Chapter 18

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 あの頑固な娘! まだわかっていなかったのか!
 半ば腹を立て、半ば感心しながら勢いよく厨房の扉を開くと、折しもパトリシアはオーブンの近くで、こねたパン生地を小さくちぎって、麺棒で伸ばしてはパンの形に丸めているところだった。周りに数人、おろおろした顔のキッチンメイドが立っている。彼女について一緒に作りながら教えているのは、この屋敷にもう三十年もいる老コックだった。お嬢さんの気まぐれと馬鹿にせず、親しみのある笑顔を向けている。当の本人は、簡素な衣服に白いエプロンを着けて、老人の言葉に一つ一つ真剣に頷いては、また練った小麦粉の塊をちぎってこねていた。
 やがてコツを飲み込んだように手つきが次第によくなってきた。まるで粘土細工をしている子供のような真剣な顔に、ふと楽しげな笑みが浮かぶ。その姿を眺めていると、声をかけるのがためらわれるほどだ。

 ポケットから手帳を取り出してはレシピを書き取りながら、パトリシアは次第に楽しくなってきていた。やがて、鉄板に並べたパンを老コックが説明しながらオーブンに入れると、出来上がりが楽しみで、わくわくしてくる。
 こんなふうに厨房に入ることすら十年ぶりだ。森屋敷で過ごした子供の頃、料理人のエムがケーキを焼くのを横で眺めるのが大好きだったことを思い出す。
 次はケーキのレシピね。干しプラムをたくさん使ったプラムケーキがいいわ。わたしだって、やればできるじゃないの。
 これはまだ、ほんの小さな一歩に過ぎない。だが自分の足で確かに歩き出したのだ、という高揚感が心に大きく広がっていた。


 背後で咳払いが聞こえ、振り返ると腕を組んで難しい顔でこちらを睨んでいる父の姿が映った。非難の視線にも動じず、にっこりと微笑み返す。
「今、パン作りを教わっていたところです。こうしていると昔を思い出して、とても楽しいわ」
「それはよかった。だがね、パトリシアや……」
 ニコルズは皮肉な笑みを浮かべた。すっかり意地の悪い気持になっていた。どうやら、この馬鹿な娘が悲鳴をあげて逃げ出すくらいの衝撃が必要らしい。おろおろと二人を見比べていたコックが、何か口を開きかけるのを手で制し、厨房を見渡すと、天井の梁からどうやら今朝絞めたばかりらしい鶏が、黒い羽根もそのままにぶら下がっているのに気付いた。
 それを下ろすように指示し、目の前に持ってこさせる。首と爪のない鶏にはっと息を呑んだパトリシアに向かって、父は愉快そうに提案した。
「パンだけで、食事というわけにはいかないだろう? どうかね? この鶏を一つシチューにしてみてくれないかな? もちろんテリーヌでも構わないよ。但し、羽根をむしるのも鶏をさばくのも、お前が一人で全部やることだ。一切、他の者に手伝ってもらってはならない。やり方を教えてもらうのは仕方ないがね。では、出来具合を楽しみにしているよ。食べられる代物になったらわたしの所に持ってきなさい」
 思わず唇を噛み締めた娘ににやりと笑いかけ、父は振り向きもせず厨房を出て行った。

「お嬢様、これはいったい……? 無理でございますよ。きれいなお手が荒れてしまいます」
 パン作りを指導してくれた老コックが見かねて言いかけたが、彼女は緊張した目をまっすぐその鶏に向けていた。
「まず、この羽根を全部むしればいいのね? どうやるの?」
「で、ですが、お嬢様、今はお部屋にお戻りになった方が……」
「そうはいかないの」
 答えながら幾度も息を吸い込み、動かぬ首のない鶏が載せられた調理台におそるおそる近付いていった。周囲でメイド達が固唾を呑んで見守っている。
 これを調理できなければ、鶏肉は食べられない。もちろんだわ! 
 パトリシアは、目の前のグロテスクな羽根の塊を見つめブルッと身震いした。幾分青ざめながらも果敢に上衣の袖をひじまで捲り上げる。
「あの人はドイツ軍の毒ガス兵器と戦うために、今も訓練を受けているのよ。わたしだってこれくらい、やってみせるわ!」
 掛け声のように声を上げると、パトリシアはがむしゃらに目の前の羽根の塊に組みついていった……。


「できたわ、お父さん」
 ノックと共に、書斎の扉から毅然と背筋を伸ばしたパトリシアが姿を現したときには、さしものニコルズも不機嫌に黙り込んでしまった。
 続いてメイドが銀のふたのついた盆を両手に捧げ持つようにして入ってきた。それを受け取って父の前におき、覆いを取り除ける。おいしそうなシチューとパンの匂いが漂った。同時に、彼は娘の細い指先に結ばれたいくつもの白いガーゼに気付いた。どうやらこの数時間の並々ならぬ格闘の痕らしい。
「どうぞ。召し上がってみて頂戴」
 メイドが主人の反応をちらちら横目で窺っている。彼は黙って一口食べてみた。結構おいしくできている。
「……本当に、お前が全部作ったのかね?」
 疑わしそうに呟いたニコルズに、反論したのは意外にも傍らにいたメイドだった。
「はい、お嬢様はお一人でそれはもう、大奮闘なさいました。わたし達が手伝うことすらお許しになりませんでしたもの。野菜の皮をむくのも全部お一人でされたんですよ、お陰でお手がこんなに……」
 父の手から、スプーンが床にすべり落ちた。真剣そのものの娘の目を見返したニコルズは、急にいくつも老けたように見えた。メイドを下がらせると、しばらく無言でパトリシアをじっと見つめていたが、やがて深いため息をついた。
「そんなにしてまで……、お前はあの男の元に行きたいと言うのか? 今までのような暮らしは一切できなくなる上、すぐに戦地に行ってしまうのだよ?」
 問いかける声に諦めが滲む。
「ええ。だからこそです。それに……、正直に言えば、今までの暮らしでよかったことなんて、何もなかったもの……」
 その言葉を聞くなり、ニコルズは忍耐の糸も絶ち切れたように激しく拳で机を叩き、大声を張り上げた。
「ならば、勝手にするがいい! 但し、あとで泣いて帰ってくることになっても遅いぞ!」
 出て行け、というように手を振ると、疲れ切ったように椅子にもたれて目を閉じてしまった。

 パトリシアは、こみ上げてくる涙を一生懸命にこらえた。心がひどく痛み、血さえ流れ出ているような気がする。だが、夫となる人と家族とが相容れない以上、どちらかを選択しなければならないのは世の常だ。気持はとうに決まってしまっていた。
 それでもいざとなると、引き裂かれるような苦痛があった。伏目がちにお辞儀をすると、彼女は黙って書斎を出ていった。


*** ***


 それから一週間が、またたく間に過ぎていった。

 パトリシアはさらにいくつかの料理を覚え、着々と準備を整えていった。と言っても、自分のクローゼットにあるものを旅行用のトランクに詰め込むだけに過ぎなかったが。
 あれ以来、父は自分の存在を完全に無視していた。伯父や伯母をはじめ周囲も異端児を見るような、軽蔑のこもった呆れた目を向けてくるばかりだ。
 母だけが何度か娘を説得しようと部屋を訪れていたが、日々片付いていく部屋の様子と、いつも笑顔で「大丈夫よ」と言ってのける彼女を見て、とうとうあきらめたようだった。ある日の午後、「では、これを持って行きなさい」と、大き目の衣装箱を持って入ってきた。
 ふたを開くと薄地のウェディングドレスとヴェールが出てきた。驚いて見返す娘に母は微笑みながら、それらを広げて見せた。
「わたしがお父さんと結婚するときに身につけたものよ。型は古いけれど生地はとても上等だし、今でも決して見劣りはしないわ。あなたの方が背は高いけれど、サイズは同じくらいだから大丈夫でしょう」
 そう言いながら、娘を立ち上がらせブラウスの上から当てて見てくれる。
 黙って母に任せていたパトリシアの目から、とうとう堰を切ったように涙が溢れ出した。これまで我慢してきた分まで一度に噴き出したように、母に抱きついてただただ泣きじゃくる。
 母もまた涙を浮かべて、しがみついてくる娘を幼子のようにあやしながら、その涙が尽きるまで優しく抱き締めてくれていた……。


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17/10/10
パトリシア、頑張りましたv
二人が会えるまであと少しです。どうぞお待ちくださいね〜。