Chapter 5

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 相手の渋面にあまりにも単刀直入に問いかけたので、ハンサムな顔に不意をつかれたような驚きが見えた。だがすぐにもとの意地の悪い目つきに戻ると、アーノルドはゆっくりティーカップを置いた。指で彼女のあごを持ち上げ、嫌味たっぷりに答える。

「いったい何の話をしているのかな? そんなことより他に僕に言うことはないのかい? たとえば昨夜の謝罪とか」
「こんなのいやよ、アーノルド」
 顔にふれる指を払いのけようとしながら、懸命に言った。
「それに夕べのことなら、あなたが本当にわたしを心配してくれたのか、怪しいものだわ」
 彼の眉が『おや』というように上がり、口元ににやりと薄笑いが浮かんだ。
「僕に口答えするとは、珍しいこともあるじゃないか。ふうん、そのほうが従順なだけの君よりはむしろ楽しめそうだな。もちろんある程度までならね。昨夜はいったいどこへ行っていた?」
「少し外の風にあたろうと散歩に出ていたの。あなたもご存知の通り、わたし気分が悪かったものだから」
 嘘がすらすらと口をつく。
「ほお、それであんな時間から、何時間もその辺をほっつき歩いていたって? いったいどこにいた? 誰かと一緒だったのか?」
 珍しく自分を心配してくれたのかと、少し心が和んだが、最後の一言に、思わず口元を引きつらせてしまう。
「……べつに」
「聞けば、戻ってきたのは真夜中だったそうじゃないか。夜更けに女一人で街に出たら危ない、ということもわからないほど、君は世間知らずなのかい?」
 もうたくさん! あざけるような口調にいつにもましてむっとなり、パトリシアは彼をにらみつけた。
「実を言うと一人じゃなくて昔のお友達といっしょだったわ。パーティで偶然会ったのよ。それでつい話が弾んで時間を忘れてしまったの。本当に心配をかけたのなら謝りますけど、あなたがそんなに気にかけてくれるとは、夢にも思わなかったんですもの。それに……」
 パトリシアは相手の激怒に負けじと目の前の婚約者をにらみ返した。そう、少しは勇気を出してみなくては。
「彼といるほうがあなたといるより、ずっと楽しかったんですもの」
「『彼』だって? 男か? いったい誰だ?」
 瞬間、彼の両手に腕をつかまれ、椅子から無理に引き起こされていた。
「古いお友達よ。手を離してちょうだい」
「僕を挑発する気か?」
 彼がさらに手に力を込めてきたので、慌てて振りほどいて身を引こうとした。だがそれより早く両手で腕を押さえられ、アーノルドの唇が重ねられていた。
 ぞっとして、パトリシアはとっさに覆いかぶさっている唇に歯を立てた。鋭い声が上がり、彼女は力いっぱい突き飛ばされて椅子もろとも床に倒れ込んでしまった。
 荒い息をつきながら顔を背けたパトリシアを見下ろして、アーノルドはハンカチで唇ににじんだ血をふき取りながら、冷たく言った。
「まったく急に威勢がよくなったと思ったら、これか。それが婚約者に対する態度なんだからな。君は少し、自覚が足りないと思わないか? 僕らの結婚式はもう二か月後なんだぞ」
「父が行方知れずなのに? こんな時にどうしたら結婚式ができるの? そんなことを言えるあなたの神経を疑うわ!」
「ヒステリーを起こすなよ。叔父さんだってそれまでには、帰って来るさ」
「どうして分かるの? もしやお父さんがどこにいるか、あなたは何か知っているの?」

 パトリシアがはっとしたように見上げると、アーノルドの冷やかな視線にぶつかった。彼はそれ以上は答えず、テーブルに置かれていた帽子をかぶる。
「次はもう少しまともなキスを期待しているよ」
「待って! あなた本当に何か知っているの?」
 答えのかわりに、ただ大きな音をたててドアが閉まった。


 一人になるとパトリシアは唇にそっと触れてみた。それからさっきの嫌なキスの感触を拭い去るように手の甲で何度も何度もこすった。
 同じキスでも何て違うんだろう。……あの人とは。
 またロイの顔が浮かんだ。目から知らず知らず涙が伝い落ちる。
 パトリシアは混乱したまま、ゆっくりと立ち上がった。そのまま夜まで自室に閉じこもっていた。


*** ***


 やっぱり、アーノルドと結婚なんかできない……。したくない。

 悩んだ末、ついにパトリシアははっきりそう結論付けた。誰の目を気にするでなく、自分自身の心に正直に向き合ったとき、ようやくはっきりわかったことだった。こんな簡単なことさえ、今までできなかったのだ。なんてがんじがらめに、しがらみに縛りつけられていたのだろう。
 父の無事を確かめたら、このいろんなもやもやした思いを正直に打ち明けよう。アーノルドのことはもとより、これまで十六の時からずっと、心にわだかまっていたことすべてを。

 だが現実には、いっこうに父から音沙汰はなく、書斎の鍵もどこにも見つからず、さっぱり埒が明かなかった。
 アーノルドとは結婚したくない。その意思をセシリア伯母や母の前で切り出してみたが、結果は散々だった。
「どうやら、まだ寝ぼけているようですね」
 伯母には一言で黙殺され、母は泣き出す始末だった。
 やはりトーマス伯父に直接会いに行こう。そして二人の婚約解消をお願いして、父のこともじかに尋ねてみるのが、一番早道かもしれない。

 ある朝、彼女はひそかに身支度を整えると、こっそり屋敷を抜け出した。
 さわやかな朝風が吹く六月末、トロントの市街地はいつもより一層雑然としているようだった。街角で新聞売りの若者が新聞を振りかざしながら、声高に叫んでいる。

「オーストリア=ハンガリー帝国の大公にして皇太子、フランツ・フェルディナンドがボスニアの首都サラエボで、セルビア人のガブリロ・プリンチップに暗殺されたとさ。さあ、一部買わないかい、そこのべっぴんさん」

 張り詰めた心を抱えたパトリシアは、そんな声など気にも留めず、足早に歩き続けていった。


 いつも車に乗っているため、歩く道のりは随分長く感じられた。
 ようやくホイットリー邸に着くと、パトリシアは重いノッカーをたたいた。
 出てきた年配の家政婦、ミセス・リースは、朝っぱらから訪れた彼女に、何の用かと言わんばかりの怪訝な目を向けたが、それでも丁重に中に通した。何しろ彼女はこの屋敷の女主人の姪であり、アーノルド坊ちゃんのご婚約者なのだから。
「トーマス伯父様はお部屋かしら。あら、ついてこなくてもいいわ、わたし一人で大丈夫よ」
「ですがお嬢様。旦那様や坊ちゃまは、お嬢様がお出でになることをご存知で……」
 家政婦のためらいがちの制止などには構わず、すでに彼女は中央の大階段を上り始めていた。トロントに来た十六歳の時からしょっちゅう行き来し、 完全に勝手知ったるこの屋敷の中だ。だが同世代の友人達の憧れのため息に もかかわらず、自分はどうしてもここを好きになれなかった。そして今、用 件が用件だけに、大嫌いなパーティに来るときよりも、一層緊張している。
 先ほど玄関ホールに置かれた大きな柱時計が、間延びした音で十時を告げていた。彼女はついてこようとした家政婦を手振りで追い払うと、心を奮い立たせるように二階まで一気に駆け上がった。平常通りなら、朝のこの時間は、忙しい伯父もまだ外出していないはずだ。そしてアーノルドも自室でくつろいでいるだろう。パトリシアはアーノルドの部屋のある三階に不安そうな目を向けた。
 伯父との話が終わるまで、何とか顔を合わさずにすめばいいけれど。

 目指す部屋の前に立つと、深呼吸して気持ちを落ち着けようとした。父にさえあまり口答えしない彼女にとって、一族の中で最も有力な伯父に直談判をするなど、少し前なら考えもつかなかっただろう。そして彼女が知る限りでは、他のいとこ達がしたという話も聞いたことはない。
 もし、まるきり取り合ってもらえなかったら、どうなるのだろう……?
 でも、やってみるしか道はないんだわ。
 覚悟を決めてノックしようとしたとき、扉越しにかすかな話し声が聞こえた。はっとして手を止め、音をたてないようゆっくりと慎重にノブを回してみた。ほんの僅かな隙間分だけ押し開けることに成功すると、よりはっきりと聞こえるようになり、途端にありがたくもない声が耳に入ってくる。
 彼女はうめき声を押し殺してその隙間から室内をのぞき見た。まだガウンを着たままの伯父がどっかりと腰を下ろした安楽椅子の前で、こちらに背を向けたまま何か小言を言っているのはアーノルドだ。その横の肘掛け椅子には、兄のディッキーがのんびりとくつろいで、苛立つ弟を面白そうに眺めている。

 どうしよう。これでは兄弟が出て行くまで、どこかに隠れて待っているしかないのでは……? そう思いかけたとき、アーノルドがうんざりした調子で口にした文句が聞こえ、パトリシアは全身がこわばった。もっとよく聞き取ろうと必死になる。

「いつまでこんなことを続けるつもりなんですか? 僕の身にもなってほしいですね。彼女は今叔父さんのこと以外頭にないって有り様なんですよ。毎日毎日そればかり聞かれて、もううんざりです!」


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17/02/08