Chapter 19

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 それは、かなり夜更けの、時間にはずれたディナーだった。
 チャンドラー伯母が見たら、眉を潜めて『感心しませんね』と一言で断罪したに違いない。
 だが今は、誰にも気兼ねなど一切不要だった。ここにいるのは自分と彼の二人だけ。どんなに大声で笑い転げても、文句を言う人は誰もいない。

 食事を終える頃には、それまで黙りがちだったロイの口がようやくほぐれ、キャンプ中に遭遇した軍隊初体験者達の珍談や失敗談を面白おかしく語ってくれた。深刻な事態なのは重々承知していても、今だけは別世界の話のように笑いながら聞いていた。仔細なことにこんなに笑ったのは何年ぶりだろう。思い出せないくらい遠い昔のような気がする。

 あれほど幾度も夢に描いた時間が、今目の前に確かに具現している。ロイが間違いなくそこにいて、自分の作った料理を嬉しそうに食べ、笑顔で話しているのだから。
 足元で時折小さく吼えては、食べ物をねだる仔犬に惜しげもなくチキンの分け前を与えながら、二人はとにかく陽気にしゃべっては、笑った。まるで戦争のことなど、何もなかったように。二人の一年近い別離すら、なかったように。
 突然、また涙が溢れそうになった。皿はとうに空になっている。急いで顔を背けて席を立つと、ロイが眉を潜めた。
「急にどうしたんだい? 今、何か気に障ることでも言ったかな?」
「な、なんでもないの。ただ、本当に嬉しくて……。わたしったら、嬉しいのに泣いてばかりだわ。泣き虫って呆れないでね、今お茶を……」
「お茶なんかいらない。パット……、こっちにおいで。もう一度君の顔をよく見せてくれないか」

 彼はテーブルを回って遠慮がちに彼女を引き寄せた。抱き寄せられるままに、身を預けてくるパトリシアを抱きかかえるようにして、壁際の古い長椅子にゆっくりと腰を落とした。
 これくらいは許されるだろうか。葛藤しながらも、気がつけば彼女の滑らかな顔からのど元まで指を這わせ、唇にまた口づけていた。本当に、どうしてこんなに甘いのだろう。何度味わっても満たされない。いや、もっともっと欲しくなるばかりだ。
 柔らかな唇を押し開きキスを深めていくうち、腕の中に閉じ込めた彼女が、彼の首に両腕を回してきた。触れ合った熱い舌が次第にもつれるように絡まり、いっそう離れがたくなっていく。身体までが反応し、どんどん熱を帯び始める。体重を預けてくる彼女を力の限り抱き締めながら、ここで踏みとどまらなければ、と懸命に自分と闘っていた。
 やっとのことで顔を上げると、間近にある彼女の顔をじっと見つめながら、深い感動を込めて言った。

「ありがとう、パトリシア……。ここまで会いに来てくれて、本当に嬉しかった。今夜のことは絶対に忘れないよ。これでもう思い残すことは何もなくなった。明日、僕と一緒にトロントに帰ろう。チャンドラー邸まで送っていくから……」
「なんですって? それはどういう意味?」

 夢心地から一気に覚めたように目を見張ると、腕の中で急に背筋を伸ばしたパトリシアを、ロイがもう一度力をこめて抱き寄せた。
「決まってるよ。明日、僕と一緒にトロントに帰るんだ」
「……それで、あなたはその後どうするの?」
「またここに戻って、それから向こうに行くだけさ」
 肩をすくめるロイに、怒りを含んだ声が矛先鋭く向けられた。
「それなら、わたしも帰らないわ。まさか! あなたと結婚して、ここでずっと暮らすつもりで来たのよ。それは一体どういう意味かしら? わかるように説明にしてちょうだい」
「結婚だって!? まさか……、僕とかい?」

 度肝を抜かれた、というように頓狂な声をあげたロイを、しばらく黙って見ていたパトリシアは、やがて憤慨したように彼の顔を両手でぐいと引き寄せた。

「当り前じゃないの!! この仔……ジョエルだって、このお料理の材料だって、ハリス長老やマジソンさんがわたし達の結婚の贈り物としてくださったのよ! そうでなければ、マジソンさんがこの家を開けて、わたしを中に入れてくれたと思う? どうして今さらそんなことを言うの?」
 ロイは、完全に途方に暮れた、と言うように目を閉じてからまた開けた。
 困惑と驚愕の入り混じった表情でゆっくりと頭を横に振ると、諭すように口を開く。
「彼らの気持も、君の気持も、とても……、口に出して言えないほど嬉しいよ。だけど……、それは無理だ。無茶を言うものじゃないよ、パトリシア。どうやったら、君みたいなお嬢さんがこんな家でずっと暮らせるんだい? 君がこれまで暮らして来た、使用人が大勢いるような屋敷とは比べ物にもならないじゃないか」
「あら! あなたまで父と同じことを言うつもりなのね? わたしがいつ、あんなお屋敷に住みたいって言ったの? どちらかと言えば、わたしはこの家の方が好きよ。こじんまりとして、いかにも我が家って感じで、とても居心地がいいわ。チャンドラー邸なんか大嫌い! あそこにいる間中、牢獄に閉じ込められてるような気がしたくらいよ」
「パット……、だけど、考えてもみてくれよ!」
 彼がごくりと唾を飲み込み、なおも声を高めた。ブルーの瞳いっぱいに、驚愕とそれから何かわからない激情が揺れ動いているのが見える。
「僕がここにいられるのは、これからたったの一週間、いや六日しかないんだ。その後は……もうどうなるかさえ……」
「言わないで! それ以上言っちゃ駄目よ!!」
 彼女の手がさっと動いて、不吉な未来を封じるように彼の口をふさいだ。そのまま、愛しい男性を手離すまいと背中に腕を回してしがみつく。抱き返す彼の手にも一層力が篭った。彼が呻くような声で応える。
「パット、ああ、パット……!! 本当に愛してる!! 心から愛してるよ!! まったく、なんて人なんだ、君は!! さっきから心底驚かされっぱなしだよ。だけど、今の僕には君にプロポーズする資格なんかこれっぽっちもないんだ。僕にそんなことを言っちゃいけない……。そんなつもりで……」 
「じゃあ、今までのキスと抱擁は一体どういうつもりだったのか、教えてほしいものだわ!」

 急に激しい怒りがこみ上げてきた。パトリシアはとっさに鋭くこう叫ぶとロイの腕を振りほどいた。その剣幕に驚き、ただ呆然と見つめ返す彼の前に立つと、強い怒りを込めて睨みつける。
「わたしがどんなに必死になってここまで来たか、あなたにはわからないの? 女のわたしがここまで言っているのに、意気地なし! いいこと、ロイド・クライン? あなたがドイツ兵や毒ガスに立ち向かう勇気があるのなら、わたしだって同じよ。そんなこと、もとから承知の上だわ。だからせめて、一緒にいられる間は一緒にいたいと、どうして思ってくれないの? わたしはあなたを愛しているし、あなたもわたしを愛している。わたしがあなたのプロポーズを承諾したとき言ったことを忘れたの? ああもう! 本当に信じられないわ。わたしは父と母を説得するだけでなく、新郎まで説得しなければならないのかしら? こんな花嫁の話は聞いたこともないわ!」

 かんかんに怒ってまくし立てる彼女を見つめるロイの表情が、次第に変わっていった。目を細め、身じろぎもせずじっと聞いていた彼の口元に、いつもの彼らしい皮肉な、面白がっているような微笑が浮かぶ。

「なら……、本当に本気で僕と結婚してくれるんだね? あとでどんなに後悔しても、もう撤回なんかできないぜ。一度結婚したら、死ぬまで君を手放さない。どんなに頼まれたって離婚なんか絶対にしないから、覚悟の上で言わないと、後で困るのは君の方だからな」
「……馬鹿ね。後悔なんか……するわけ……ないじゃない」
 パトリシアの怒りは急速にしぼんでいき、涙声に変わった。黒い瞳から、またきらきらと涙の雫が伝いはじめる。

 ロイがふいに立ち上ると、目の前に立っていた彼女をさらうように両腕に抱き上げた。意表を突かれ、小さく悲鳴を上げて肩にしがみついた彼女の唇を荒々しいキスでふさぎながら、そのまま階段を上がっていく。
 彼の忍耐も、ついに尽き果てたようだった……。


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17/10/25