Chapter 18

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「いいかね、パトリシア。落ち着いてよく考えてご覧。とにかく結婚したいとお前一人が焦ったところで、どうにもならないことがわからないかね? 聞いているとどうやらその男の方が、お前より余程分別があるようだぞ」
 娘の頬に零れ落ちた涙を見てハンカチを手渡してやりながら、頷きかける。
「結婚生活とは、お前が夢見ている物語のハッピーエンドではないんだよ。現実をよく見なければならないよ。その……ロイド・クラインは今――もちろん軍隊に入る前だが――、どんな家に住み何をして生計を立てているのだね? そういうことも全て知っているんだろうね?」
「も、もちろん知っているわ。でも! そんなこと何も関係ないでしょう? わたしは……」
「関係ないと思うかね? 日々の糧を得ることは暮らしの基本だ。そういう苦労をしたこともないお前が考えるほど、甘いことではないよ」
 彼女はぎゅっと唇を噛み締めた。晩秋の日、サマセット村で見た彼の家の様子がまざまざと蘇ってくる。そして、彼の家であの女性に感じた敗北感も同時に……。
「それともお前は、その男の家に行きさえすれば、魔法使いが現れて、万事をうまく整えてくれるとでも考えているのかね? 実際、お前のような育ちの娘が快適に暮らせると思うかね? ロイド・クラインだが……、弁護士としては、もちろんその、かなり優秀なのはわたしも知っている。だが、今はどうだろう?」

 聞くなり、パトリシアの我慢はとうとう限界に達した。思わず立ち上がると、父に向かい、これまで心の奥に無理やり封じ込めてきた怒りと批難とを爆発させた。

「ひどいことをおっしゃるのね! それこそ元はといえば、わたし達のことが原因でしょう!? 何もしていないあの人を、トロントから出て行くように仕向けたのは、トーマス伯父様じゃないですか!!  ええ、“馬鹿な”わたしだって少しくらいは知っているのよ! アーノルドがご丁寧に教えてくれたんですもの。それを聞いたとき、わたしがどんな思いになったか、お父さんには絶対わからないでしょう! お父さんだって、何もかも知っていて伯父様に加担した一人なんですものね!」
 父の顔がすっと仮面をかぶせたように無表情になった。頬を紅潮させ、息を切らさんばかりになっている娘に「座りなさい、パトリシア」と鋭く声をかけると、パイプを取り上げゆっくり火をつける。
 再び緊張した沈黙が書斎を包んだ……。


 実際のところ、ホイットリー一族はあの件はあれで万事片付いた、と考えていたようだが、ニコルズにはわかっていた。
 ことの次第を知っていたロイド・クラインが、あの時、もし反撃に出ようとすればいくらでも可能だったのだ。そもそも、警察に拘置されたとき、なぜ彼は口をつぐんでいたのだろう? 例の鉄道債裏取引の顛末を、その場でぶちまければ警察もすぐに動き出しただろうに。
 確たる物的証拠はなくとも、あの男は弁護士なのだ。いくらでも自分に有利に弁明できたはずだ。当時はまだ戦争が始まる前だった。世間でもかなりの事件として取沙汰されたに違いない。そうなれば、自業自得のホイットリー親子はもとより、一族中の信用失墜、大きな不名誉を蒙るのは避けられなかったはずだ。
 なのに、理不尽な結果をあえて被り、田舎に篭ったきり不思議なほど沈黙を守ったのは、いったいどうしてなのか?
 そう考えたとき、たった今娘が口にした言葉と、立ち去り際、静かに自分を見返したクラインの眼にあったものとが、はっきりと符号した。あの男の最後の言葉と共に、記憶が鮮明に蘇る。
『ミスター・ニコルズ。どうぞパトリシア自身の幸せを、まず第一に考えてあげてください』
 ふいに、喉の奥から苦いものがこみ上げてきた。彼はそのまましばらくじっと目を閉じていた。

それでも、娘の言葉に素直に頷くことはできなかった。現実はそれほど甘くないのだと、何とかしてわからせなければならない。
 まして、その男はすぐに、いつ終わるとも知れない戦争に行ってしまうのだ。
 その先は生命の保証すらない、というのに……。

 沈黙したまま物思いに耽る父を、パトリシアは期待を込めて見守っていた。だが、しばらくして返って来た返事は、ひどくがっかりさせられるものだった。

「今は……その話は置いておこう。いいかね、パトリシア。一番の問題点は……、お前達を取り巻く生活環境の違いだよ。例えば、その男の家にはこまごました家事雑用をこなしてくれるメイドを、一人でも置いているのかな?」

 意地の悪い質問だということはニコルズ自身、百も承知していた。晩秋の家出事件の後、当のロイド・クラインについて彼自身も調べていたからだ。それはしごく容易なことだった。今も所有している森屋敷の管理人夫婦に電話をかけ、娘がそこまでして会いに行った相手の現況を調査させるだけでよかった。
 受け取った報告は実に寒心に堪えないものだった。同時に、この現実を見たからには、いくら頑固な娘でもあきらめがついたろうと安心もした。どうやらまだ尾を引いているようだが、すぐ立ち直るだろう。そう思い、赤十字の仕事も好きにさせていたのに、期待は外れたようだ。

 父の言葉に身じろぎした彼女の顔には、その事実に今気付いた、と書いてあるも同然だった。
「いいえ、お父さん。メイドなんかいないわ」
 その通りだと頷くと、聞き分けのない子供に対するように、さらに言って聞かせる。
「ご覧。そんなところにお前が行って、主婦として何の役に立つのかな? お前の手を見なさい。白くて繊細な手だ。その手はアーノルドのような上流の洗練された男にエスコートされるためにこそある。お前は、かまどの前に立ってパンを焼いたり、冷たい水で炊事や洗濯をするように生まれ付いてはいないのだよ」
 パトリシアは父に向かって深く頷いた。だが実際、彼女が見ていたのは父の顔ではなく、あの日、ロイの家で見た光景だった。
 そうだ。あの女性のように家事が一通りこなせなければ、彼の家の主婦は到底勤まらない。こんな大切なことに今まで気付かないなんて、わたしったら……。
 パトリシアはさっと椅子から立ち上がった。
「本当だわ。教えてくれてありがとう、お父さん」
「いい子だ。わかってくれればいいんだよ」
 優しく微笑んだ父に、彼女はきっぱりと言い返した。

「わたし、今から覚えます。家事がきちんとできるようになれば、お父さんも彼との結婚を認めてくれるわね?」


*** ***


「それで、パトリシアは今度はいったい何を始めたんですかね? 赤十字会の次は厨房でコックのまねごと! コックの一人が先ほど、困り果ててどうしたらいいかとやって来ましたよ。それなら好きにさせておきなさい、と言ってやりました。まったく、とうとう気が変になったんでしょうよ」
 翌日の朝食後、居室でくつろいでいたニコルズ夫妻は、入ってきたセシリア・チャンドラー夫人の嫌味たっぷりの言葉に顔を見合わせた。ニコルズが無言で立ち上がり、勢いよく部屋から出て行くと、訳もわからず呆気に取られるニコルズ夫人にさらに嫌味が降り注いだ。
「夕べからだそうです。今朝も早くから起きてきて、パンはどうやって焼くんだと、メイドみたいな格好で、コックの横に張り付いて頑張っているそうですよ」
「ど、どうしてそんなことを……」
「あの子は、昔からちょっと変わったところがある子でしたからね。まったく、誰の血でしょうかね」

 ニコルズ夫人が足早に部屋から出て行くのを、チャンドラー夫人は意地の悪い目で眺めていた。


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17/10/07