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 家族水入らずで過ごす休日の午後ほど、貴重なものはない……。

 普段、朝から夜遅くまで仕事に忙殺されている夫を持つ妻にとり、それは何よりかけがえのないひとときだ。もっとも、そんな主張をしても、ユ家の男にかかれば笑い飛ばされるだけかもしれないけれど……。



*** *** ***



 まだ舌がよく回らないながら、片言の口数だけは増えた小さなセナが、音楽にあわせてぽっちゃりした手を懸命に動かし、覚えたてのダンスを披露していた。
 大好きなパパが珍しく家に居るせいか、セナはいつもより数段はしゃいで張り切っていた。くるくる回ってどうにかフィニッシュを決めると、ソンウォンが笑いながら惜しみなく拍手を送る。

『セナ、お前うまくなったじゃないか。いつの間にそんなの覚えたんだ?』
 大げさな声を上げて、おいで、と両腕を広げて娘を呼ぶ。セナが『アッパー』パパと言いながら飛びつくと、二人は一緒にラグに転がった。夫の笑い声が、娘の声に重なって、広いリビングに明るく響いている。
 唯にとって、それは何よりも大切な情景だった。見ているだけで、自然に笑みが浮かんでくる。たっぷり遊んでもらって疲れたのだろう。眠くなったセナがあっという間にパパの膝で寝付いてしまうと、ソンウォンは『やれやれ』と、半ばほっとした表情で子供部屋に寝かしつけに行った。
 彼が戻ってくるのを待ちながら、唯はコーヒーを淹れた。
 ワッフルとチョコチップクッキーがあるけど、どっちがいいかしら……。


『お疲れ様。セナったら大喜びだったわね。はい、これ』
 ふぅ、と息を吐いてリビングのソファーに再び落ち着いた夫の前に、熱いブラックコーヒーとクッキーを置く。
 カップを口に運びながら、彼がふと呟いた。
『もう三歳(満二歳)になったんだな。あのちびすけがいつの間にか成長したもんだ』
『あら、急に父親の感傷?』
『別に感傷ってほどでもないさ。ほら、セナオンマ、突っ立ってないでここに座れよ』
 促され、自分のカップを手に隣に座った途端、彼の手がマグカップを取り上げテーブルに置いた。
 え? と顔を向けるのとほとんど同時に、肩に我が物顔の強い腕がかかった。いきなりぐいと引き寄せられる。
 気が付いたときには、すでに唇を奪われていた。芳醇なコーヒーの味がするキス。心行くまで彼女の唇を味わった後、ようやく顔を上げたとき、ソンウォンの目には、思わずどきりとするような優しく深い色が浮かんでいた。
 まるで引きこまれるように、じっと見つめ返してしまう。

 隣にゆったりと座って、何の遠慮もせずに好きなだけ夫を眺められる……。

 当たり前のことだけれど、これは妻だけに許された極上のぜいたくでもある。
 そういえば、彼がこんなにリラックスしているのも久し振りかもしれない。今四半期は、責任を持っていた大きな取引のせいで、いつもどこか緊張し、心がビジネスに飛んでいたような気がする。
 32歳になったソンウォンは、大宝グループの中枢に立ち、もっぱら海外事業の指揮を取っていた。彼自身は滅多に仕事内容など話さないが、従弟のチョルヨンによれば、次々とグループの海外向けビジネスプランを打ち出し、先頭に立って展開しているらしい。
 相変わらずの激務にも負けない強靭な肉体には、無駄な贅肉などまったくない。結婚した頃より幾分落ち着いた雰囲気をまとった気はするが、とても魅力的なのは少しも変わらなかった。とうに見慣れた自分でさえ、時々はっとするほどに。
 表面上、少し穏やかになったかと思っていると、ベッドではむしろそれまで以上の情熱で求められたりする。
 この人への恋は、きっと一生終わることなく続くのだろう。彼を見るたびそう思う……。



*** *** ***



 唯、と呼ばれ、瞬きしながら夫を見た。

『ぼんやりしてどうした? 何か話があるんだろ?』
『ええ、そう。そうなの! 実は……ね』
 勢い込んで話しかけてから、またためらって口ごもった唯を揶揄するように、彼は指先で頬をつついた。
『今ニヤニヤしたかと思えば、次はもったいぶって……。何なんだ? いや、待てよ。そうか! もしかして、ついに二人目か? それはすごいぞ! やったな、唯!』
 急にとんでもない結論に飛びついたソンウォンから、嬉しそうに抱き締められ、唯は目を丸くしてその腕の中でもがいた。
『えええっ? ち、違うわよ。ちょっと、ソンウォンさんってば!』
『……だろうな。わかってるさ』
 わざとらしくため息をついて、少しがっかりしたように手が下がる。夫がもう一人か二人、子供を、できれば男の子を欲しがっているのはよく知っている。さりげなく聞かれるたび、少し申し訳ない思いになるほどだ。
『それじゃ何だい?』
『実は……、この前ね……』

 そのとき、ふいにローテーブルに置かれた彼の携帯が鳴った。
 ちょっと待って、と唯を制し、ソンウォンが番号を確認する。
『社長秘書だな』
 携帯を開いた途端、それまで和んでいた表情がたちまちやり手ビジネスマンの顔に変わる。
 続く長い会話の間、淹れたコーヒーがどんどん冷めていくのを虚しく眺め、唯は次第に物悲しくなっていた。
 ああ、また出張の話ね……。
 社長秘書もまったく気がきかない。どうせ電話するにしても、あと30分どうして待ってくれなかったのだろう。
 ソンウォンもソンウォンだ。二週間ぶりの休日くらい、仕事は一切抜きで、ゆっくり過ごせないものだろうか。
 ワーカホリックって、こういう人達のことを言うんだわ。


 苛立ちが急激に膨らんでくる。そういう時に限って電話は延々と続き、同じ時間が一層長く感じられた。そして彼女も気付かないうちに、いつしか忍耐が限度に達してしまったようだ。
 パチンと携帯が閉じられた途端、唯は衝動的に立ち上がった。
 冷ややかな目で夫を見下ろした彼女の口から、思いがけない言葉が飛び出す。

『聞こえたから、わたしにいちいち説明する必要はないわよ。また出かけるんでしょう? 今度はドコにご出張? 日本? 中国? それともドイツあたりかしら? "ほんの一週間"? ええ、そうよね。いっそ一、二か月くらいあなたがいなければ、わたしも自分の好き勝手にできてちょうどいいかもしれないわ。そうなさったら?』
『唯……?』
 急に怒りに燃えたようにまくし立て始めた妻を前に、ソンウォンが呆然と言葉を失ったように目を見張る。途端にはっとした。今の今、口に出すまでこれほど不満が募っていたとは、自分でも気付かなかったからだ。
 そして無意識に鬱積した感情の力は、時に恐ろしいほどの無謀さを発揮する。彼を理解していた理性の歯止めなど、その瞬間、大空の彼方まで吹き飛ばされて、まるでぐらぐらと煮え立ったスープ鍋のごとく、火を消す暇もなくどっと噴き零れてしまった。

『もう結構! あなたはどこへでも行ってしたいようにすればいいわ! わたしはわたしで勝手にやるから。わたしやセナと遊んでる暇なんか、本当はこれっぽっちもないんでしょ? どうぞ、わたし達のことはお構いなく。さっさと出かけてちょうだい!』

 彼が怒ったように大きく息を吸い込むのが聞こえた。同時に唯自身、吐き出してしまった言葉の激しさに驚いて後ずさる。
 いけない……、今のは言い過ぎだ。引っ込みが付かなくなって、ただ逃げるようにリビングから駆け出した。
『唯! 待て、おい!』
 背後からあせるように呼びとめる声が聞こえたが、無視してそのまま寝室に飛び込むと、中から鍵をかけてしまう。
 彼も別に追いかけてはこないようだ。


 はぁ、と息をつくなり、唯はへなへなとベッドに座り込んでしまった。
 やり場のない苛立ちをベッドの枕にぶつけるように何度も叩いてから、急にそれを抱きかかえ、また投げ出す。どうにも落ち着かない気分だ。

 ああ、まったく……。こんなかんしゃくを起こすなんて信じられない。
 今頃は彼と二人きりで、リビングでゆっくりと話をしながら、二週間ぶりのコーヒーブレイクを楽しんでいるはずだったのに。
 少なくとも今みたいに、寝室で一人ぼんやりしている予定ではなかった。
 ……どうしてこうなってしまうんだろう。



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