Chapter 8

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 アーノルドが絶句した。狼狽のあまり注意がそれ、ナイフの切っ先が彼の首筋から離れた。
 すかさずロイは、右足でアーノルドの腕を蹴り上げ、ナイフをすっ飛ばすと、さらにその足で股間を思い切り蹴りつけた。床にナイフが音を立てて落ち、アーノルドは痛みにあえぎ声を上げながら、どさりと尻餅をついた。
 昔とった杵柄で、喧嘩の仕方は多少心得ていた。ロイは背後の男の腹に思い切り肘鉄を食らわせ、相手がひるんだ隙に渾身の力で身をもぎ離した。返す拳で男を殴りつけると、ナイフを拾おうとして、床の上で懸命に手を伸ばしているアーノルドに、テーブルの水差しの水をぶっかけ、夢中で組み付いていく……。

 この大騒ぎに、コンウェイ邸の他の下宿人達も目を覚ましたようだ。隣の部屋から抗議するような怒鳴り声が聞こえ、ロイがそれに答えて大声で叫んだ。誰かが階段を上がってくる足音がし、廊下が何やら騒がしくなる。
 だが部屋のドアが開くよりも早く、駆け寄った黒服の男が内からかんぬきを下ろしてしまったので、ノブは音を立ててむなしく回るばかりだった。
 ロイとアーノルドは取っ組み合って、しばし薄暗い部屋の中を転がった。頭と上着がびしょぬれになった上、数発殴られたアーノルドは、男に向かって「早く何とかしろ!」と金切り声を張り上げている。お互いに落ちたナイフを掴もうと争ったが、ナイフはさらに床を滑ってカウチの下にもぐりこんでしまった。

「パトリシアをどこへやった? 答えろ! ホイットリー!」
 ついに荒々しく息をつきながら、ロイがアーノルドの襟首を締めてすさまじい顔でそう迫ったとき、頭上で男が何かを振り上げた。
 はっとしたが避けきれず、何か鈍器のようなもので後頭部を殴りつけられ、その場にうずくまってしまう。視界が二重になり、意識が遠のいたり近付いたりし始めた。アーノルドは助け起こされ、ぜいぜい言いながらハンカチで腫れかけた顔をぬぐう。

「ちっ、下ろしたばかりの服がメチャクチャになった。こいつを押さえろ。早く探して、ここから出なければ」
 すぐにロイは男が懐から取り出した紐で両手を拘束され、声が出せないようさるぐつわまで噛まされてしまった。再び激しいノックの音が二度三度と響いたが、部屋が静まるとともに、廊下のざわめきも次第に消えていった。

「薄情な隣人を持ったな、クライン」
 床の上に転がされたまま目を閉じて、ただ大きく胸を上下させているロイを見下ろしながら、アーノルドがあざ笑った。それ以上、無駄な時間を費やさず、部屋を手当たり次第に探し始める。テーブルに置かれたままになっていた鞄の中から、ニコルズ氏の文箱が見つかるまでに、そう時間はかからなかった。


 中を見てほっとしたように書類をポケットにしまい込むと、アーノルドは男を振り返った。
「やれやれ、二重に厄介なことになった。どうやらこいつも車で一緒に連れて行くしかなさそうだ」
「しかし……、それではミスター・ホイットリーが何とおっしゃるか……」
 男が口ごもっている。一方ロイは、それを聞いてはっと目を開いた。
 車で一緒に? パトリシアもまだそこにいるのか? それなら……。

 抵抗するのをやめ、両脇を抱えられるようにして人気のない通りを歩きながら、ロイはずきずきする頭で必死に考えを巡らせていた。


 長かった夜が、白々と明け始めていた。

 数ブロック先に車が見えてきた。だが車を覗いた途端、アーノルドがぎょっとしたように、周囲を見回した。車の中は文字通り、も抜けの空だった。
「逃げた? まさかそんなはずは……。探すんだ! 女の足で、それほど遠くまで行けるわけが……」
 そのとき付近の建物の陰から、ロイの聞き慣れただみ声が、大声で呼ばわった。
「こっちですぞ! 急いで! こっち。暴漢だ! 早く来てください!」
 誰かが近づいてくる足音が聞こえ、アーノルドと男は咄嗟に顔を見合わせた。そのとき、ロイが残る力を振り絞って、自分を押さえていた男を頭と肩で力いっぱい突き飛ばすなり、走って逃げ出した。背後でアーノルドの押し殺した叫び声が聞こえたとき、誰かがロイの腕を掴んだ。
 耳元で、「いいか、走るからな」という囁きが聞こえ、二人は全力で近くの建物の細い隙間に駆け込んだ。
 そのまま、ぐいぐい引っ張られて、息もつけずに下町の複雑な路地裏を走る。
 朝日が昇り始めた。アーノルドと男は少しの間、呆然としていたが、やがて車に乗り込むと、エンジン音とともに走り去っていった。


 助かった……。

 それ以上追ってこないとわかるや、ロイはつんのめるように地面に膝をついた。口の戒めが解かれ、ぜいぜいと激しく息をあえがせていると、頭上から皮肉たっぷりの声が聞こえてきた。
「この大馬鹿者が。おかげで、寿命が十年は縮んだぞ。何か、わしに言うことはないのか?」
「……そんなふうに突っ立っていないで……、早くこの腕も解いてくれませんかね」
 心の底から嬉しさがこみ上げてきたが、あえて憮然とウェスコット氏を見上げた。深い安堵感を押し隠すように、ぶっきらぼうに答えたロイの顔を見るなり、氏は一声唸り、大きく首を振った。

「だからわしが、あれほど……」
「どうして……、来てくれたんですか?」
「どうして、だと!?」  ぜいぜいと問いかけるなり、たちまち雷が落ちる。
「お前とミス・ニコルズの件で、今夜我が家に何度、ホイットリー家から人が来たと思っとる! 何かあったかと様子を見に来て見れば、案の定この始末だ……。わしがあれほど言ったそばから、こんな厄介事に巻き込まれおって!」
 激しい口調で叱りつけながら、腕も解放してくれる。ロイの身体がぐらりとかしいだ。
「おい、しっかりしろ!」
「彼女は……どこに……います?」

「ロイ、ロイ! ああ、神様……。なんてひどいことを!」

 パット……、無事だったんだな……。
 かすんでいく意識の端で、彼は泣きながら駆け寄ってくるパトリシアの声を確かに聞いていた。


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17/04/04