっていたお身内のために、誰か手伝いの女性を頼んだ、とは考えられなかったかな? いや、あなたが故郷の村で何を見聞きされたにせよ、今わしに言えることはこれだけです。あれは、誰とも結婚などしてはおりません」
「……!」
「実際、あなたの報告を聞いた時から、まったく腑に落ちなかったんだがね。それほど要領よく立ち回れる男なら、そもそも去年の夏、あなたのためにこの街を出て行く、などという馬鹿げた羽目に落ち込むことは、決してなかったはずですからな!」

 パトリシアは思わず両手で顔を覆ってしまった。ウェスコットが初めて口にした痛烈な皮肉は、身に滲みて堪えるものだった。
 途方に暮れて立ち尽くしていると、業を煮やしたように弁護士の節くれた手が、彼女の手を取った。手のひらに封筒がかさりと押し付けられる。
「まずはこれを読んでみることだ。その後、よくよく考えることですな。この手紙こそ、あなたが去年、切に待ち望んでいたものではなかったかな? 確かにお渡ししましたぞ。それでは、今日は失礼するとしよう」

 ウェスコットはそれだけ言うと、彼女の肩を力づけるようにぽんと叩いて静かに部屋から出て行った。一人になった後も、パトリシアはまだじっと薄暗いその部屋に立ち尽くしていた。
 混乱した頭に、先ほどの言葉だけがぐるぐると渦を巻いている。

『ロイは誰とも結婚していない……』

 そんな!! それじゃあの時わたしが見たのは、いったい何だったと言うの……?

 パトリシアは手の中の手紙をじっと見つめた。表に懐かしい彼の筆跡でただ『パトリシア・ニコルズへ』と走り書きされているだけ。
 差出人の居所すらなく、端が少し折れ曲がっている……。
 次の瞬間、無我夢中で封を開くと、北向きの窓から差し込む陽光にすかして、それを読み始めた。


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17/09/25