Chapter 2

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 事務所の前には、いつのまにか黒塗りの車が一台止まっていた。

 運転手がパトリシアを認め車から降りてくると、静かに後部のドアを開く。彼女に続いて中に乗り込んだロイは、座り心地のよい皮ばりシートにもたれかかり、思わずひゅーっと口笛を吹いた。
「車持ちかい? すごいじゃないか!」
「わたし達のものではないわ。彼の……、婚約者の家の車だもの」
 聞くなりロイは顔をしかめ、むっつりと黙り込む。
「お屋敷の方でよろしいのですか、お嬢様。それにしましても、あの……、お客様をお連れに?」
「ええ、こちらはクライン弁護士さんよ。屋敷に御用がおありなので、わたしとご一緒します」
 怪訝な面持ちで問いかける運転手に、きびきびと彼女が答えると、車は通りへと走りだした。ロイは無言で窓の外を眺めている。そんな横顔を、気付かれないようにちらちらと盗み見ながら、パトリシアは内心首をかしげていた。

 いったい何を怒っているの?

 ロイとの再会は本当に嬉しい偶然だった。十年前、サマセット村の木立の中を歩きながら、生き生きと目を輝かせて語ってくれた夢の話を、パトリシアはまだ覚えていた。ロイは今、それを自らの手で実現させ、たくましく立派な、そしてとても魅力的な男性になっていた。ちょっとくせ毛の混じった鳶色の髪と、インクを溶かしたような青い瞳を一目見た途端、彼だと分かったが、懐かしさや喜びに混じって、今の彼のもつ男らしさに、何だか圧倒されそうになって、戸惑ったのも事実だった。
 だからさっきは、必要以上にきつい言い方をしてしまったのかもしれない。

 それにしても……。

 彼女は慌てて頭を振って、固く閉めた心の扉を破って飛び出してこようとする危険な思いを、再び奥へ押し込めた。
 もう決して、あのキスのことを考えてはだめよ……。
 かつて大好きだったロイに、思いがけずまた会えたのだ。この喜びを決して損ないたくなかった。ロイにしても、見知らぬ他人ばかりの中で過ごしてきただろうこの数年のことを思えば、故郷の顔に会うことで腹を立てる理由など一つもないはずなのに……。  だが、彼の方ではどうやら、そうではないようだ。


*** ***


 案内された屋敷はトロントの高級住宅街で、ヴィクトリア様式のやや古めかしい静かな佇まいを見せていた。ロイは車から降りると、大きな屋敷を見上げて訊ねた。
「ここは、君のお父さん、ミスター・ニコルズの?」
「いいえ、父の姉、セシリア・チャンドラー伯母の屋敷よ。トロントにいるときは、わたし達もここで暮らしているの」
「チャンドラー?」
「伯母はロバート・チャンドラー伯父様と結婚したんですもの」
「あとで、もう少し説明してくれるかい?」

 どうやらかなり、人間関係が込みいっているようだ。

 立派な肖像画や調度品を配したギャラリーのような邸内の廊下を案内されながら、彼はますます複雑な気持になった。出てきた執事がいんぎんな態度で応接室へ、と言うのを断り、まっすぐにニコルズ氏の書斎代りの部屋に案内してもらう。
 広い部屋に、ぎっしり本の詰まった書架と、大きな書き物机、そして肱掛椅子が暖炉を囲むように数脚置かれていた。ほのかに煙草の匂いが漂うその部屋は、午前中でも少し薄暗かった。ロイはカーテンをいっぱいに開き、部屋に光を入れた。

 窓際に置かれた大きな机は、磨き上げられたオーク材のがっしりしたもので、その上に何通かの手紙とメモ書きされた紙片が一枚、それに本が数冊載っていた。
 まず、メモを手に取ると、そこには数ケタの数字が羅列されていた。それを服のポケットにしまうと、次に開封された手紙に目を通し始める。
 ざっと目を通しただけでも、そこには金銭がらみの問題があったことを思わせる文面が連なっていた。穏やかな調子の中に、時折強く通告するような文句が出てくる。差出人を確認しようともう一度封筒を手にした時、前触れもなく書斎の扉が開き、二人と同じくらいの年格好の紳士が入ってきた。

 ロイはとっさに見ていた手紙もポケットに突っ込んだ。パトリシアがぎくりと身を強張らせたのを見て、怪訝な顔になる。
 その紳士はきちんと後ろに撫で付けた金髪に整った顔立ちをしていた。着ている三揃えの高級スーツの代金で、ロイの服が数着買えそうだったし、胸ポケットからは時計の金鎖が覗いていた。 男は机の脇に立つ二人を睥睨した。

「お帰り、パティ」

 その声は穏やかだったが、確かに咎める調子を含んでいた。物腰も上品で柔らかだが、なぜかロイは爪を隠した山猫のような印象を受けた。

「こちらが君が連れてきたお客人かい? しかも当屋敷内で、何やら不穏な真似をしているようだね。まだ僕はご紹介頂いていないようだが?」
「アーノルド、いらしたのね……。今日はお出かけかと思っていたわ」
「ほう。君は僕が出かけている間に、こういうことをしようと考えていたわけか?」

 皮肉たっぷりの口調に、ロイは目を細めた。だがパトリシアは、ただ首を竦め、ゆっくりと彼に近付いていった。二人が近付くのを見て、これが誰なのかロイにもすぐわかった。
 それ以上見ていられず、背中を向けて窓辺に歩み寄り外を眺めるふりをする。ようやく収めたばかりの胸の内に、また嵐が吹き荒れ始めた。まったく今日はなんという一日だ!

 その時、背後に彼女が近付く気配を感じた。

「ロイ、紹介するわ。わたしの婚約者、アーノルド・ホイットリーよ。アーノルド、こちらはロイド・クライン弁護士。ウェスコット弁護士事務所から、たった今来てもらったの。まだ若いけれど、優秀な弁護士さんよ。彼に父の捜索を手伝ってもらえたらと思って……」
「ちょっと待った、パティ」
 アーノルドと呼ばれた男は、素早く彼女の言葉を遮った。
「その件は僕に任せるようにと、昨日も言ったばかりじゃないか。なのにどうして僕に断りもなくそんなことをするんだい? 叔父さんのことなら、もちろんこちらで既に手配して、捜しはじめているんだ。第一、こんな素性も知れない奴を勝手に屋敷に入れるなんて、どうかしている。この男が信用できるか知れたものじゃないんだよ」
「そんなことないわ! もちろん信用できるに決まってるもの。だってこの人は、わたしの……」

 懸命に言い返すパトリシアの言葉がまだ終わらないうちに、アーノルドは、もういいと言うように手を上げ、再び彼女を遮った。

「いいから、君は僕の言う通りにしていれば間違いないんだよ。わかったね。この招かれざるお客人には、今すぐお引き取りいただくように」
「でも!」
「ちょっと、お待ちください」

 その時、ロイの穏やかすぎる声が聞こえ、パトリシアとアーノルドは口論を止めて振り向いた。ロイはいまいましい男に鋭い視線を向けたまま、ゆっくりと机を回って、相手の前に進み出た。

「はじめまして、ミスター・ホイットリー。わたしはミス・ニコルズの依頼を受けて参りました、ロイド・クラインと申します。たった今、ミス・ニコルズから事の次第を伺いました。失礼ですが、もう少しミス・ニコルズの立場に立ってさしあげてもよろしいのでは? 何の連絡もなく突然、お父上の消息が知れなくなったのですから、御心配は至極当然のことだと思いますが」
「そんなことは君に言われるまでもなく、よく分かっている! これは部外者が口を出すような問題ではない!」

 なんだ、こいつは?
 むっとしたが、あくまで落ち着きを保ちつつ切り返す。

「わたしはミス・ニコルズのご依頼でここにいるのです。あなたの承諾は必要ないでしょう」


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16/12/27