Chapter 5

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「父親思いのよい娘じゃないか。娘はそうでなくてはいかんよ。何、そんなもの、適当にあしらっておけばすむことだ。女の扱いというものをまだまだ心得ておらんな、お前は」
「いや、彼女は見かけによらず特別頑固なんです。僕の顔を見れば、『今日は何かわかったの?』とくる。先日など危うくカルティエ・スクエアに 行けばいいと、喉元まで出かかったんですからね! 彼女も彼女だ。僕に 会えて嬉しそうな顔の一つもすれば、もっと可愛げがあるものを」

 ……カルティエ・スクエア……!?
 どこなの? それじゃ、お父さんは今、そこにいるって言うの?

 思わず顔から血の気が引いていく。この人達のせいだったなんて。はっきりと耳にしてしまった今でも、にわかには信じられない思いだ。
 アーノルドがまた、いらいらと歩き回りはじめた。
「そりゃ、いかん。まさか口を滑らせなかったろうな」
「大丈夫ですよ」
 少し声を荒げる父に、アーノルドはしぶしぶ頷く。ディッキーが面白そうに笑った。
「お前はまだまだ未熟だね。それにしても、確かに美人には違いないがあんな気取りかえったお堅い娘の、どこがそんなにいいのやら。俺にはさっぱりわからんよ」
「兄さん、自分の物差しで計らないでほしいな」
「ディック、そうからかうな。それにアーノルドもだ。かりかりするなよ。おそらくもう少しだろう。かなり時間がかかったが、彼が首を縦に振って売却し、例の証書の在りかを教えればほとんど片が付く。今はまだ頑張っているがね」
「それにしても叔父さんは、いったい何がそんなに不服だというのですか?」
 ディッキーだ。
「こんな莫大な利益が確実に見込める話、プリンス・エドワード・アイランドやノヴァスコシアの田舎では到底望めないと思いますがね。利益構造はもちろん話しているんでしょう?」
「まったくな……」
 葉巻をくゆらしながら伯父がゆっくり答えている。
「あれは やはり愚か者だ。良心の問題だとか言い張りおって……阿呆だな。娘の頑固さは父親譲りに違いない。それはそうとアーノルド、奴の部屋から関係のものは皆持ち出してきたのだろうな? さして重要なものはないかもしれんが、万が一ということもある。決して人目に触れさせてはならんぞ」
「ええ、それはもう。確かに僕の部屋に保管してありますよ。それに叔父さんの書斎にはしっかり鍵をかけてきましたから、これ以上彼女に余計な詮索をされる気遣いもないでしょう」
「あの娘がまだ不審がっているのは、お前がしっかりせんからだぞ」
「僕だって精いっぱいやってるんです! あの質問には本当に辟易しますよ。彼女はもう僕の妻も同然なのに。いっそさっさと結婚して、洗いざらいぶちまけてしまいたいくらいです!」
「まあ、待て待て。ところで、ディッキー、昨日お前に話した鉄道債のことだが……」


 もう、それ以上聞く必要はなかった。パトリシアは身体の震えを懸命に抑えながら、扉からそっと身を離すと、中央階段ではなく使用人達が使う廊下の左端についた狭い木の階段へと、物音を立てないように移動した。
 いつの間にか、呼吸すら止めていたらしい。苦しくなってから、やっとあえぐように大きく息を吸い込んだ。
 たった今耳にした話は、まだ信じ難かった。だがもう間違いない。
 伯父様が父を連れ去っていたなんて。アーノルドは、最初から何もかも知っていたのだ。みんな知っていて、わたしも母も、セシリア伯母までも欺いていたのだろうか?
 わたし達がどんなに心配しているか、全部見て知っていたくせに。酷い……。
 それに、さっきの話はいったいどういう意味だろう。伯父達がまさか何か悪いことでも?
 頭が大混乱していた。今まで信じていたもの、拠り所だった全てが、がらがらと崩れていくような衝撃に、目がくらみそうになる。だが考えてみれば、思い当たることはいくらでもあったのだ。今まで何の疑いも持たなかった自分はなんと愚かだったことか。

 とにかく、アーノルドの部屋に行かなければ。彼が話を終える前に。


*** ***


 鼓動がこれ以上速くなったら、心臓が壊れてしまう……。
 パトリシアはどくどくと激しく打ち続ける胸を片手で押さえながら、震える足を懸命に奮い立たせていた。
 三階に上がると、アーノルドの部屋の近くでメイドが廊下の花瓶を磨いていた。内心金切り声を上げたくなったが、とっさに壁に張り付いた彼女に気付くことなく、メイドは掃除を終えて行ってしまった。
 ため息をついて再び周囲に目を走らせると、パトリシアは婚約者の寝室に滑り込んだ。

 アーノルドの部屋は、几帳面な性格がそのまま反映されて、万事きちんと整えられていた。この部屋だけでも彼女達一家が暮らせそうなほど広い。洒落たアンティークのランプやチェストなどの調度品から、彼のお気に入りの肘掛け椅子や絵画まで、ほとんどケベックから取り寄せたヨーロッパの品ばかりだった。
 パトリシアは、室内を見渡し掃除とべッドメーキングがすでに終わっているのを見てほっとした。これならしばらくはメイドも来ないだろう。
 どこを探せばいいのか、さっぱり分からなかったので、とにかくこの部屋にある引き出しや隙間、その他書類が収納できそうな場所を片端から調べた。飾り棚、テーブルの引き出し、チェストの中までくまなく探す。
   夢中であちらこちら覗いていると、廊下からかすかに靴音が聞こえてきた。パトリシアはびくりとして顔を上げた。どうしよう、彼が戻って来た!
 慌てて部屋の一番奥にどっしりと置かれた天蓋つきの大きな寝台の下に潜り込んだ。緊張に息がつまりそうになる。だが足音は部屋の前を通り過ぎてしまった。
 ふと、寝台の下に置かれていた木彫りの衣装箱を見つけた。ベッド下から這い出すと、それを引きずり出して開けてみる。アーノルドの衣服に混じって、キャメル色の皮製の文箱が入っていた。それが父のものだったことを思い出す。以前書斎の机の上で見た覚えがあった。
 ふたを開けると、何通もの書類が入っていた。そこに書かれた数字や文面が何を意味するのか、自分にはさっぱりわからない。でもあの人なら、きっと……。
 そのとき、また足音が聞こえた。今度こそアーノルドだ。慌てて衣装箱を寝台の下に押し戻し、自分も再びその傍らに潜り込んだ。ベッドの下から改めて部屋の床を見て、ぎょっとする。後片づけがほとんどできていない。めちゃくちゃ、というほど散らかしてはいないが、誰かが侵入したことは一目瞭然だ。

 案の定、アーノルドは部屋に入るなり足を止めた。小声で悪態をつく声が聞こえてくる。
「これは、いったいなんだ! おい、マーサ!」
 激怒したように掃除係のメイドを呼びながら、ドアを開けたまま再び出て行ってしまった。メイドが途中でさぼっているとでも思ってくれたのだろうか。
 だが、まったく安心できなかった。自分がここに来ていることは、ミセス・リースが知っている。アーノルドに伝わるのはもはや時間の問題だ。見つかる前に、一刻も早くここから逃げ出さなければ。

 パトリシアは文箱をぎゅっと胸に抱えると、寝台の下から這い出し足音を忍ばせてドアまで進んだ。素早く左右を見て彼が中央階段の方に行ったのを確認すると、そっと廊下へ出る。
 アーノルドの声がまた廊下の向こうから聞こえた。さらに帽子と帽子ピンが頭にないことに今気付く。どうしよう。さっき落としてしまったようだ……。
 心臓が今にも口から飛び出しそうになってきた。とにかく反対の方向に走る。今見つかったらお終いだ。
 左端の階段までくると、急いで駆け降りようとした。だが、二階を見下ろした途端、フェリスが猫のようにのんびりと、ふんわりしたガウンにくるまって部屋から出てくるのが見えた。どうやら起き抜けらしい。
 お願い、早くどこかに行ってしまって!

 パトリシアは再び今来た廊下に気遣わしげな目を向けた。ここにいてはアーノルドが戻ったら、たちまち見つかってしまう。どうするの? いけない、もう来たじゃないの!
 必死に辺りを見回すと、階段の脇にあった小さな道具入れが目に留まった。今までそこにあることさえ気付かなかったが、考える暇もなくその戸を開いて身体を押し込んだ。スカートのすそがはみださないよう手で押さえ、しゃがみこんで懸命に戸を閉める。
 文箱は胸にしっかりと抱きかかえたまま、ぴったりと壁際に張り付いた。
 中は人が一人、座ってようやく入れるほどのスペースしかなかった。クモの巣が髪についたような気がする。光は足元の隙間から僅かに差し込むだけになった。
 暗くて狭くてモップや雑巾の臭い匂いがした。足元でねずみが一匹、ちょろちょろと動き回っているのを感じ、パトリシアは危うく声を飲み込んだ。
 廊下を慌てたように人が行き交う音がする。アーノルド達かもしれない。 限界に近かったが、彼女は唇を噛み締めて、ひたすらそこにじっとしていた。
 足が痺れ、どれくらい時間がたったのか分からなくなった頃、やっとホイットリー邸はまた元通り、静けさに包まれた。アーノルド達は出かけたのだろうか。廊下に人の気配が感じられない。
 よくよく聞き耳を立て、声や足音がしないのを確認しながら、パトリシアはおそるおそる道具入れの戸を開いた。左右を確認し誰もいないのを見て、ほっとする。
 文箱を抱きしめたままゆっくりと足を伸ばした。しばらくじっと痺れが切れる痛みをこらえていたが、動けるようになると一気に階段を駆け下りた。

 ようやく屋敷の外に出ると、すでに太陽は中空よりも西に傾きかけていた。パトリシアはひたすら走った。もはやチャンドラー邸に戻ることはできない。
 今、行く先は一つしか思いつかなかった。


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17/02/13