Chapter 2

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「ここは僕らの屋敷だ。彼女だって僕に従うに決まっているしね。君になど、とやかく言われる筋合いは毛頭ないよ。それにしてもパティ、君はそんな愚かな人ではないと、思っていたんだがねぇ」
 やれやれと言うようにわざとらしいため息をつくアーノルドの傍らで、気の毒なパティは顔を赤らめ、横を向いてしまった。

 ロイは思わず、この気取り返った男の顔に一発がつんとお見舞いしたくなった。その衝動を抑えるため、拳をきつく握り締めたまま、一歩下がる。いまいましい男はひどく尊大な態度だったし、パトリシアは反論もせずに無言のままだ。
 どういうことだ? なぜパットはこいつに何も言い返さない?
 ロイはだんだん歯がゆくなってきた。昔の彼女だったら、いや、さっきウエスコット事務所で見た限りでも……、こんな言い方をされたらすぐにでも何か、手厳しく言い返すはずだろうに。

 ロイの険しい表情に気づいたように、アーノルド・ホイットリーは再び視線をロイに戻し、傲慢にあごを突き出した。
「何をぐずぐずしている? すぐ帰るように言ったはずだ。ここから叩き出される前に、自分の足で出て行くのが賢明だと思うが?」
「いやはや……」
 ついにあきれ果てたように、ロイはかぶりを振って厳しい声で言った。
「君なら、男を見る目がもう少しあると思っていたよ、パトリシア。いくら金持ちで家柄がいいかもしれないが、君の未来の御亭主殿は、人間としては最低のようだな。こんな男と結婚したら、君の一生は……」
「貴様! 僕を侮辱するつもりか?」
 激昂し、脅すように繰り出されたアーノルドの拳を、ロイは難なくつかむと、ぐっと締め上げて押し戻した。腕力ではかないそうもないと悟ったのか、手首をさすりながら腹立たしげに睨みつける。そんな視線などきっぱり無視し、ロイはパトリシアをもう一度じっと見つめた。
 彼女は悲しそうに見えた。伏し目がちにロイを見返し、彼の物問いたげな眼に、何か言いたそうにわずかに口を開いたが、またもやアーノルドに強引に肩を抱かれて遮られてしまう。
「さあ、無礼なお客人はお帰りだ」

 ロイは顔をこわばらせて帽子を被り直した。
 なんてことだ。よりにもよって、こんな奴が彼女の婚約者なのか? だが、今の自分に何ができると言うのだろう。
 パトリシアとアーノルドは、それでも階段の下まで降りてきて、屋敷から出ていくロイを見送った。一見、睦まじそうに寄り添う二人の姿を横目で見ながら、ロイの心中はひどく複雑だった。


 その日の午後は、簡単な裁判の打ち合わせだったが、ロイは相手の話に集中するのに非常な努力を要した。午前中の一件で、彼の神経はすっかりすり減り、心は目茶苦茶に荒れ狂っている。
 まったくひどい一日だった!
 夕食を済ませようやく下宿に戻ったときも、まだひどく憤慨していた。パトリシアをめぐる出来事は、癒えたはずの心の傷を再び開き、新たな傷が重なるように痛みを増している。
 黄色いランプの明かりの下で居間の椅子に腰を下ろし、ニコルズ氏の机から持ってきた手紙を広げた。

「パット……」
 寝酒と共にそれを読み返しながら、ロイはそっと彼女の名を呟いていた。


*** ***


 ロイが帰っていくのを見た時、パトリシアの胸に言いようのない痛みが走った。
 彼を追いかけて、自分を一人にしないでと頼みたい……。そんな思いになっていることに気づき愕然とする。一体何を考えているのだろう。ここは自分の家であり、ここにいるのは皆、自分の家族のはずなのに。
 動揺していることを悟られたくなくて、着替えを口実にいそいで自室に戻った。扉をしめて鍵をかけるや否や、そのままぐったりと頭をもたせかける。とにかく一人になりたかった。さっきからずっと頭の中で、声にならない声がぐるぐると渦を巻いていた。大声で叫びたいのに、何を叫べばいいのかわからない。そんなもどかしさがあった。

 しばらくしてようやく、半ば放心したように部屋の大きな姿見の前に立った。帽子を頭からそっと取って下に落とす。今朝きっちりと編み込んだ髪は、荒々しく差し込まれたロイの手で、かなりくずされてしまっていた。鏡に映った自分の顔をぼんやり眺める。まだ唇が少しふっくらしているが、特にあの口づけの痕跡を留めてはいないようだ。
 手を上げて髪を留めていたピンを抜き、頭を二回振ると、柔らかいウエーブのかかった黒髪が腰の辺りまでサラリと流れ落ちた。ゆっくりと上着とブラウスを脱いで、肩にかかった髪を払う。薄手のシュミーズから出たむきだしの白い腕には、力いっぱい掴まれた時についたあざは、両側ともくっきりと残っていた。
 それを見下ろしながら、手のひらでゆっくりとその跡をなぞってみる。
 あの時、自分を焼き尽くさんばかりに見つめていた青い瞳が、再び目の前に蘇った。それを追い払おうとするように目をきつく閉じる。
 身体がまた震え始め、身を守るように両手をしっかりと身体に巻き付けるとがっくりとその場に膝を突いてしまった。
 熱い涙が頬を伝い、スカートに零れ落ちた。喉の奥から嗚咽にも似た小さなうめき声が漏れてくる。
 けれど、なぜ泣いているのか、パトリシア自身にもよくわからなかった。


 それから数週間が、苛立たしいほどゆっくりと、過ぎていった。

 戸外は陽気な日射しに彩られた、さわやかな初夏の風が薫る一年で最も好ましい季節を迎えていた。パトリシアの二十三歳の誕生日が近づいていたが、今年はそれを祝うような気分ではなかったし、事実、事態は一向に進展していなかった。
 忙しい合間にわざわざ来てくれたロイを、あんなに手ひどく屋敷から追い出してしまったのだ。ウェスコット事務所から何か連絡があると期待するのは、愚か以外の何ものでもない。頭ではそうわかっているつもりでも、まだ心のどこかで、ロイに望みを託していたのかもしれない。
 アーノルドの手前、表には決して出さなかったが、ロイから言伝て一つないことに、パトリシアはひどく失望していた。
 任せておけといった婚約者の言葉を、信じようと努力しているものの、日が経つにつれて疑問と苛立ちは募るばかりだった。アーノルドも、本当に捜しているのなら心配している自分達のために、それらしい情報の一つも教えてくれればいいのに。そんな気遣い一つない彼に、また憂うつな気分になってしまう。
 母を励ましながら、懸命に明るく振る舞っていたが、気分がふさいでどうしようもない日もあった。アーノルドが気晴らしに外へ連れ出そうとすることさえ、ここ数日は断り続けていた。
 捜索の結果を毎日のように尋ねてみるが、その都度アーノルドははぐらかしたり、なだめようとしたり、さらにはしつこいと言って不機嫌になるような有り様だった。婚約者が繰り返す「大丈夫だ」という言葉もあまり当てにはできない。やがて彼女はそう結論を下さざるを得なくなった。
 そうは言っても、毎日パトリシアの居る邸を訪れて、どうでもいいことを話し込んでいくアーノルドのおかげで、自分で動くこともままならない。元々信心深かった母、ニコルズ夫人は、ますます熱心に教会に通い祈っているようだったが、パトリシアはそんな母を見ながら、苛立ちを募らせていた。



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16/12/31
もう大晦日になってしまいました。
ちょっと中途半端なところですが、今回はココで。。。
皆様、よいお年をお迎えくださいませ。
2016年締めのご挨拶などを、ダイアリーにて少々…。