Chapter 18

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 キルトは無理でも、せめて新しいクロスやテーブルナプキンくらいは準備しよう。そう思い、まだガーゼを当てた指先で、リネン類のふちかがりと『L&P』という二人のイニシャル刺繍に、没頭していたときのことだった。

 ふいに部屋の扉が開いた。はっとして振り向いたパトリシアの前に、思い切り皮肉な顔つきのアーノルドがいつにも増して尊大に歩み寄ってきた。
「いったいどういうつもりで、これほど僕を侮辱しているのかな、パトリシア・ニコルズ? そろそろお聞かせいただけると嬉しいがね」
「アーノルド! いつ来るかと思って待っていたのよ。随分遅かったわね」
 来訪を予期していたように落ち着き払って刺繍を脇に置くと、機嫌よく微笑みかけた。そんな彼女に、従兄は威嚇的に眉を上げて見せる。
「君がまた何か馬鹿なことを始めたらしい、と話に聞いていたからね。『流感のようなものだ、しばらく放っておけば熱も冷める』というのが皆の共通した意見だったから、しばらく時間をあげたつもりだったんだ。だけどどうやら、ますます重症になる一方らしいじゃないか。まだ、目が覚めないのかい?」
「そうよ。せっかくだから最後までその流感にかかりきっていることにするわ。今更何を言っても無駄よ、アーノルド。でも実を言うとあなたに会いたかったの。今日来てくれてよかったわ」
 パトリシアはクスッと笑って答えると、刺繍を置いて静かに立ち上がった。化粧台の引き出しからアンティークの宝石箱を取り出して開く。
「昔あなたにいただいたものよ。返さなくては、と思っていたの……」
 形式的な婚約をした日以来、数度しかはめたことのない大粒真珠の――周りには小粒のダイヤがぐるりと囲んでいる――婚約指輪。そしてアメジストのネックレスを一緒に差し出した。アーノルドがひるんだように唇をゆがめる。
「これが……、君が十六の頃から婚約者としていろいろと世話をして、可愛がってきてやったことへの礼なのかい? この僕に、随分と大恥をかかせてくれるじゃないか。馬鹿だよ、君は! 本気であんな僻地の村に入って暮らせると思ってるのか? はっ、世間知らずもいいところだ。一週間で退屈になって泣いたって、今度こそ迎えになんか行ってやらないからな!」
「そんな心配はご無用よ。それに、今まで色々としてくれたことにはとても感謝しているわ。だけど……」
 一瞬言葉を切って、パトリシアは静かに従兄の動揺した青い目を見返した。
「わたしがあなたを愛していないのと同じくらい、あなたもわたしを愛していないってことは、十六の頃からよくわかっていたもの。あなたの愛情って、よく言うことを聞くペットを可愛がるのにちょっと似ていたわね。いつかあなたも、本当に愛することのできる女性と出会えるように、心から祈っています」
「……!」
 聞くなりアーノルドは、目に憤怒をたぎらせて彼女の手から宝石をひったくると、そのままきびすを返した。

 部屋の扉が大きな音を立てて閉まるや、パトリシアは再び椅子にへなへなとへたり込んでしまった。この数日間の疲れが一気に押し寄せ、眩暈すら覚える。

 今まで馴れ親しんできた一切のものに、別れを告げる……。
 どんなに強がって見せても、正直言えばやはり怖かった。不安と寂寥感とが、ふいに闇のような翼を広げて襲い掛かってくる。知らないうちに零れた涙をぬぐうと、スカートのポケットから彼の手紙を取り出した。いつも肌身離さず持ち歩き、もう皺だらけになっている。
 怯みそうになる心を奮い立たせようと、ロイの名を呟きながらそれを開いてまた読み返した。


*** ***


 りんごの花が咲いている……。
 そういえば、この季節に故郷に帰るのは何年ぶりのことだろう。

 サマセット村はずれの小さな駅で、ひっそりと汽車から降り立ったロイは、近くの果樹園のりんごの木々に目を留め、懐かしそうに微笑んだ。
 咲き始めた小さな花々が、あたりに甘く瑞々しい香りを投げかけている。
 故郷はいつもと同じ穏やかさに満ちていた。キャンプ地の喧騒とも血なまぐさい戦場とも無縁の清浄な空気。今まで、まるで別世界に行って来たような気がするほどだ。

 金色の黄昏が故郷の大地を静かに包み込んでいた。

 この村を出たのは四月の始め、まだ冬の名残が残る頃だった。今、街道の木々は萌える新緑に溢れ、草野原に美しい小さな花が咲き乱れている。家屋の切り妻屋根の軒先に、薔薇が赤いつぼみを覗かせていた。
 島が、一番美しい季節を迎えようとしている。


 背嚢を背負い、汚れたカーキ色の軍服一式身につけた姿のまま、ロイはゆっくりと村の商店街へと歩いていった。
 馴染みのマジソン食料品店に立ち寄り、少しばかり食料品の買出しをしなければならない。自分で作る食事など、兵営で支給される糧食よりひどいが、背に腹は変えられない。

「おお、ロイド・クラインじゃないかね!」
 店に入ると、彼に気付いたマジソン氏が慌てたように、やけに気負い込んでカウンターの中から飛び出してきた。
「今帰ったのか! どうして早いうちに一言連絡を寄越さないんだ? お前さんの帰りを今か今かと待ち構えていたんだぞ。いやー、よかったなぁ、お前……。わしも心底嬉しいよ。ネッタがもうちょっと生きてれば、どれだけ喜んだことか!」
 惜しい、実に惜しい、と言いながら、嬉しそうに顔をくしゃくしゃにして、彼の手を力いっぱい握り締めてくる。
 ロイは思わず、握られた手と相手の顔を交互に見比べた。マジソン氏がさらに興奮した声で続ける。
「当面必要な食料品は先日あらかた届けておいたからな。家の鍵も無用心だったからわしがニ重に付け替えておいたぞ。こいつめ、一生の重大事を何だと思ってる? 今の今まで何も言わんのだから、まったくもって!」
 何のことかさっぱりわからない。ロイは目をしばたかせ、完敗だ、というように両手を広げてみせた。
「それはわざわざどうも……。だが俺はあいにくこの通り、兵舎帰りで手土産など何も持っていないですよ」
「そんなことは構わんさ! お前さんとは、こーんな小僧っ子の時分からの馴染みじゃないかね! わしからの結婚式の前祝いじゃ、この色男めが!」
 ますます意味不明に陥り、ただ困惑するロイの背をバンバンと力任せに叩くと、マジソン氏は豪快な笑い声をあげた。
「デイジー・ミラーが何度もお前さんの家に行って、あれこれ準備しとるぞ。……ん? なんだ、その顔ではお前さん、本当に何も聞いとらんのか?」
 デイジーと聞くなり、さっと表情をこわばらせた彼を見て、マジソン氏が拍子抜けした顔をした。
「なら、とりあえず早く家に帰ってみることだな。そうそう。犬はハリス長老からの贈り物だ。会ったら礼を言っとくんだぞ」


 まったく……、何だって言うんだ?

 皆目訳がわからなかった。上機嫌すぎる店主に呆れ返った彼も、道行く人からまで、意味深長に微笑まれたり、おめでとう、向こうに行く前に二人で是非お茶にいらっしゃいな、などと声をかけられるに及んで、次第に混乱が募ってきた。家路を辿る足が自然に急いてくる。
 デイジーだって? 彼女なら、とっくに俺の気持をわかってくれたはずじゃ……。


 森の小道から我が家が見えたとき、窓に灯りが燈っていることに気付いた。慎重にゆっくりと近付き、庭先で立ち止まる。
 誰かいるのか? 今日帰ることは誰にも知らせていないのに、いったい誰が……?

 そのとき、人の気配を察したかのように家のドアが開いた。むくむくした白い子犬がキャンキャンと盛大に吼えながら走り出てくる。
 そしてその後から、灯りを背に浮かびあがった人影は……。

「……ロイ? ロイなの?」

 信じられない声が聞こえた。耳が、眼が、いや、自分の神経すべてが狂ったとしか思えなかった。
 我が家の玄関ポーチにふいに姿を現したエプロンドレスのパトリシアを、ロイはその場に突っ立ったまま、ただ呆然と見つめていた。


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17/10/14
大変大変長らくお待たせいたしました。やっと再会です〜。
この瞬間のロイの顔を想像してやっていただければと思います…。