Chapter 18

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 パトリシアはロイの手紙をポケットに大切にしまいこむと、あれこれ考えを巡らせながら廊下に出た。
 すれ違い様、ローガン夫人から声がかかった。思いつめた気持が顔に出ていたのだろう。不思議そうに問いかけられる。

「パトリシア、どうかなさって? ミスター・ウェスコットはもうお帰りになったわ。今から月末の朗読会のことでご相談しようと思って探していたの。まだお時間は大丈夫でしょう?」
「ああ、本当に申し訳ありませんわ、ミセス・ローガン」
 現実を思い出し、彼女は心からそう答えた。
「実は事情で、今後こちらのお手伝いができるかどうかわからなくなったんです。あの、ところで……ご存知でしょうか? 義勇軍のキャンプ入りした志願兵にも、最後の休暇はありますよね?」
「ええ、普通は海外に行く前に一週間ほど、賜暇があるはずだけれど……」

 聞くなり、パトリシアの瞳に強い決意が宿った。では、それがわたしに残された最後の機会なんだわ。
 ロイの手紙には今月の半ばにキャンプが終わると書いてあった。それからの一週間!
 ああ、神様、どうかどうか、お願いです!!

 突然のパトリシアの言葉に、ローガン夫人も驚き戸惑ったようだ。
「事情って何かしら? どこかにお出かけになるの?」
「それは……」
 詳細を説明する必要はないだろう。一瞬考えて、こう切り出した。
「急な事情で、故郷に帰らなければならなくなりましたの。現在お預かりしている会の帳簿もお返ししなければなりませんわね。とりあえず監査役のミセス・ペインにお預けしたいと思います。できれば、今からすぐにでもご説明したいのですけれど」
「なんですって? 突然どうしたって言うの? ミスター・ウェスコットはあなたにいったい何の御用だったの?」
 目を見張ったローガン夫人に、パトリシアは晴れ晴れとした微笑みを向けた。
「ウェスコット先生は、わたしの婚約者からの手紙を届けてくれたんです。さあ時間がありません。急ぎましょう!」


*** ***


 一番の難関は、やはり父だ……。

 アーノルドと顔を合わせるのを避け、車が迎えに来る前に支部を出たパトリシアは、メインストリートから大勢の人がひしめく乗り合いバスに乗り込んだ。
 チャンドラー邸に帰る道すがら、よい方策はないかと考え続けたが、知恵も浮かばない。たとえ、もう一度前のようにこっそり家出したところで、行き先は最初から知れている。ロイがいつ村に戻るのかも正確にはわからない。おまけに今度は“ちょっと行って帰ってくるだけ”のつもりもない。

 結局、正攻法が一番いいのかもしれない。父を説得することさえできれば……。


 屋敷に戻るなり、パトリシアはそこにいたメイドに帽子を手渡しながら、問いかけた。
「お父さんは、もうお帰りになっているかしら?」
「はい、先ほど。……お夕食の時間までは書斎においでだと思いますが。あ、お嬢様!」
 セシリア伯母の厳しい邸内マナーも無視し階段を小走りに駆け上がると、強く書斎の扉を叩いた。中から「お入り」と落ち着いた声がかかった。

 父はいつもと変わらぬ様子で書き物机に向かい、パイプをくゆらせながら分厚い書物を読んでいた。外出着のまま、突然飛び込んできた愛娘の紅潮した頬と意を決した黒い瞳を見て、驚いたように立ち上がる。

「これは、これは。珍しいこともあるものだ。今日のお前はいつもより一段と美しく見えるね。生き生きと輝いているよ。さてはアーノルドと、ようやく仲直りしたのかな? それなら結構だ。何しろトーマスから、いつお前達を結婚させるんだ、と、やかましく言われて困っていたからね」
「いいえ、お父さん。わたしがアーノルドと結婚する日なんか決して来ないわ。そのことで来たんじゃありません」
 パトリシアは即座に父の言葉をはね返すと、椅子に掛けなさい、という声も無視して書き物机の前に進み出た。父が眉を上げて無言で続きを待っている。

「お父さん、覚えているかしら? 去年の今頃、お父さんがトーマス伯父様達のせいで閉じ込められていたとき、お父さんの行方探しに協力してくれた、ロイド・クライン……、ウェスコット事務所に所属していた若い弁護士のことを……」
 はっとしたように目を細めた父の顔をまっすぐに見つめ、パトリシアは続けて一気に言った。
「わたし、彼と結婚したいんです。今月中に、どうしても」

 長い沈黙があった……。

 ふいに、静まり返った書斎に高らかな笑い声が響き渡った。しばらくひきつったように大声で笑った後、ニコルズは飛び切り皮肉な笑顔を娘に向けた。
「さてさて、一か月遅れのエイプリルフールかね? 藪から棒に、いったい何の冗談だね、パトリシアや?」
「冗談なんかじゃないわ、お父さん。わたし本気です。今日、ロイから手紙を受け取りました。彼は今、志願兵として入隊しケベックで軍事訓練を受けています。彼が訓練を終えた後、賜暇でサマセット村に帰ってきたら、結婚したいんです。……あの人が一人でヨーロッパに行ってしまう前に!」

 最後の言葉を口にした途端、言い知れない不安、そして強い悲しみが押し寄せ、胸が詰まりそうになった。
 長い間密かに抱えていた切望を口にしてみると、いっそう彼への思いが溢れてきて、そのあまりの強さに身体が震える。また涙が零れそうになり、慌てて瞬きした。
 しっかりして。今は泣いている場合ではないのだから。

 その一言で、父にも事情がすっかり飲み込めたらしかった。穏やかだった顔がたちまちひどく厳しく頑なになる。しばらくの間、無言でパトリシアを睨んでいたが、深いため息をつくとあきれ返ったように声を高めた。

「お前は……、まだあの男のことにこだわっていたのか? 去年の暮れの家出騒ぎで、すっかり懲りて、もう忘れたとばかり思っていたがね」
「あの時は、彼の気持を『すっかり』誤解していましたから……」
「それが今になってどうしたのだね? あの男が浮ついた手紙を寄越し、軽はずみな言葉でお前をそそのかした訳か?」
「ロイはそんなことをする人じゃありません! むしろ、もっと早くにそうしてくれていたら、どんなに救われたかと思うくらいよ。彼はただ……、どこにいてもわたしの幸せを祈っていると……。ただ幸せになって欲しいとだけ……。あの人はいつもそう! でも、でも、ロイと一緒になれないなら、わたしの幸せなんて絶対にあり得ないんです。わたしはロイを……、あの人を愛しているんです! お父さん、お願い、わかって! もしあの人をこのまま一人ぼっちで戦地に行かせてしまったら、わたし……後悔のあまりどうにかなってしまうわ!」

 言っているうちに感極まってきた。わっと泣き出しそうになり、慌てて顔を背ける。

 見るからに切羽詰った娘の様子に、ニコルズは少し態度を和らげた。
「まずは落ち着きなさい。お前は今ひどく興奮している。冷静に物事を見極めたり、正しい判断を下すことができなくなっているんだ」
 宥めるように言いながら、机を回ってパトリシアの前に来ると、すがる目で見上げる娘の肩を抱きかかえて、安楽椅子に座らせた。
 改めて向き合ったとき、父の口調は諭すように穏やかになっていた。


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17/10/03