Chapter 9

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「もう夏だな……」
 チャールズ・ニコルズは、四階の窓越しに見える青空を眺めて呟いた。
 彼がモントリオールのカルティエ・スクエア界隈の一角に建つこの安ホテルの最上階に突然身柄を移されてから、早くも二か月近く経過していた。

 最初に連れて行かれたホテルより待遇は数段悪くなり、食事も粗末になった。こうして軟禁状態に甘んじながら、もう何週間経ったのだろう。うんざりするような日々が、ただのろのろと過ぎていくばかりだった。
 毎日入れ替わり立ち替わり訪れては、荒っぽい言葉を吐きながらテーブルを叩いていくラトランド商会の連中以上に、気を滅入らせるのは、その商会と結託しているトーマス・ホイットリーその人だった。
 義理の兄に当たるこの男は、週に一度くらいの割合で訪ねてきては、切り出す頃合いを見計らうような世間話に加えて、彼の保有する鉄道債と一部の土地の商会への売却を熱心に勧めていく。
 トーマスがそれほど入れ込んでいるラトランド商会だが、なぜか紹介されたときの印象から気に入らなかった。さらに、身内だからと詳しい事情を打ち明けられたのが運のつきで、彼がその取引に同意しないばかりか、鉄道債の価格操作と裏取引で財を築くことを激しく非難し、当局に報告しなければならないとまで言った途端、相手も強行手段に出たのだった。
 もとより胡散臭かったラトランドの連中以上に、身内から受けるこの不当な扱いの方が、何倍もこたえた。この前もトーマスは、去り際にこう捨て台詞を残していった。

「あと少しで、商会とガヴァナーとの大取引が終わる。そうしたらまたゆっくり話をしよう。きれい事だけで、この世は渡ってはいけないのだよ。君も目を開いてそろそろ自覚するべきだ」

 トロントからモントリオール、さらにカナダ全土にまで通じる道の第一歩だと、彼は息巻いている。曽祖父の代から築いてきたホイットリー家をさらに巨大に堅固なものにしようという、野心と実業家魂に取り付かれているらしい。その目的は大いに結構だし賞賛に値しよう。だが問題は手段だった。
 愚かな、と彼は深いため息をついた。建物は堅固な岩の上に建てるべきなのだ。地盤そのものがいつぐらついてもおかしくない土壌に、どんなに壮麗な宮殿を建てようとも、僅かな衝撃から崩れかねないとなぜ気付かないのだろう。
 彼はこれまで、己が良心に恥じることなく生きてきた。どれほど莫大な利益が約束されようが、今更その生き方を変えたいとは思わない。良心の安寧こそ人生で最良のものだと、この歳になってはっきり言うことができる。


 そう考えていると、背後で小さな丸テーブルにお茶の用意をしていた中年の婦人が、愛想よく呼びかけた。
「旦那様、お茶が入りましたよ。どうぞお座りくださいな。冷めてしまいますからね」
 ありがとう、そう言って彼がゆっくりとテーブルに着いたとき、ノックもなしに、勢いよく部屋の扉が開いた。
 ずかずかと入ってきたトーマス・ホイットリーの顔を見るなり、彼は無意識のうちに身構えるようにゆっくり足を組み直し、皮肉な口調で声をかけた。
「今日はいつもより数倍ひどいな。もう少し礼儀というものをわきまえてほしいものだ」
「非常時に、礼儀など構っていられるか!」
 珍しく荒い語調で遮ると、ホイットリーは、被っていた帽子をかたわらの長椅子にほうり投げ、向かいの椅子にどっかと腰を下ろした。一見いつもと変わらぬ紳士ぶりだが、息子によく似たその目には、焦りと苛立ちの色が浮かんでいる。

 事実、トーマス・ホイットリーはひどく苛立っていた。
 この部屋に目の前の男を連れてきたときには、こんなに事態が長引くとは思ってもいなかったのだ。だが、大方の予測に反しニコルズは、日々しぶとく悠々と構え、時には楽しんでいるのではないか、と疑いたくなることさえある。日に日に苛立っていくのは自分のほうだったし、おまけに先日、パトリシアが引き起こした途方もない一件が、彼のあせりに拍車をかけていた。
 ホイットリーは、出された紅茶を一気に飲み干すと、前置きもなく頑固な妻の弟に尋ねた。

「チャールズ、どうだ、君の高邁な精神はまだ変わらないのかね」
 いつになく急いた義兄の様子を見て、ニコルズは怪訝な表情になった。
「何かあったのかね?」
「ああ、あったとも。しかも忌々しいことに、それには君の娘も一枚噛んでいるんだぞ!」
「パットが? あの娘に何か? まさか君達……、娘や妻を巻き込んでくれるなと、あれほど幾度も確認したじゃないか。こんな面倒ごとをこうむるのは、わたし一人で十分だ!」
「もちろん、そのつもりだったとも。こんな結果になったのは、君がさっさと首を縦に振らんからだ。それで、まだ気は変わらないか?」
「地所を売るつもりはない。前に言ったとおりだ。ラトランドはこの鉄道事業から手を引き、鉄道債を公正な取引価格の範囲内に戻すべきだ」
「いい加減にしろ! チャールズ! そんなことをすれば、損害をこうむるのはこっちなんだぞ。今までの投資をむざむざ手放せと本気で言うのか、君は!?」
「そんなに苛立っているところを見ると、何か起こったようだな」
 怪訝な顔になったニコルズに、ホイットリーはふんと鼻を鳴らした。

「やれやれ、親がこうなら娘も娘だ。いいとも、教えてやろう。君の娘が行方不明だ。正真正銘のな」
 こう告げられ、さすがのニコルズも顔色を変えた。
「パットが? ……まさか」
「今、市内を捜索中だ。まだ帰ってきたという報告はない。もし見つかったら、すぐこちらに連絡するよう、言いつけてきたがね」
「何があったんだ?」
「あれも馬鹿な娘だ! 実に父親に良く似ているよ。この件に勝手に首を突っ込んできおったんだよ、パトリシアの方からな。そして屋敷から逃げるように姿をくらました。あまつさえ行き先を突き止めて、わざわざ迎えに行ってやったアーノルドに暴漢をけしかけ、怪我まで負わせる始末だ!」
 信じられない、と言うようにニコルズは力なく首を振った。
「だが事実だからな! アーノルドはその男にしたたか殴られ、今日もまだ屋敷で寝込んでおる。かなりの打撲だぞ。しかも、どうやらパトリシアはその暴漢と一緒に逃げたらしい。もう三日も経つが、まだ行方が知れん」
「それでは……、本当なんだな?」

 大きな音を立ててカップを置き、思わず席から立ち上がった妻の弟の、初めて青ざめ慌てふためいた表情を見て、ホイットリーはようやく溜飲が下がるのを感じた。
 どうやら、こちらもかなり神経が高ぶっていたようだ。だが、これはいける。そう内心ほくそえむと、カップを口に運びながら、間を置いてゆっくりと答えた。

「もちろん、全て事実だ。しかも君の娘が出過ぎた真似をしてくれたおかげで、我々の取引が外部に漏れたようでな。一応警察は押さえておいたが、そいつがどこかで余計な口を開かぬうちに、早急に対処しなければならんのだよ。それにはまず……」
 そこで、思わせぶりに頷いてみせる。
「早くこちらの契約を成立させ、事なきを得るのが一番の近道だと思わないかね?」


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17/04/8
いきなり“父ちゃんず”登場ですみません。
次からロイとパットに戻りますので〜。