Chapter 2

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 ある日突然、ニコルズ氏から家族宛てに手紙が届いた。

「手紙が来たって?」

 いつものようにチャンドラー邸を訪れたアーノルドにそれを見せるなり、彼はほっとしたように笑みを浮かべた。
 そのまま応接間の椅子にくつろいで、メイドが持ってきたお茶を飲みはじめたが、パトリシアの浮かない表情を見て、怪訝な顔になる。
「どうしたんだい? よかったじゃないか。無事だと分かったんだから」
「それはそうだけど……」
 それは至極簡単な手紙だった。今急な仕事でモントリオールに来ている。もう少し帰れないが、心配しないでいるように、という短い文面に、サインがしてあるだけのものだ。だがそれは確かに父の筆跡だったし、その手紙によって、チャンドラー邸には安堵感が漂い、一度に『事もなし』という雰囲気になりつつあった。

 だがパトリシアは納得できなかった。その手紙には、心配しているであろう家族への気遣いの言葉すら、一言も書かれていない。こんなのはまったく父らしくないことだ。
 それにモントリオールでいったい何をしているの? 一目でも会えれば、もっと安心できるのに……。
 そうアーノルドに頼んでみるが、たちまち一蹴されてしまう。

「仕事だとここにもあるじゃないか。大体、モントリオールのどことも書いてないんだよ。君が行ってどうするつもり?」
「トーマス伯父様だったら、モントリオールの事務所とか、どこかご存じないかしら。身の回りのお世話とか、わたしでも色々できることはあると思うの。そうでなければ、無事な姿を見るだけでもいいわ」

 彼の表情が一瞬、引きつるように歪んだ気がした。だが、次の瞬間、眉を上げると皮肉に言った。

「へえ、それは知らなかったな。僕への気遣いも、それくらいあると嬉しいんだけどね。まあ、お父さんのことは大丈夫さ。きっとそういうご婦人が誰かついているだろうよ。それに終ったらきっとすぐに戻ってくる。それまで、僕と一緒におとなしく待っていたらいいじゃないか。君が行っても邪魔になるだけだろう? もちろん、お父さんに会いたい気持は分かるけどね。君はまだ、親離れできていないようだから」
「………」

 その時、セシリア伯母が笑顔で部屋に入ってきたので、その話はそれまでになった。パトリシアはその後、また黙り込んでしまった。

 何てことを言うのよ?
 パトリシアは内心ひどく傷ついたが、やはり顔には出さなかった。どうせ言い返しても三倍になって戻ってくるだけだ。いつものことなので、よくよく分かっていた。あれこれ言い合っても、結局疲れるだけ。この人はいつでも、何でも自分の思い通りにしなければ気が済まないのだから。
 そう、アーノルドが関心を持つのは、いつも自分のことばかり。それさえうまく運んでいれば、あとのことなど、どうだって構わない人。たとえばわたしの気持さえも、この人にとってはどうでもいいのかもしれない……。

 わびしくそう思った時、またロイのことが頭に浮かんだ。いつの間にか心の中でアーノルドと比べている自分を叱ったものの、完全に悪循環に陥って、ますます気持が滅入ってくる。
 わたしは、いったいどうすればいいのだろう?

 その日も長々とチャンドラー邸に居座りながら、パトリシアにはよくわからないアメリカの鉄道事業のことなどを得意げにしゃべっていたアーノルドが、ようやくセシリア伯母に暇を告げた時は、もう午後もかなり遅い時刻になっていた。伯母は嬉しそうに、明日もまた来るようにと勧めている。
 彼を見送ってから自室に戻ったパトリシアは、一人になって心底ほっとしている自分に気付いた。何だか頭痛がする。こめかみに手を当てて、窓辺のお気に入りの椅子に座り込んでしまった。

 彼と結婚したら、毎日こんなふうに過ぎていくのかしら。

 そう思うと、奇妙な虚脱感に囚われる。だが、自分以外は誰も、二人の婚約に何の疑問も持っていない。当のアーノルドですら、そうなのだ。
 彼も彼なりに、自分のことを愛してくれているのかもしれない。そうでなければ親同士が決めた婚約者のもとに、こんなに熱心に毎日のように通ってくるはずはないのだから。
 彼に愛されていることを、もっと喜んでもいいはずなのに……。
 結婚式は今年の秋、アーノルドが二十五歳になってすぐに予定されていた。あと半年たらずで、自分もホイットリー家の一員となり、トロント有数の贅沢な屋敷に住んで、ハンサムな彼と日々の生活を共にする日がくる。
 パトリシアの女友達は誰もが、そんな絵に描いたような未来を羨み、憧れのため息をついているというのに、これはやはり贅沢な悩みだろうか。
 唯一、彼女の気持を知る母親ですら、結婚して、一緒に暮らすようになれば、自然に情も近くなり、夫婦としての親密な愛情も湧いてくるものよ、と言うけれど。

 本当に、そうなの? 何だかとても……。
 心に寒々しい風が吹き込んでくる。突然、美しい自室がまるで牢獄のように感じられ、思わず立ち上がると窓を開いて外の空気を吸い込んだ。
 暮れていく空に、白い月がぽつんと浮かんでいた。


*** ***


 こうしてまた、日々は過ぎていった。気がつけば早くも六月半ばを過ぎていた。
 その日はホイットリー家で催されるパーティに出席しなければならなかったが、パトリシアは全く行く気が起こらず、アーノルドが迎えに来てもまだ、部屋でぐずぐずしていた。
 やがて業を煮やしたセシリア伯母が、メイドを連れて部屋に入ってきた。普段着のまま座っている彼女を見るなり、眉をひそめて厳しい声を出す。
「パトリシア。とうに時間だというのに、どうしてまだそんな格好でいるのです? アーノルドが下であなたを待っていますよ。さあ、この子に手伝ってもらって、早く出かける準備をなさい」
「もう、そんな時間ですか」
「『もう』、ここを出なくてはいけない時間です。ホイットリー家のパーティは七時からなんですよ。いったい今まで何をしていたんです?」
「ごめんなさい、ちょっと気分が悪くて……。今夜は出かけられそうもないですわ」
 伯母の厳格な表情が、一層頑なに強張った。
「わたしの若い頃には、大事な社交上の催しを少しくらい気分がどうとか言って、欠席するような不調法な真似は、決してしなかったものですけどね。今日はホイットリー家のご一族が集まるというのに、アーノルドと婚約しているあなたがはずしたら、後でエミーリアが皆さんに何と言われるか、考えてもご覧なさい」
「……もちろん、エミーリア伯母様にご迷惑をお掛けするつもりはありませんわ」
「では、よろしいですね。いそいで支度して下りてくるんですよ」
「……わかりました」

 伯母が出て行くと思わず顔をしかめながら、彼女はメイドが衣装ダンスから出してきたドレスに手を伸ばした。

 セシリア伯母様も、エミーリア伯母様も……まったく同じね。

 そう心の中でつぶやいて、小さなため息をつく。
 アーノルドの母親は、彼がまだ幼い頃に流行り病で亡くなっていた。そこへ後妻に入ったのがニコルズ氏の下の姉、現在、ホイットリー家の気位の高い女主人である、エミーリア・ホイットリー夫人だ。ホイットリー氏は先妻との間に息子が二人、そしてエミーリア夫人との間に娘が一人いたが、父の強い力の下、贅沢でわがままに育った三人は、皆よく似ていた。

 もちろんアーノルドにしても、根はそれほど悪くないのだと思いたい。彼は次男だったが、父親のトーマス・ホイットリー氏の大のお気に入りだった。そもそもホイットリー家といえば遠く開拓時代までも遡れるほど由緒ある家だったし、トロント市・名士録の筆頭近くに名前が上がっている。この一族を怒らせるのは得策ではない。それはトロントの社交界では常識だった。それゆえ二人の息子達までもが、無意味なお世辞賞賛と追従の中で、ちやほやと甘やかされて育つことになった。
 彼らの回りでは、決して余計な波風を立てないこと。それがこの男達をうまく操縦していく唯一の方法だということは、十六歳でチャンドラー邸に来てから今までに、彼女が幾度かの苦い経験から学んだことだ。

『こんな男と結婚したら君の人生は……』

 ふと、あの日のロイの言葉が蘇る。それを打ち消すように、彼女はぎゅっと目を閉じた。



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17/01/05
あけましておめでとうございます。
本年もボツボツやっていきますので、よろしくお願いいたします〜☆