Prologue

一九一四年 六月 二十八日 サラエボ事件 オーストリア皇太子夫妻暗殺
      七月 二十八日 オーストリア、セルビアに宣戦布告
      八月   四日 イギリス、ドイツに宣戦布告   ……
 
  
一九一五年 五月


 彼が目を覚ました時、辺りは夜明け前の漆黒の闇に覆われたまま、まだ深い眠りの中にあった。
 遠くの針葉樹の森から、かすかにナイチンゲールの声が聞こえてくる。

 静かだった……。
 朝までにはもう少し間があるようだ。

 ロイド・クラインはそっと寝台に片肘ついて上体を起こすと、ベッド脇のテーブルに置かれた小さなランプの火を点した。短く切った鳶色の髪が、その光を受けて濃い金色に輝いて見える。この一年の戸外労働で日焼けした精悍な顔と、たくましさを増した体が、白壁に大きなシルエットを描いて浮かび上がった。
 壁の隅には、カナダ陸軍の軍服が無造作に吊り下げられている。
 身体をがんじがらめにするような緊張感に、眠りの中でさえ付きまとわれた。もうすぐ今日という日が始まる。そう思い出した途端、彼の顎がぐっと引き締まった。
 上体を少し起こした姿勢のまま、彼はベッドの反対側に頭を巡らせた。傍らで眠っている妻のパトリシアに愛しげな視線を向ける。剥き出しの肩から背中へと優美な曲線を描きながら、彼女の裸身がおろしたてのキルトの下に消えていた。

 ロイより三歳年下の彼女は、昨日の誕生日に満二十四歳になった。そしていわゆる『戦時結婚』式を挙げ、ようやく女として完全に花開いたばかりだ。昨夜は二人きりで、結婚後初めて迎えた彼女の誕生日をささやかに祝った。この時勢の中、ウエディングケーキすらろくなものは作れなかったし、華やかなこともあまりできなかったが、二人とも数日後に待っている『今日』という日のことは完全に忘れ去ったかのように、しごく明るく陽気に振る舞ってきた。


 パトリシアの生き生きと輝く黒い瞳と、ほどくと肩から背中まで流れる豊かな黒髪、そして申し分のない美しい顔立ち、さらにそうした目に見える美以上に、明るくて勝ち気で、言い出したら聞かない頑固な面も持ち合わせた彼女の全てが、ただただ愛しかった。こうして寝顔を眺めていると、まだ少女だった頃の懐かしい面影が、今の彼女に重なって見える。
 数時間前、衝かれたように無我夢中で激しく愛し合ったあと、ついに力尽きたように彼の腕の中でことりと眠りに落ちた。その肌の滑らかさとぬくもりを全身に、そして魂にまでも刻み込もうとするかのようにきつく抱き締めたまま、暗闇の中で、彼は身じろぎもせず、長い間起きていた。
 今、束の間のまどろみから目覚めて恋人を見つめる彼の口元には、優しい微笑が浮かんでいる。

 二人が結婚してから、僅か一週間にも満たなかった。パトリシアに焦がれ続けた年月に、彼の心と身体が味わってきた刺すような欲望と飢えを満たすには、あまりにも短い時間だ。だが彼にとっては永遠に記憶に留まる一週間だった。たとえ、この先どうなろうとも、この思い出を心にしっかりと抱きしめてあの世まで持って行けるにちがいない。
 彼女と共に過ごしたこの数夜こそ、魂に焼き付けられた永遠の時間になる。


 この夜が明けた時、いよいよ自分も出発しなければならない……。


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16/12/02