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 その日の午後三時……。
 唯はいつものようにユ家の居間のソファーに座り、姑と娘の様子を眺めていた。

『ほーら、赤ちゃん、ばあばのところまでいらっしゃい、セナちゃん、よーく来たわねぇ』

 柔らかなドットピンクのカバーオールを着た赤ん坊が、広い居間の大きなソファーの脇をすり抜け、高級じゅうたんの上を縦横無尽に這い回っている。
 小さなセナの丸いふっくらした顔を楽しそうに眺めながら声をかけ続けているのはソンウォンの母ミンスクだ。赤ん坊の数歩先に身をかがめ両手を打ち叩きながら満面の笑みを浮かべている。
 韓国人は言葉のみならず文字通り全身で情を表現する。今もこの姑のどこからこんな声が出るのかと、いぶかりたくなるほど甘ったるい声と眼差しで、気まぐれな孫娘に繰り返し呼びかけていた。
 ソンウォンの兄、ソンジョンには男の子しかいない。姑にとってセナは初めての孫娘になる。そのためなのか、あるいはソンウォンの娘だからか、とにかくこの孫は絶対に自分に似ていると言って、生まれた時から大層な溺愛ぶりを発揮していた。



 次男が日本人である唯と結婚すると言い出したとき、策まで弄して真っ向から反対したミンスクだった。
 だが、当のソンウォンがその反対を押し切るようにして結婚した後は、それでも彼女を、ユ家の嫁として認め受け入れてくれていた。

 もちろん、日本嫌いが直ったわけではない。今でも彼女への態度がおそらく一番そっけない。
 だがそれでも、姑らしく色々言葉をかけてくれ、子供が生まれる前から大層世話になっている。
 その一方で、唯もまた当然のごとく自分の実家の十倍以上気を使う羽目になっていた。用はなくとも電話もたびたびかけてご機嫌を伺う。嫁(ミョヌリ)は実家より婚家の事情最優先、という考えがまだまだ健在なこの国だ。
 だが所詮は異邦人、どんなに頑張ってもなかなか韓国女性のようには振る舞えないのも事実だった。


 家庭内行事が年々簡略化されていく日本とは異なり、韓国では旧盆や旧正月をはじめとする伝統的な祭祀や風習がいまだしっかりと生活に根ざし残っている。
 一年暮らす中で、ここでは親族一同が集まる機会も、日本よりはるかに多いことにも改めて気付かされた。
 ユ家の邸に手伝いの人手はいつでもあるにせよ、何か親族行事があるたびに決められた式の準備や食事の采配に責任を持つのは、一家の嫁達の仕事になる。これだけでもかなりの大仕事だった。
 ありがたいことに、唯の義姉になったソンジョンの妻ヘヨンは、不慣れな唯にとても親切に接してくれていた。
 長男夫婦はユ家の邸で父母と同居していたから、行けば大抵いつも顔を合わせる。義母だけでは気詰まりなとき、この義姉に助けられることがたびたびあった。ソンウォンと同年齢のヘヨンは、唯にとって一番気軽に話しやすい相談相手だったし、義母に聞けないことも義姉にこっそり尋ねて解決していた。
 義兄のソンジョンも、いつも鷹揚に「そんなに気を遣わなくても大丈夫ですよ」と言ってくれている。
 さらに、よく集まる顔ぶれの中に、チョルヨンの変わらない笑顔を見つけると、いつも心底ほっとして嬉しくなった。
 今年は、自動車部門の営業部で鍛えられていると言っていた。あと何年か経てば、彼もまたソンウォン達のようにグループの中枢に入る逸材に成長するのだろう。



*** *** ***



 印象派の絵が掛かった壁の向かい側に、ソンジョン・ヘヨン夫妻とその息子の満一歳を祝う大きな写真が掛かっている。更にその隣にはソンウォンと唯の結婚式の写真が、重厚ないぶし銀の額に入れて飾られていた。
 純白のウェディングドレスを着てベールをつけ、椅子に座った唯の傍らに、ソンウォンがシルバーグレーのタキシードに白い蝶ネクタイ姿で立っている。式が始まる直前に、ホテルのスタジオで撮影したものだった。


 本当に大変な結婚式だったわよね……。
 その写真を見るたびに当日を思い出し、今でも少し笑ってしまう。



 ソンウォンと唯が再会するきっかけとなった大宝グループと日本電機サービス社との共同開発新製品。そのお披露目を兼ねたあまりにも盛大すぎる結婚披露セレモニーは、ホテルの会場で多くの賓客を招いて延々と続いていた。
 華やかなシルバーグレーのタキシードを着こなしたソンウォンは、口元に精悍な笑みをたたえて終始堂々と振舞っていた。時折彼女を見つめる目には誇らしさと情愛が溢れている。
 グループの威信に満ちた文字通り贅をつくした披露宴だった。ウェディングドレスの長い裳裾を引いて彼と並んで立っている彼女自身ですら、雰囲気に圧倒され、この場の新婦役が果たして自分に勤まっているのだろうかと、大いに危ぶむ有様だった。
 他ならぬ新郎の熱く優しい眼差しがたびたび向けられていなければ、あの緊張感の中で最後まで持ちこたえられたかどうか、今でも自信がない。
 ソンウォンの身長よりもよほど高いウェディングケーキのカットを済ませ、舞い散る花吹雪の中をようやく披露宴会場から退席する頃には、多くの目とカメラにさらされすぎて心身ともに疲労困憊状態になっていた。だがそれでもまだ式は続いている。今度は外向きではなく、親族だけでやる儀式が待っていた。


 手がすっぽり隠れる長い袖に白赤青の色を玉虫様に配し、肩に金糸刺繍の入った花嫁用の伝統的な赤いチマチョゴリに衣装替えをする。
 それに身を包んだとき、唯は自分が本当に韓国にお嫁に来たのだとつくづく実感した。
 新郎も、タキシードから鳳凰の刺繍が施された赤い肩当てのついた青い韓国服に黒い烏帽子、という伝統衣装に着替えていた。初めて見る彼の韓国服姿に思わず胸が激しく高鳴る。唯の方も、金色の飾りのついたかんざしを挿してきっちりとシニヨンに結った頭に小さな韓国の冠を戴き、耳には冠と揃いの大きな耳飾り、さらに頬と額には独特の化粧が施されていた。可笑しくはないだろうかと、少し心配になる。
 だが彼は唯を見て照れたように微笑み、『意外に似合うな』と呟いた。
 二人が、まるで古えの公子と公主(姫)のように並び立つと、親族一同から惜しみない拍手が贈られる……。


 上座の金屏風の前には、ソンウォンの両親がこれもまた韓国服に着替えて並んで座っていた。新婚の二人が、今まで与えられた父母の情恩への感謝を込めて正式な敬拝を捧げる。上座に置かれた低い横長の台座には干菓子、餅菓子、栗、干しなつめといった祝いの縁起物の数々が、それぞれの種類に分けて八角形の盆にきれいに山積みされていた。
 それが済むと今度は一族に向かい、夫婦としてこれから二人で出発します、と挨拶する意味で礼をする。


 日本の両親や親族もその場に誘われていたが、ハングルの洪水と周りの雰囲気に圧倒されてしまったのか、娘婿の親族達に誰かれ構わずやたら丁寧に何度もお辞儀した挙句、つっかえながら祝福の言葉を述べると、ほうほうの体でホテルに引き上げてしまった。
 無理もない、と唯は密かに思った。できることなら自分もいっしょに帰りたいような気分だったからだ。
 ようやく一族だけで食事となり、丸一日かかった式典から解放されたときには、文字通りふらふらになってしまっていた……。



*** *** ***



 名前を呼ばれているのに気付き、唯は瞬きして、目の前の義母と娘に目を向けた。
 何をぽんやりしてるの、と咎めるように言われ、慌てて立ち上がる。二階の「セナの部屋」に行こうというのだった。
 「セナの部屋」は、義母が整えてくれた新しい子供部屋だった。ショールームからそのまま持ってきたのかと驚いたほど、新しいおもちゃ類とベビー家具が占めている。ソンジョンの子供も時々入り込んできて、一緒に遊んでいた。
 義母の腕に抱かれたセナを見るたび、この子がいてくれて本当によかった、と思わずにはいられない。

 それでもやはり、あれこれ細かいことまで口出しされれば落ち込んでしまうこともある。
 今日のような日はあまり訪問向きではないわね、などと客観的に考えながら、やっと気分が少し浮上した。
 食事をし、テレビを見て手持ち無沙汰に過ごしたあとで、車で再び送られてようやくマンションに帰ってきたのは、夜の9時過ぎだった。



*** *** ***



 はしゃいで疲れたらしく、早々に寝付いた娘の柔らかな丸い頬にそっとキスして、小さな身体をベビーベッドに横たえた。ふんわりした毛布でそっとくるみながら、額にはねた薄茶色の羽毛のような毛先を撫で付けてやる。
 唯にとってほっと息がつけるひと時だ……。娘が起きているときは元気いっぱいどこでも這い回り、手当たり次第に口に物をいれる時期になっていた。お陰で少しも目が離せない。


 寝かしつけてしまうと、部屋を見渡しまた小さなため息をついた。
 薄いピンクのカーテンのついた優しい色合いの部屋。臨月が近付き、お腹の子供が女の子とわかるや、ソンウォンが腕まくりせんばかりに部屋の改装に着手したのだった。
 今、子供が寝息を立てているのはフランス製の洒落た白木のベビーベッド。これからしてそんなに長期間使わないのにもったいない、と思わず彼女が強く抗議したほど値が張る代物だった。だが彼は、真顔になった唯をからかうようにちらっと見やると、またすぐ必要になるかもしれないだろ? と涼しい顔で受け流し注文してしまった。
 さらにベッドと揃いの家具まで次から次へと買いつけて、趣味のいいアートまでかけられると、あっと言う間にインテリア雑誌のグラビアさながらの子供部屋に変わっていた。
 僕らの子供なんだ。これくらいしてやるのは当然だろう? この亭主をあまり舐めないように……。
 はじめてきれいに改装された子供部屋に入った途端目を丸くした唯に、彼は半ばあきれたようにこう言うと、彼女の額に額をこつんと当てて笑った。そのときはもう笑い返すしかなかったけれど、やはり全然基準が違うと密かに舌を巻いたものだ。


 こんなにとびきりのパパやお祖母様を持てて、あなたは本当に幸せね、セナちゃん……。
 しみじみと娘の寝顔に語りかけてから、照明を落とす。


 必要ならベビーシッターや家政婦を頼んでも一向に構わない、と何度も言ってくれている夫の言葉にも頑固に首を横に振り続けてきた。
 主婦なら誰でもやっていることだもの、絶対大丈夫。セナの世話も家事も自分でやりたいから。
 そう強いて明るく返事をしつつ、ここ数ヶ月、絶え間ない家事と育児に文字通り没頭してきたのだ。
 そうでもしていなければ、今の暮らしの中で自分の位置が見えなくなってしまいそうで、少し怖かったのかもしれない。

 でもその結果、自分のことは完璧に後回しになっていたみたいね、と今さらながらに気が付く。
 これじゃソンウォンさんにそのうち愛想をつかされてしまうわよ、と自分を軽く戒めてから、壁の時計を見た。

 今日はあの人、何時に帰るのかしら。

 せめて、帰ってきたとき少し話ができるよう、軽くつまめるものでも準備しておこう。
 そう考えながらスプリングコートを羽織り、傘と財布を手に外に出た。

 一日中降りしきっていた雨も、ほとんどやみかけていた。夜空に雲が切れながら急速に東へ流れていくのが見える。


 マンションの前に出たとき、ちょうど一台の白い車が滑るように入って来て近くで停まった。道路沿いのオレンジ色の灯りを背に、車からソンウォンが降りてくるのを見て思わず立ち止まる。

 誰かに送ってもらったの? 自分の車はどうしたのかしら。

 声をかけようとしたとき、車の運転席の窓が開いた。
 見間違うはずもない。キム・テーファが以前と少しも変わらない魅力的な微笑をたたえて、ソンウォンを見上げている。

 ……いったいどういうこと? どうしてテーファさんが……。

 訳がわからず、唯は一瞬その場に呆然と立ちすくんでしまった。
 ソンウォンはテーファと笑顔で何か話している。
 彼の顔にふと浮かんだ優しい表情を目にし、唯は更に衝撃を覚えた。我知らず足が震えてくる。
 やがて、再び発進した車を見送って、彼がこちらを振り向いた。

『……唯?』

 いぶかしげに名前を呼ばれ、咄嗟に夫の顔も見ずにきびすを返す。
『おい、待てよ!』
 少し慌てたように制止する声も聞かず、唯はマンションとは反対方向へと駆け出してしまっていた……。



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