Chapter 6

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 パトリシアの手がピクリと震えたのを敏感に感じ、ロイは握った手になお一層力を込めた。さらにもう片方の手で彼女の頭を押さえると、徐々にキスを深めていく。
 だがそうしながらも、彼の心の中では再び葛藤が始まっていた。
 こんなことを続ければ、ますますのっぴきならない深みにはまり込むばかりだ。もう二度と、彼女を放せなくなってしまうかもしれない。
 ロイのためらいは、彼女にも伝わったようだった。パトリシアは自ら彼を求めるように柔らかな唇を開いていた。熱い舌の侵入を彼女が進んで迎え入れたとき、ついに彼のためらいと優しさは消え、切羽詰まった思いだけがいっそう露になった貪欲なキスに変わっていった。
 周囲の宵闇が次第に濃くなっていく。二人は他のいっさいが消え失せたように、ただひたすらにお互いの存在とお互いの感触を確かめ合った。その刹那、二人は互いを他の何よりも誰よりも必要としていた。
 むさぼるような激しいキスの合間、ロイは時折僅かに顔を上げ、ランプの光に半分陰になったパトリシアの表情を、確かめるようにじっと見つめた。まるで初めて相手を見るように、ただ見つめ合っては再び唇を重ね舌を絡ませることを幾度も繰り返す。
 あらゆる思考や観念、常識までもが、身体の奥から押し寄せはじめた激情の波に飲み込まれて、意味を失っていった。
 何度目かの長いキスからようやく解放されたとき、パトリシアはあえぐように息をつき、自由な方の手を彼の少し湿った髪から首筋へと這わせていった。だが、顔を上げたロイのブルーの瞳に浮かんだ表情を見た途端、ひどく困惑し怖くなった。彼の眼差しに縛られたように、動くことも視線をそらすこともできない。

 唐突に、もぎ離すようにロイが身体を起こした。あまりにも急な動作だったので、パトリシアは拒絶されたように感じ呆然とした。彼はしばらく、こちらに背を向けたままじっと動かなかった。ようやく振り向くとパトリシアの戸惑いの浮かんだ黒い瞳を見返し、弱々しく微笑みかける。
「ここで休んでいてくれ。すぐに戻るよ」
 早口でそう言うなり、彼女の視線を避けるようにあわただしく外に出て行ってしまった。


 ロイがいなくなった途端、事務所はひどく無機的な場所になった。
 ランプの光に照らされた室内は、書物と書類のぎっしりつまった本棚が壁の半分以上を占めている。見回してぶるっと身震いした。そのまま横たわっているうち、気持は少し落ち着いてきた。たった今ロイと交わした激しいキスは、少なくとも彼女の中から、今日一日味わってきた恐怖心を追い払ってくれるに足りるものだった。
 だがその代わり今度は、身体の芯がうずくような満たされない感覚を味わっている。
 目を閉じて、懸命に訳のわからないその感覚を鎮めようとした。突然身体を離したときの彼の表情を思い出す。もしかしたらあの人も、こんなふうに感じていたのだろうか。

 頭が混乱しきっていた。まるで一日、嵐の中を駆け抜けてきたような気分だ。
 ふらふらしたがどうにか立ち上がると、壁にかかっていた鏡を覗き込んだ。思わずうめき声をもらす。なんて悲惨な格好……。ロイが自分を見るなり絶句したのも無理はない。こんな姿を衆目にさらしていたのかと、消えてしまいたいような気がした。
 ひどく心細くなってきた。あの人がわたしを置いて帰ってしまうはずはないのに……。


*** ***


 さっとドアが開き、彼がいくつかの包みを抱えて戻ってきたのを見たとき、パトリシアは思わず涙ぐんでしまった。ロイは来客用のテーブルに包みを並べながら、鏡の前に立っている彼女に眉をひそめた。
「起きたりして大丈夫かい? まだ横になっていたほうがいいんじゃないか」
「……何とか、大丈夫そうだわ」
 思ったよりしっかりした声にほっとして、彼は一番大きな包みを彼女に手渡した。中からは、白い木綿のシャツブラウスと、レンガ色の格子模様で装飾はないが機能的なロングスカートが出てきた。ロイが照れくさそうに説明する。
「近所の洋品店で見繕ってきたんだ。こんなのしか買えなかったけど、なんとか目をつぶって我慢できるかな。君のいつものドレスからすればまことに申し訳ないが、今着ているそいつよりはよっぽどましだろ? 着替えたら、気分ももっとよくなるさ」

 その不器用な優しさが胸にしみた。途端に張り詰めていたものがぷっつりと切れてしまう。手にした服を取り落とし、コーヒーポットを取りにいこうと後ろを向いたロイの背中に駆け寄ると、その身体に腕を回してとりすがった。びくっとしたようにロイの動きが止まる。
 涙が後から後から溢れ出し、どうにも止まらなくなった。彼女のすすり泣きはやがて嗚咽に代わり、気がつくと子供のように泣きじゃくっていた。今日一日、味わい続けた衝撃と緊張が、一度にほどけたようだった。また彼の服をぐしょ濡れにしてしまうと頭の隅でぼんやり思ったが、涙はどうにもとまらない。
 背中で泣き続ける声を聞きながら、ロイは全身をこわばらせていた。どうにか自らを厳しく戒め、向きを変えて彼女の背中を控え目にさすってやる。次第にしゃくりあげる声が収まり落ち着いてきた。床に落ちていた衣服を拾い上げ手渡しながら、ロイはわざとぶっきらぼうに言った。
「落ち着いたらとにかく着替えてくるんだ。いったい何があったのか、あとで全部説明してもらうからね」


 ようやく服を着替えると、パトリシアはくしゃくしゃにもつれた黒髪を下ろして手櫛で梳いた。ピンを随分落としていたため、元通り結いあげることもできずに、やむなくそのまま背中に流す。
 事務室に戻った彼女を見るなり、ロイは懐かしそうに目を細めた。

「そうしていると、なんだか……、あのころを思い出すな」
 もっと何か言いたそうに唇が動くのがわかったが、結局彼はまた手元に視線をそらしてしまい、座るよう低い声で促しただけだった。彼女も黙って従った。
「……本当にありがとう。あなたには……」
 ようやく口に出した感謝の言葉も、無造作な一瞥にさえぎられてしまう。
「その調子じゃ夕飯もまだなんだろう? この界隈じゃ、サンドイッチと卵くらいしかなくてね。一応こいつを買ってきたが、向こうのカフェにでも行くかい? そうすればもう少しまともなものが食べられるけど」
「いいえ、ここにいる方がよほど安全だもの。それに……」
 朝からほとんど何も食べていなかったの、とつぶやいた途端、ロイはパトリシアが思わずひるむほどの勢いで怒っていた。
「馬鹿だな! なぜもっと早く言わなかったんだ! まったく信じられないよ。それじゃ貧血を起こすはずさ!」

 彼女にも自分にも腹を立てながら、大急ぎでハムとチーズをはさんだ分厚いサンドイッチとゆで卵を皿に盛り付け、さらに入れ直したばかりの熱いアメリカンコーヒーをカップになみなみと注いで、彼女の前に置いた。
「こんなものしかなくてすまないが……、慌てなくていいからゆっくり食べるんだ」

 パンを見た途端、激しい空腹を覚えた。空っぽの胃がシクシクと痛みはじめる。二人は向き合ったまま、しばらく黙々と食事をとった。


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17/02/28