Chapter 7

page 2


 ロイはベッドメイクを終えるといったん部屋を出て行き、やがていっぱいに満たした水差しと洗面器を手に戻ってきた。
 その二つをベッド脇の小テーブルに置き、彼女の方はろくに見もしないで二言三言必要なことを言い置くと、そっけなく「それじゃ、おやすみ」と言って部屋から出て行こうとした。
「あ、あなたはどこで休むの?」
 また馬鹿なことを言ってしまった。そう気付いた時はもう遅かった。パトリシアは不自然に大きく息を吸い込んだ。彼はドアの手前でぴたりと足を止め、顔を心持ちこちらに向けた。
「そうだな……。君がそのベッドで僕と一緒に寝てもいい、と言うのでなければ、僕は向こうの椅子で寝るしかないだろうね」
 皮肉たっぷりの言葉に真っ赤になって黙り込んだ彼女にそれ以上見向きもせず、ロイはさっさと寝室から出て行った。


 もう限界だ……。

 寝室のドアを後ろ手に閉めるなり、ロイはがっくりと扉の木の枠に頭をもたせかけた。さっきから胸の鼓動が、彼女に聞こえるのではないかと不安になるほど大きな音を立てている。彼は居間のカウチに、力なく座り込んだ。
 本当に限界だった。これ以上彼女のそばにいたら、間違いなくどうにかなってしまう。ベッドの脇に、はにかむように立っていたパトリシアは、あまりにも無防備で女らしかった。そして今身に着けている簡素な衣服のせいか、サマセット村での彼女の記憶が、いっそう鮮やかに呼び起こされて、今のパトリシアに重なる。

 大切な、誰よりも愛しい、俺のパット……。

 もしも彼女に、今の自分の内心がちらりとでも垣間見えたら、とても隣合った部屋で安らかに眠ることなどできないだろう。こんな羽目になるとわかりきっていたからこそ、決してここに連れてきたくなかったのだ。

 ただもう、やみくもに彼女が欲しくてたまらなかった。原始的とも言える飢えに、思わず漏れそうになるうめき声を喉の奥で懸命に押し殺す。
 今すぐ隣の部屋に取って返し、この気持を率直に打ち明けてしまいたい。彼女を抱きすくめ、自分の中に長い間積もりに積もった、あらん限りの思いと情熱のすべてをぶつけてやりたかった。彼女の甘い香りを嗅ぎながら、やわらかな白い肉体に溶け込んで、共に全身全霊をかけて、まだ味わったことのない二人だけの歓喜の扉を開くことができるなら……。
 そして、パトリシアも少なくとも肉体的には自分に応えてくれるかもしれない。彼女の今までの反応を思い出しながら、手のひらがじっとりと汗ばんでくる。

 たった今、そうせずに切り抜けられたことが、まるで奇跡のように思われた。


「ロイ……」
 間近で思いがけない声が聞こえ、ロイははっとしたように顔を上げた。
 いつの間に部屋から出て来たのか、パトリシアが目の前に、尋ねかけるような眼差しで立っていた。細い指先が彼の髪にそっと触れ、陰になった表情を覗き込もうとするかのように、前かがみになる。
 長い黒髪がさらりと、顔の前で揺れ、ロイはびくりと身体を震わせたきり、また横を向いてしまった。
「……何か?」
 自分の声とも思えない声がたずねる。
「ごめんなさい。怒っているんでしょう? わたしがあなたに、ひどく迷惑をかけているから」
 少し自信のない、ためらうような抑揚。
「いや、そんなことはないさ」
「じゃあ、どうしてわたしの方を見ようともしてくれないの? さっきからずっとだわ」
「……そんなことないよ」
 声が、ますます低くかすれた。


 一方パトリシアは、だんだんと腹が立ってきていた。何か言いたいことがあるのなら、自分に直接ぶつけて欲しかった。怒りでもその他の何でも、正直に。
 ここまで来て、こんなふうに曖昧な態度で無視されるのは一番我慢できない。彼女は一歩下がると腰に手を当て、今度はやや問い詰めるような口調になった。
「でも、実際あなたは今ろくに口も聞いてくれないじゃない。いったいどうしたって言うの? わたし、あなたと二人きりになったら、話したいことだって山ほどあったのよ。そう、あなたが今一人で座っているその椅子にでも一緒に座ってね」
「……ご期待にそえず、申し訳ないが……」

 しばらく沈黙した後、ロイはふうっと大きなため息をつくと、疲れきったように片手で首筋をもんだ。ようやくパトリシアの方に目を向ける。途端にその視線に射すくめられたように、彼女の心臓が再び跳ね上がった。
「そんなことをするには、もう時間が遅すぎるんじゃないかな? 君はとても疲れているはずだよ。頼むから、早く部屋に戻って休むんだ。まだ僕が、どうにか……、持ちこたえている間に!」

 ふいに、彼女におおいかぶさるように立ち上がった彼の瞳が、一瞬ランプの光にゆらめき、金色に燃え上がったように見えた。
 パトリシアははっとして、もう一歩後ずさった。彼の言葉に反応するように全身がかっと熱くほてり、脈がますます速くなっていく。
 それでもひるまず、勇気を奮い起こした。彼女の唇から、囁くような問いがこぼれる。
「どうして、持ちこたえなければいけないの……?」

 答えるよりも早く、考えるよりも先に、ロイの両手がパトリシアの両肩にかかっていた。がくがくと彼女を力いっぱい揺さぶってやりたいのを、すんでのところで抑えているように、腕が小刻みに震えている。

「いい加減にするんだ。そんなことばかり言っていると、本当にどうなっても知らないぞ! 僕の手がさっきから君に触れたくてどんなにうずいているか、君にはまだわからないのか? 僕が今、どんな思いでいると思ってる? 今日まで、僕がどんな思いでいたと思ってるんだ? ああ、畜生!!」

 淡々としていたロイの声が突風に押されるように、突然危険な雰囲気を帯びた。
 かすれた叫びが彼の身内から湧き上がった瞬間、パトリシアは息もできないほど強くロイの腕に抱き締められていた。


NextNexttopHome

-------------------------------------------------
17/03/14